アナログ派の愉しみ/本◎『内村鑑三先生御遺墨帖』

桜の花は開いたり
日本魂は開いたり


自分で言うのもなんだがついぞ物欲を持ちあわせず、とくに古書蒐集といった趣味もないわたしのもとに毎年、大判でカラー口絵を含めて本文120ページほどもある立派な古書目録が届く。北海道大学の正門前にあるという弘南堂書店からなのだが、実のところ、こちらの店へ足を運んだことさえなく、もう10年近く前、ネットの古書サイトを介して一冊の本を取り寄せただけの縁なのだからまことに義理堅い話だ。

 
それが『内村鑑三先生御遺墨帖』で、わたしの所有する唯一の稀覯書と言っていい。稀代のキリスト者、内村鑑三が世を去って10年あまりが経ったころ、その弟子の長谷川周治が中心となって師の揮毫、原稿、葉書・年賀状、メモなど100点あまりの肉筆を集成し、B4判の厚紙の片面ずつに写真版で再現してリボンで綴じあわせたうえ、別冊解説書を添えたという豪勢なしつらえだ。奥付には「非売品/限定一千部之中第三八三号」とあり、「昭和十六年五月三十日発行」とされているから、太平洋戦争がはじまるざっと半年前のことで、すでに物資も窮迫していたはずの非常時下でよくこれだけのものを制作できたと感心してしまう。

 
長谷川は序文に、内村が毛筆を苦手にして、よほどの場合のみ揮毫に応じていた事情を記しているけれど、確かに収録された数々の筆跡はお世辞にもうまいと言えず、小学生でも手習いしたらもっと巧みに書いてのけるだろうと思わせる。しかし、そこにはハナから上手に書こう、他人に誇ろうといった意識がなく、おのれの感懐のまま率直に筆をふるった態度がまざまざと見て取れるのである(もともと、内村の伝記でこうした放胆な筆跡の図版を目に留めたことが、本書を入手したいと考えた動機だ)。

 
当然ながら揮毫された文言には聖書由来の格言が多い。だからと言って、なかには首をかしげたくなるものもある。

 
 汝勿盗

 
こう金釘流でしたためられたのは、もちろん旧約聖書におけるモーゼの十戒のひとつであるが、一体、「なんじぬすむなかれ」と綴った色紙を受け取って、喜んで床の間に飾ったりする者がいるだろうか?

 
だが、そんな世知辛い思惑を蹴飛ばすかのような気迫のこもった文字を前にすると、どうやら簡単な話ではなさそうだ、という思いが湧き上がってくるのだ。ひとはだれでも他人のモノやココロを盗んで生きている、そうしないと生きていけないのが実情ではないか、だとしたら、神が命じたこの戒めに対して、自分は盗みなんか働いていないと開き直るのではなく、これまでさんざん盗みを働いてきたと受け止め、わが身のぶざまさに痛みを覚えることのほうが肝心だろう、と――。まったく不思議なパワーだ。

 
もうひとつ、強烈な印象を受けたものを引こう。この「桜」と題した詩文が、高らかに軍靴の足音が鳴り響きつつある時期に書かれたことを考えると、自然と背筋が伸びずにはいられない。

 
 開いたり、開いたり、桜の花は開いたり、日本魂は開いたり、嗚呼何と美いかな。
 開いたり、開いたり、桜の花は開いたり、然れども三日を出でずして取り去らんため、人畜を養ふに足る実一つをも遺さずして。
 開いたり、開いたり、桜の花は開いたり、日本魂は開いたり、然れども余は栗、柿(渋柿にても可なり)、林檎、香橙(刺あるも可なり)たらんと欲するも桜たらんと欲せざるなり。

 
果たして、内村は当時の世相に向かってだけ筆鋒を振りかざしたのだろうか? わたしには、そうした過去を遠い忘却の彼方に追いやり、いまや桜の季節がめぐってきてもとかく花見のことしか頭に浮かばない、われわれの慢心をも叱咤しているように感じられてならないのである。

 
ところで、先日届いた弘南堂古書目録の最新の第64号を開いてみたら、「ホームの建設と基督教」と題した内村鑑三の自筆原稿(ペン字、400字詰め10枚)が掲載されているではないか。大正12年6月24日に東京女子基督教青年会で行った講演用とのこと。幸田露伴、斎藤茂吉、与謝野晶子、室生犀星、正宗白鳥、菊池寛、佐藤春夫、内田百閒といった面々の自筆原稿もずらり並ぶなかで、他を圧して605,000円の最高額となっている。それに見惚れるうち、わたしの物欲がむくむくと頭をもたげてきて……。


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