アナログ派の愉しみ/映画◎オーソン・ウェルズ監督・主演『市民ケーン』

ハリウッド映画の
ベストワンに君臨する理由


オーソン・ウェルズ監督・主演の『市民ケーン』(1941年)は、しばしばハリウッド映画のベストワンに挙げられる。日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した年に封切られたこのモノクロームの作品を、わたしもこれまで繰り返し鑑賞して、そのたびにスクリーンの隅々まで間然するところのない映像表現の見事さに圧倒されてきたが、ただ、いまの年齢になってみると首を傾げずにはいられないところも出てきた。

 
この映画はアメリカの新聞王、ウィリアム・ハーストをモデルとしているが、作品が完成したときに本人はまだ健在で、怒髪天を衝いたあまり執拗なまでに劇場公開を妨害したことが知られている。だが、映画では主人公のチャールズ・ケーン(ウェルズ)がすっかり落ちぶれ、フロリダの荒れ果てた大邸宅で寂しく息を引き取るシーンからはじまる。いまわの際に、手から小さなスノードームを取り落とし、ぼそぼそと「バラのつぼみ」とつぶやきながら。それを伝え聞いたジャーナリストが、ダイイング・メッセージの意味を解き明かそうと、故人の生前を知る関係者たちに取材してまわる形式でストーリーが進んでいく。

 
ケーンは幼いころに莫大な財産相続の権利を得たことから、母親の判断で銀行家の後見人のもとに預けられ、やがて成人に達して親友(ジョゼフ・コットン)と新聞社の経営に乗りだすと、報道の真偽にこだわらないセンセーショナリズムによってまたたく間に部数を伸ばし、さらにいくつもの新聞を買収してのしあがっていく。のみならず、世論操作をバックに政界進出の野心も滾らせて、現職大統領の姪と結婚したうえでニューヨーク州の知事選挙に打って出るが、偶然知りあったオペラ歌手のタマゴ(ドロシー・カミンゴア)を愛人としたことから、投票日直前にスキャンダルとなって落選の憂き目を見る。

 
その後はすっかり運命が暗転して、妻が子どもを連れて離別したのち、愛人を後妻に迎えて、そのためにオペラハウスまで建設したものの、当人は分不相応な立場に苦しんでクスリ漬けになったあげく、ケーンの懇願も聞き入れずに去っていく。こうした紆余曲折を経て冒頭のもの悲しいエピソードにつながるわけだが、最後のシーンでは、大邸宅に残されたガラクタが片っ端から火にくべられていくなかに、かれが幼い日に愛用した木製のそりの玩具もあって、そこに「バラのつぼみ」というロゴマークが印刷されていた……。

 
そのとおり、わたしもいまやケーンが死を遂げた年齢に近づいて、どうしても納得のいかないのがこのオチなのだ。ともかくもあれだけ放埓きわまりないダイナミックな生涯を送った人物が、最後の瞬間において無垢な童心に立ち返るといった反応を見せるものだろうか? そんな疑問がふつふつと胸中に湧いてきた矢先に、この「バラのつぼみ」にはまったく別の意味が秘められていたことを知った。なんと、実在のハーストが35歳年下の女優のタマゴを愛人として、そのかぐわしい女性器(アメリカの俗語でいう「プッシー」)を賛美して用いた呼称だというのだ!

 
つまり、こういうことらしい。そもそもオーソン・ウェルズがこの映画の企画を思いついた出発点に「バラのつぼみ」の言葉があり、その強烈なインパクトが創作意欲を刺激して破天荒な傑作をつくりあげる原動力になったという順序で、したがって、ハースト本人が激怒して妨害工作に出たのもごく当然の成り行きだったろう。さらにまた、ハリウッド黄金期の観客たちはこうした事情をとうに知ったうえで、ウェルズの向こう見ずな反骨精神に喝采を送った、と考えればわたしも腑に落ちるのである。

 
いや、それだけじゃない。映画のなかのケーンは世界恐慌によって破産に瀕すると、こんなふうに述懐する。

 
「ぼくは母に間違った育てられ方をしたんだ」

 
みずからも幼くして母親と死別したウェルズは、どうやら「バラのつぼみ」のセリフをケーンの母親に対しても向けさせていたようで、そう考えるなら、かれの手が取り落としたスノードームのガラス玉は子宮のメタファーだったと理解できる。いくら世間で絶大な権勢を誇った巨人であれ、とどのつまり母親の女性器からも愛人の女性器からも疎外された愛の不毛の境地をさまようしかない。そんな孤独地獄をあからさまに描きだし、期せずして普遍的なテーマに到達してしまったことが、いまだに『市民ケーン』をハリウッド映画のベストワンに君臨させている理由ではないだろうか? ウェルズの天才をもってしても、ついにこの25歳のときのデビュー作を超える作品をつくることができなかったのだから。


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