アナログ派の愉しみ/本◎アーサー・C・クラーク著『幼年期の終り』

われわれもしょせん
サルでしかないとは……


『2001年宇宙の旅』の原型とも見なせるだろう、アーサー・C・クラークの初期の長篇小説『幼年期の終わり』(1952年)は、よほど三島由紀夫の神経を逆撫でしたらしい。自衛隊に乱入して自決を果たす直前のエッセイ『小説とは何か』(1970年)のなかで、みずからが中央公論新人賞の選考に携わった深沢七郎のデビュー作『楢山節考』について、文句なしの傑作だが「それは不快な傑作であった」と回想したのちに、こんなふうに議論を運んでいるのだ。

 
「私はその後、もう一度このような体験をしたことがあるが、それはアーサー・クラークのSF『幼年期の終り』を読んだときであった。〔中略〕徹頭徹尾知的な作物である点で、『楢山節考』とは正に対蹠的でありながら、その読後感のいいしれぬ不快感は共通しているのである」

 
そして、かなりの筆を割いてストーリーを追ってから、宇宙からやってきて人間の世界を支配する「上帝(オーバーロード)」が悪魔の外見をしているとの設定をめぐり「キリスト教信者がこの小説を読んだときの不快はさこそと察せられる」と結んでいる。すなわち、欧米の一般読者にとって不快であろう理由を説明しただけで、自分自身が「いいしれぬ不快感」を抱いた事情に関しては一切語っていない。それだけ三島の不快感は深刻だったのだろう。

 
ざっとこんな筋書きだ。あたかも米ソが宇宙への進出をめざしてしのぎを削っていたさなか、突如、世界各地の天空に巨大な円盤が現れて、宇宙人たちは決して姿を見せないながら、圧倒的な科学技術の差を背景として地球を制圧する。その代表を人々は「上帝」と呼び、かれの指令によって世界は国連のもとに秩序化されて、国家や民族の自決権を失う代わりに平和で豊かな暮らしを享受するようになる。

 
やがて半世紀が経過して、人類がすっかり馴染んだタイミングで「上帝」はついに円盤から出現し、それは三島が強調したとおり角と尾を持つ悪魔の外見をしていた。つまり、かれらは遠い過去にも地球を訪れて人類と接触したことがあり、その記憶が悪魔の伝承となって今日まで語り継がれてきたらしい。そんな宇宙人がふたたびやってきた目的とは、かつて人類が知性を獲得するのを手助けしたように、今度はさらに高い次元への進化をサポートするためだった。これまでの旧人類はもはや無用の存在で地球上に置き去りにされ、いまや誕生しつつある子どもたちが新人類として宇宙へ雄飛していくことになる。「上帝」は世界に向かってこう告げるのだ。

 
「あと数年のうちに、この変化は完了する。そして人類は、真二つに引き裂かれてしまう。しかも、そこから引き返す道はないのだ。そして、あなたがたの知っているこの世界には未来もないのだ。地球人類の希望や夢は、ここにすべて潰えたのだ。地球人類は後継者を生んだ。だが悲しいかな、地球人は、自らの後継者を理解できないのだ――心と心のきずなさえ持ってないのだ。事実、彼らは、現在のあなたがたの知っているような形での心を持たないのだ。あなたがたが無数の細胞集団の総計であるのに対し、彼らはただ一個の実在となる。あなたがたには、彼らを人間とは思えなくなるだろう。実はその通りなのだ」(福島正実訳)

 
進化の不可逆的なプロセス。かつて同じ祖先から分岐したヒトに対して、サルがもはやなす術もなく仰ぎ見ることしかできないように、今度はヒトであるわれわれが進化の落ちこぼれとなって未来の世代を仰ぎ見ることしかできなくなるというビジョンを突きつけられて、プライドの高い三島は「いいしれぬ不快感」を催したのではなかったか。われわれもしょせんサルでしかない……。そうした進化のリアリズムを、他方では受け入れずにはいられないかれの心性が自己を分裂させて、若い青年たちを引き連れてのあの最後の行動につながったと理解するのは穿ちすぎだろうか。

 
余談ながら個人的な思い出をひとつ。大学4年の就職活動のとき筆記試験で、印象に残った本について英語で説明を求める問題が出た。わたしは面食らいながらも咄嗟に、
 CHILDHOOD`S END
と書きつけた。そのあとにどう続けたかの記憶はないし、なんらかの評価に値したという自信はさらにないのだけれど、ともかくも合格通知が届いたことで、三島のようなプライドと縁のないわたしはいまだにこの作品に親愛の情を捧げているのである。

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