アナログ派の愉しみ/映画◎ブライアン・シンガー監督『ボヘミアン・ラプソディ』

極東の島国で
大ヒットを記録した理由とは?


いまから振り返ってみると、ブライアン・シンガー監督の映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)について日本でのフィーバーぶりは常軌を逸していたように映る。公開から75日目(2019年1月22日)で興行収入100億円(約727万人)を突破し、インターナショナル第1位(全米を除く)を占めたことがニュースとなり、クイーンの母国イギリスをはじめ世界から驚嘆の目を向けられたものだ。かく言うわたしも、妻に誘われて最寄りのシネコンへ出かけ、満員の客席に身を置きながら、それまでかれらの音楽になんの関心もなかったのに、気づいたときには頬を熱い涙が濡らしたことを記憶している。

 
伝説的なロック・バンド、クイーンのリード・ヴォーカルだったフレディ・マーキュリーの生きざまを再現したドラマ。1971年に4人のバンドを結成してから、栄光と挫折のめまぐるしい転変に翻弄されたあげく、1985年グループ解散の危機に瀕して臨んだチャリティコンサート「ライヴ・エイド」の白熱のステージをクライマックスとして、最後は1991年のエイズによる45歳の死で結ばれる。その怒涛の生涯を、主役のラミ・マレックはフレディ本人が憑依したかのように演じてのけた。

 
それにしても、フレディが世を去ってとうに約30年が経過していた当時、わたしと同様に現役時代を知らない人々も巻き込み、極東の島国でなんだってあれだけの反響を呼んだのだろうか?

 
あらためて映画の歴史を顧みると、サイレントからトーキーの時代へと移るなり『未完成交響楽』(1933年)や『オーケストラの少女』(1937年)などが登場し、その後、こうした作曲家・演奏家をテーマとする「音楽映画」が豊饒なジャンルを形成してきた。音楽とは、時間の芸術だ。ルネサンス以降のヨーロッパでは、旋律(メロディ)、和声(ハーモニー)、律動(リズム)という基本の三要素をあれこれと組み立て、音楽の構造化を図ってきた。それは、時間に対する聴覚の構造化とも言えるだろう。近代になって登場した映画もまた時間の芸術であり、時間に対する視覚の構造化と見なすならば、両者の親和性が高かったのは当然だ。『ボヘミアン・ラプソディ』も、そうした「音楽映画」の数々の名作に連なるものとして現れたのだ。

 
そこで、日本の事情はどうだろうか。たとえば、雅楽や声明、能の謡、歌舞伎の長唄などの伝統音楽を眺めると、時間に対して構造化しようとする意思はあまり見られない。むしろ、そうした方向を拒むかのように、いつ始まっていつ終わるといった形さえあえてボカし、さながら自然界の音と一体になろうとしているかのようだ。こうした感覚はわれわれのDNAに深く刻まれて、おいそれとは変化しまい。だから、映画が発明されてすぐにこのメディアを受容し、欧米に伍して活発な創作を行ってきたにもかかわらず、「音楽映画」のジャンルには今日に至るまでほとんど見るべき作品がないのだろう。『ボヘミアン・ラプソディ』についても、実のところ、いまだに明治維新でヨーロッパ音楽と出会ったときの感嘆に近いものを受け止めたのではないか。

 
さらにつけ加えると、日本の精神風土では、そうした時間に対する個別の構造化が避けられる代わりに、時間の流れを大きく区切ることで社会的に構造化しているのではないか。その象徴が、現在では世界で唯一の「元号」の制度だ。平成の始めに世を去ったスーパースターを描いた映画が、平成の終わりというタイミングで公開されたことも、記録的なヒットをもたらした結果とあながち無縁ではない、とわたしは思う。

 
それにしても、今日、この作品への関心がすっかり消えてしまったようなのはどうしたわけだろう?
 

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