アナログ派の愉しみ/本◎E・H・カー著『歴史とは何か』

歴史とは過去と現在の対話である――
そこに日韓両国の現状打開のヒントが


開いた口がふさがらなかった。ヤン・ウソク監督の映画『弁護人』(2013年)を観ていたときのことだ。これは、韓国で1981年に国家保安法の罪名のもとに22人の学生が不法逮捕・拘禁された「釜林(プリム)事件」について、のちに大統領となる盧武鉉(ノ・ムヒョン)がモデルの弁護士の目をとおして、その内実を赤裸々に暴きだしたものだ。わたしが思わず大口を開けてしまったのは、かれら学生たちが「赤色分子」と見なされたのは、内輪の読書会でカーの『歴史とは何か』を取り上げたことが理由だったからだ。

 
イギリスの歴史家エドワード・ハレット・カーのケンブリッジ大学における連続公演(1961年)をまとめたこの本は、著者がロシア革命史を研究して、ソ連を二度訪問した経歴があったために、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領の独裁政権下で有害図書とされる。その結果、昭和前期の特高警察さながらに、当時の公安当局が学生たちを「アカ」と罵って殴る蹴る、水攻めにするといった容赦ない拷問が行われた。実は、『歴史とは何か』は日本では清水幾太郎訳で岩波新書となり、広く推薦図書に挙げられて、ちょうど「釜林事件」の時代にわたしも当たり前に読んだ記憶があっただけに、隣国との彼我の差に驚愕したのだ。

 
その韓国と日本とはもう久しく、従軍慰安婦や徴用工の問題をめぐる「歴史認識」の対立により、いまだに解決の糸口が見出せないという異常事態が続いている。双方が自分の見解に固執して相手の非を鳴らすだけの、世界から見れば幼稚な子どもの喧嘩のごとく映っているだろう。これを『歴史とは何か』に照らすなら、いまや現状打開に求められるのは「歴史認識」ではなく「歴史哲学」ということになる。過去に関して異なる見解をぶつけあうより先に、そもそも歴史とは何であり、わたしたちは歴史とどう対峙すればいいのか、そうした根本的な哲学を双方が共有することが必要だ、と――。

 
本書では、「歴史哲学」の広範な視野を展望しようと、これまでさまざまな歴史家によって提起された論点を取り上げて検証していく。その丹念な引用は少々退屈を覚えるほどなのだが、しかし、そこに日韓両国の現状を重ねあわせるといかにも含蓄深く、俄然光彩を放つように思えるから不思議だ。いくつかピックアップしてみよう。

 
 言ってみれば、片目を現在に向けながら過去を研究することこそ、歴史における一切の罪と詭弁との根源である。……これが『非歴史的』という言葉の本質的な意味である。
(ハーバート・バターフィールド)

 
 歴史というのは、他の時代の不都合な影響から私たちを救い出すだけでなく、われわれ自身の時代の不都合な影響から、環境の圧政から、われわれの呼吸する空気の圧力からも私たちを救い出すようなものでなければならない。
(ジョン・アクトン)

 
 時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向って成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ。
(ゲーテ)

 
どうだろう? これまで人類が積み重ねてきた叡智の道筋を辿りながら、著者は「歴史とは過去と現在との間の対話である」という有名なテーゼを繰り返し力説するのだが、こうした「歴史哲学」の土台に立ってこそ、日韓両国の未来にとって新たなヒントを見出せるのではないか。

 
しかし、とわたしは疑う。いまの日本で、韓国の「歴史認識」に対しては目を剥くけれども、どれだけの(学生にかぎらず社会一般の)人々がこの本に関心を寄せるだろう? あるいはまた、韓国においてもこの映画で描かれたように、かつてこの本を読むことが命懸けだった時代には真剣に手を伸ばしたものの、だれ憚らず読めるようになった現在はどれだけの(学生にかぎらず社会一般の)人々がひもとくだろう? まさに日韓両国に「歴史哲学」の共有が求められる局面にあって、もしそれから目を背けるという点においては彼我の差がないとしたら、あまりにも情けない。


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