アナログ派の愉しみ/音楽◎ストラヴィンスキー作曲『春の祭典』

その初演が凄まじい
大混乱を引き起こした原因とは


イーゴリ・ストラヴィンスキーは、1882年にロシアのサンクトペテルブルク近郊で貴族の家系に生まれ、リムスキー=コルサコフらに音楽を学んだのち、ボリシェビキ革命前夜の不穏な時代状況のもとで原始主義の作曲家として頭角を現す。その代表作『春の祭典』の初演が凄まじい大混乱を引き起こしたことは、クラシック音楽史上屈指のスキャンダルとして知られている。

 
この作品は、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主催者ディアギレフの依頼によってつくられた、『火の鳥』『ペトルーシュカ』に続く三つめのバレエ音楽で、キリスト教以前の異教に支配された古代ロシアの春を迎える儀式を描いたもの。第一部【大地礼賛】は、序奏/春の兆しと乙女たちの踊り/誘拐の遊戯/春の輪舞/敵の部族の遊戯/長老の行進/長老の大地への接吻/大地の踊り、第二部【生贄の儀式】は、序奏/乙女たちの神秘的な集い/選ばれた乙女への賛美/祖先の霊の呼び出し/祖先の儀式/生贄の踊り(選ばれた処女)から構成され、演奏時間約35分を要する。初演は1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場。客席にはサン=サーンスやドビュッシー、ラヴェルらの面々も迎えて幕を開け、演奏とバレエがはじまったとたん阿鼻叫喚が湧き上がり、観客同士の殴り合いで怪我人まで出る始末となった。

 
このとき指揮を担当したピエール・モントゥーが、のちにボストン交響楽団と演奏した録音(1951年)を聴いてみよう。序奏のファゴットが裏声を絞り出すような導入部に続き、にわかにオーケストラのあちらこちらで変拍子が刻まれて――。

 
「音は単調な旋律の繰り返しであった。どどんこ、どん、どん、どどんこ、どん、どん、というように一貫して、ほかに変化はなかった。しかし、聞く者には、この音が諸方から耳に乱れてはいり、混雑した祭の錯綜に浸らせた。〔中略〕離れた所で遠く聞いた方が、喧騒な音を低くし、統一し、鈍い、妖気のこもった調和音となって伝わった。そこで聞いた方が、その中心にいるよりも、よけいに祭典を感じさせた」

 
上記は松本清張の『黒地の絵』(1958年)の一節で、著者が生まれ育った北九州・小倉の夏の祇園祭の名物である「小倉祇園太鼓」のようすを描いた部分だ。あえて引用したのは他でもない、およそジャンルの異なる音楽であれ、わたしにはまるでモントゥー指揮の『春の祭典』の印象についても言い表しているような気がするのだ。

 
この短篇小説は、1950年7月に小倉市内の米軍キャンプから約250名の黒人兵が脱走して、周囲の民家で暴行や強盗などを働いた実際の事件を題材としている。著者は、当夜に打ち鳴らされていた太鼓の音を発生原因のひとつに挙げ、近々朝鮮戦争の最前線へ送り込まれて生還の望めないかれらの心理にそれが作用して陶酔的な舞踏本能をそそのかし、ついには遠い祖先より受け継いできた野生の血が沸騰して、ときならぬ集団暴動につながったと推理してみせる。

 
『春の祭典』の初演は、第一次世界大戦の前年のことだった。ヨーロッパ全土を戦火が襲う絶望の足音が迫ってくるなかで、ストラヴィンスキーの新たな原始主義の音楽は、それに初めて出会った人々にとって鑑賞の対象などではなく、みずからの体内の奥深くに秘匿してきたものを呼び起こす舞踏のリズムとして現れ、かれらもまた否応もなく野生の血が騒ぎだして制御不能に陥ったのが大混乱の真相ではないだろうか。それから100年あまり、当時は難解といわれたこの曲も演奏が積み重ねられていくうちにオーケストラ・コンサートの定番レパートリーとなりおおせて、もはや昔日のスキャンダルを想起させる気配はない。せいぜい、モントゥーの録音にそのはるかなこだまが聞き取れるぐらいだ。

 
今日のわれわれは『春の祭典』と向きあって、いくばくか興奮を催しても野生の血が目覚めることは決してないだろう。この古代ロシアの処女の生贄の儀式を描写した音楽に、子どもからお年寄りまで安心して耳を傾けられる。それはきっと幸せなことなのだろう、それとも……。
 

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