アナログ派の愉しみ/映画◎フォ・ジェンチイ監督『山の郵便配達』

もはや失われた
父から子へ職業が伝承されていく光景


唐代の自然派詩人・王維は、秦嶺山脈に聳えたつ「終南山」をこう描写している。

 
 白雲廻望合
 青靄入看無
 分野中峯変
 陰晴衆壑殊
 
 白雲は眺め渡すと一つに合わさり、
 青い靄はその中に入ると消えてしまう。
 峰々のなかで地に対応する天界の分野は異なり、
 多くの谷は天候がそれぞれ違う。
 (川合康三訳)

 
フォ・ジェンチイ(霍建起)監督の『山の郵便配達』(1999年)の画面に映し出されるのは、まさしくこの詩が伝える広大無辺の光景だ。

 
ところは中国・湖南省西部の奥深い山岳地帯。そこで郵便局の配達員をつとめてきた父親が引退の日を迎え、その仕事を引き継ぐことになった一人息子とともに、3日間かけて120キロの道のりをひたすら歩いていく。炎天下の道すがら、ふたりがたがいに戸惑いながら会話の糸口を探っていくさまがいじらしい。それは父親がいつしか老境に入り、息子が独り立ちする人生の局面でだれもが経験するものではないか。徐々に舌がほぐれていくにつれて、父親は仕事のコツを伝え、息子は父親のタバコを吸い、父親が「冷たい水は足に堪えるから、遠まわりしても川には入るな」と諭すと、息子はその父親を背負って谷川を力強い足取りで向こう岸へ渡り、焚火にあたったあと、立ち上がって「オヤジ、さあ行こう」と呼びかける。それは息子が初めて口にした「オヤジ」だった。

 
いくつもの貧しい村々をめぐり、生活に疲れ果てた顔、顔、顔と行き交い、あるとき父親は盲目の老婆に向かってありもしない孫の手紙を代読したり、あるとき息子は少数民族の天真爛漫な少女と笑顔を交わし合ったり……。これまで知らずにいた世界を垣間見て、息子は「こんなところに住んで、山以外には何もない人たちだ」と洩らす。父親は「何もない?」と相手を見やり、人差し指をかざして「お前はアタマでものを考えている」と告げる。そのあとに続くセリフ。

 
「人は考えることで苦しみを乗り越えている。考えることなしに人々の喜びはない。それを支える郵便配達の仕事はきついけれど、長く続けるうちにだんだん親しい知り合いも増えていく。やり甲斐があるはずだ。わしは他の仕事をやろうと思ったことはない。お前も誇りを持ってやれ」

 
わたしはまるで自分の父親から叱咤されるような思いを味わった。たとえ出世や栄誉に恵まれず、世間の大方が目もくれない仕事だとしても、他のだれでもない、自分自身が誇りを持つこと。それこそが血を分けた父親から息子へと職業を伝承するにあたっての、何よりの餞(はなむけ)のメッセージではなかったろうか。はるかな昔日に王維が詩にうたったのと同じ天地のはざまで、たった一度だけ道行きをともにしたふたりの、それはかけがえのない輝かしい旅路だったのだ。とは言え、このドラマが1980年代初めに時代を設定しているとおり、中国にあってもとうに失われた家族の風景なのだろう。

 
もとより現在の日本で、こうして当たり前のように父親から息子へ受け継がれる職業があるとすれば、せいぜい政治家と芸能人ぐらいではないか。


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