アナログ派の愉しみ/本◎『六祖壇経』

悟りを開くためには
野蛮なまでのタフネスが必要なのか


中国禅宗の教典『六祖壇経』には実に奇々怪々なエピソードがある。

 
少々込み入っているけれど説明してみよう。西暦6世紀ごろインドからやってきたという伝説的な達磨(ボーディ・ダルマ)が初めて中国に禅を伝えて開祖となり、弟子の恵可が奥義を授けられ「衣鉢」(修行者が用いる着衣と食器)を継いで二祖となった。以降、三祖僧璨、四祖道信、五祖弘忍と代を重ねていき、禅宗史上にひときわ巨大な足跡を残す六祖恵能の説法を集大成したのが『六祖壇経』だ。

 
その記述によれば、7世紀前半に嶺南新州の地に生まれた恵能は幼くして父を失い、市場で薪を売って母を養っていたが、22歳のときに発心して蘄州東憑母山の五祖弘忍のもとに参じた。門下には千人以上の修行僧がいて、恵能は文字を読めないために寺の下働きをしていたところ、ある日、師の弘忍は弟子たちに「おのれの知恵で悟りの本質をつかみ、各自一篇の偈(げ)にしたためて示せ」と命じた。しかし、みんな尻込みして提出しないなか、筆頭弟子の神秀はやむにやまれず、だれの作ともわからないように壁につぎの偈を書きつけた。

 
身是菩提樹  心如名鏡台
時時勤払拭  莫使染塵埃
 
身は悟りの樹、心は澄んだ鏡の台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。
(中川孝訳)

 
数日後、周囲がこの偈を口ずさんでいるのを耳にして、恵能も自分なりに偈をつくったのを仲のいい弟子が文字で壁に書いてくれた。

 
菩提本無樹  名鏡亦非台
本来無一物  何処有塵埃
 
悟りにはもともと樹はない、澄んだ鏡もまた台ではない。
本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。

 
かくて師の弘忍は、無学な田舎者の恵能のほうを後継者に指名する。それはそれでジャンケンの後出しのような成り行きで妙な気がするが、わたしがあえて奇々怪々というのはこの後に続く部分だ。

 
弘忍は「衣鉢」を恵能に託したのち、こう告げる。「昔から法を受け継いだ者は、絹糸に吊るされたようにその身が危うい。いつまでも留まっていたら、きっとだれかがお前を殺すに違いない。ただちにここを去るのだ」。実際、恵能が土地勘のある南方へ風を巻いて逃げていくと、数百人の弟子たちが「衣鉢」を奪い返そうと腕まくりして追いかけてきたのをやっと振り切る。いや、振り切れなかった。たったひとり、弟子のなかでも乱暴者で知られた恵明が執念深く尾行し、ついに追いつかれてみると、相手は「わしが欲しいのは衣鉢ではなく法だ」と弁じたので、恵能はただちに正法を伝えて最初の弟子にしたという次第。

 
これは一体、どうしたことだろう? まるで『三国志演義』や『水滸伝』にでも出てきそうな活劇ではないか。日本で禅といったら、しばしば総理大臣も坐禅をたしなむと伝えられるとおり、たとえ日ごろは政争に血道を上げる連中でもそのときだけは心静かに人格の涵養に努める作法とされている。だが、本来はそんな甘っちょろいものではなく、禅宗の本家本元では祖師の座をめぐってどうやら永田町以上に凄まじい権力闘争が行われてきたらしいのだ。たんに人事の話ではあるまい、悟りの本質について何を正統とし何を異端とするのか、まさに各々の存在理由を賭しての厳かな闘いだった。だからこそ、六祖恵能の膝下からはやがて有能な弟子たちが澎湃として現れ、臨済宗・曹洞宗をはじめ五家七宗の大河が発することになったのだろう。

 
もしわれわれも悟りを開きたいのなら、ただ鏡をきれいに磨くような善男善女のフリをやめ、必要に応じてその鏡を粉砕してしまう野蛮なまでのタフネスを発揮せよ、と『六祖壇経』は教えているのかもしれない。
 

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