アナログ派の愉しみ/本◎郝景芳 著『折りたたみ北京』

日本人のアタマからは
出てこない発想


およそ日本人のアタマからは出てこない発想だろう。郝景芳(ハオ・ジンファン)の小説『折りたたみ北京』(2014年)を読むと、そんな思いを禁じえない。ちなみに、この1984年生まれの女性作家は、中国トップの最高学府、精華大学で物理学を専攻して天体物理センターで研究を行ったのち、経済学と経営学の博士号を取得して現在はシンクタンクに勤務中というから、まさにエリート中のエリートと言っていい。

 
世界SF協会のヒューゴー賞を受賞したこの作品では、さほど遠くない未来にあって、首都・北京は折りたたみ式のつくりになっている。地面の表側は第一スペースで特権階級500万人が住み、午前6時から翌朝6時まで割り当てられ、ついで地面が180度反転すると裏側が出現して、第二スペースの中産階級2500万人が2日目の午前6時から午後10時まで、今度は建物が入れ替わって、第三スペースの下層階級5000万人が午後10時から午前6時までとなり、ふたたび地面が反転して第一スペースに立ち戻るという仕組みだ。この間、住民は割り当ての時間帯以外は人工睡眠を取り、他のスペースへの勝手な立ち入りは禁止されていた。

 
主人公の老刀(ラオ・ダオ)は第三スペースのごみ処理施設で働いていたが、ある日、第二スペースから運ばれてきたごみのなかに求人書の入った瓶を見つけ、ダストシュートを辿ってその発信地に出かける。差出人は若い大学院生の秦天(チン・ティエン)で、少し前に国連経済局のインターンとして第一スペースに出張したとき知りあった女性が忘れられず、プロポーズの手紙を届けてほしいという仕事の依頼だった。かくて、高額の報酬目当てに引き受けた老刀が命懸けで第一スペースに潜り込み、ガールフレンドの依言(イー・イエン)に接触してみると、なんと彼女は人妻だった……。とまあ、ストーリーを追うのはこのくらいで十分だろう。

 
と言うのも、わたしが日本人の発想からほど遠いと思ったのは、こうしたカネと色恋をめぐるドラマではなく、その土台となっている奇抜な世界観そのものだからだ。たとえ首都の人口集中の対策だとしても、足元の地面が反転して住民もろともすべて入れ替わってしまうとは、やはりだだっ広い大陸国家ならではのビジョンだろう。われわれの島国でもし地面が反転するとしたら、大海原のただなかで船舶が引っ繰り返るようなイメージでいかにも心もとなく、とうてい落ち着いて住むことなどできまい。

 
そしてまた、ひとつの都市空間の第一スペース、第二スペース、第三スペースといった厳密な区分けには、中国古代の皇帝と官僚による専制支配から現代の共産党一党独裁に至るまで、この大陸で繰り広げられてきた権威主義的な政治体制のあり方が反映しているのは、だれもが容易に気づくところだろう。いまの日本のようにどんぐりの背比べの政党が選挙の駆け引きに汲々としている状況のもとでは、どれほど東京一極集中が問題となっても都市空間の分割など思いつくはずもない。

 
さらに敷衍するなら、こうした多層的な世界観の根底には中国5000年の悠久の歴史を貫いてきた思想が横たわっていよう。すなわち、みずからこそ世界の中心であり、その支配のおよぶ範囲が文明の恩恵に浴する地であり、そこから隔てられた異民族の東夷、西戎、北狄、南蛮……といった周辺は未開野蛮の地に他ならない。それがそのまま第一スペース、第二スペース、第三スペースに重なると見なすなら、さしずめ日本もまた下層階級の第三スペースに位置づけられるわけで、したがって、作中で折りたたみの世界を遍歴する老刀とはわれわれのアレゴリーとも読み取れるのだ。

 
その老刀は、人妻の依言からも高額の報酬でうぶな秦天に偽りの返信を届けることを依頼されて帰途につく。そして、地面が反転するタイミングで表側から裏側へ飛び移ろうとしたところ、思わぬアクシデントで足を挟まれ絶体絶命に瀕したものの、かろうじてことなきをえた場面を以下に引用しよう。

 
「地面が動いている。亀裂が開くと、老刀はすぐに脚を引き抜き、隙間がじゅうぶんに開いたとたん懸命に断面を進んだ。さっきよりもかなり慎重に動く。しびれていた脚に血のめぐりが復活すると、ふくらはぎがじんじんしてきた。まるで何千匹ものアリに噛まれているかのようだ。老刀は何度か転びそうになった。耐えがたい痛みに叫びそうになるのを、拳を噛んで止めなくてはならなかった。転んでは、立ち上がり、また転んでは、ふたたび立ち上がる。持てる力と技を総動員して、回転する地面を懸命に歩きつづけた」(大谷真弓訳)

 
叫びそうになるのを、拳を噛んで止めなくては――。ここに描写されているのは、中華思想の大国と対峙しながら、東夷の国・日本が難題を切り抜けて立ちまわっていくためのヒントでもあるように思えるのだが、どうだろうか?


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