全部だきしめて
忘れもしない、あれは僕が高2の二学期のまさに10月のある日のことだった。
当時、重度の対人恐怖症で、「ああ…」か「あわわ…」しか言えなかった僕をいつものように数人の同級生がからかっていたときに、そのうちのひとりから、
「なんでおまえみたいなグズが生きてるの?おまえなんか死んでしまえばいいのに」
と言われたのは。
彼らからはこれまでにもずいぶんと色々なひどいことを言われてきたはずなのに、この一言はなんだかその時の僕には特別、衝撃的で、翌日から僕は学校に行けなくなってしまった。
そして、今更ながら、なぜそんなにショックを受けたのかを考えると、たぶん僕自身も彼らのその言い分に納得してしまったからだと思う。
「こんな満足に人と話すこともできない、しかも、ただいるだけで他人を不快にしてしまう僕のままでは確かに生きている価値なんてどこにもないよな」
という風に。
そして、その出来事がひとつのきっかけになって、僕の心には、
イマジナリーエネミー
が巣くうようになった。
その見えない敵に負けないように、彼らから、いつかおまえも生きていてもいいよ、ってお墨付きがもらえるように、ただそのためだけに、たぶん僕はこれまで必死に努力を重ねてきたように思う。
だから、その努力の甲斐もあって、今では、あのときの自分が嘘のように、どんな人とも割と流暢に喋れるようになったし、会話で人を笑わせたり、ほんわかさせる術も身につけることも出来たと思う。
でも、一方で、まだ、生きてていいよ、って全然思えない自分がいることにも気づいている。
だから、他人から無視されたり、ちょっと否定的なことを言われたりするだけで、
あのイマジナリーエネミーからの
おまえなんかが生きてちゃダメだ
おまえなんかが生きてちゃダメだ
おまえなんかが生きてちゃダメだ
という大合唱が聞こえてきて、それが本当に辛くて耐えきれなくなった僕は、そのたびにそんな僕のそばにいてくれる家族や友人に八つ当たりしてみんなを傷つけてしまって、その結果、
本当に生きていちゃダメな方の人間
つまり、僕が一番、忌み嫌い、あいつらみたいには絶対になりたくない、と思っていた人間に成り下がっていた。
そんなときはいつだって、心にとても冷たいブリザードが吹き荒れて、視界が完全に塞がれてしまって、本当に誰も見えなくなってしまう。
だけど、昔の僕だったらその嵐をそのまま周囲にぶつけていたけど、最近は、嵐が過ぎ去るまではなるべく人と関わらず、じっと一人で耐えることを心がけるようにしている。
まあ、もしかしたらあんまり実践出来てないかもしれないけど。特に親しい人たちに対しては、ね(苦笑)
でも、たとえそうなってしまった場合でも、その嵐が過ぎ去って自分がまた冷静さを取り戻したときには、傷つけてしまった相手に対して必ず
あのときはごめんね
と謝るようにはしている。
でも、毎回、もう許してもらえないだろうな、と覚悟はしていて、実際、許してくれなくて疎遠になった人たちもたくさんいるけど、一方で、中には許してくれた人たちもいた。
そして、何だかんだ言いながらも、そんなふうに僕を一番許してくれたのは間違いなく
今の家族
なんだよな。
僕がこれまでずっと他人との深い付き合いを避けてきたのは多分そういうことだし、そんな僕は妻や息子から
「お父さんって本当に友達いないよね」
ってことあるごとに冷やかされている(笑)
でも、最近の僕はその言葉を
「でも私たちが付いているからさみしくないよ」
という意味に勝手に都合よく解釈している。
振り返れば、ずっとずっと変わりたいと願っていた人生だった。
あのうっとうしいイマジナリーエネミーからおさらばできて、感情も安定して、もう誰も傷つけずに、いつも笑顔にできるようなそんな人間に変わりたい、ってずっと思っていたんだ。
でも、今は、もしこのまま変われなくてもそれならそれでかまわない、とも思い始めている。
なぜなら、今、僕には愛する家族がそばにいて、たまにそんな彼らの笑顔が見られるだけで、こんなにも心が満たされていることを知っているからだ。
そして、そんな僕の頭に不意に、こんな奇妙な考えが浮かんできた。
もしかすると、人は変われないままでも、つまり、自分のことが嫌いなままでも
ちゃんと幸せになれる生き物かもしれない、ってね(まあ人に尊敬されるような立派な人間には一生なれないかもしれないけど)
そう、そんなダメな自分のことを自分自身でまるごと抱きしめられるようになれたら、僕もあなたも、そして、世界中のみんなもきっと幸せになれるはず。
本当に不思議なことだけど、なんとなく今はそう思うんだ。
※注
あくまで、これは現時点での僕の考え方なので、当然、今後、変わる可能性はあります。
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