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#21 東四つ木の思い出〜追憶の中の高橋陽一先生

物心がついてから小学4年まで、東京の葛飾区、東四つ木という地域で育ちました。

私にとっての原風景って何だろうと考えると、この幼少期に過ごした東四つ木の街並みや遊んだ場所がそれに当たるのだろう。
父の原付に乗せられて行った立石のアーケード街や渋江公園。学校行事で凧上げをした柴又の江戸川河川敷。猛スピードで電車が駆け抜ける新小岩駅。幼稚園の送迎バスを待った平和橋。路地に入れば町工場だらけで同級生も工場の子が多かった。荒川や中川に囲まれた海抜0メートル地帯にはしょっちゅう光化学スモッグのサイレンが鳴っていた。

そんな情景と同時に思い出されるのは、父に怯えながら暮らしていたことだ。
今ならモラハラに当たるだろう。
私が幼少期の頃の父は、何かにつけて母への当たりが強く、父の機嫌を損ねないよう、母と私、幼い妹は父の一挙手一投足に気を付けながら生活していた。

良い思い出も沢山あるが、あまり思い出したくない類の思い出もある。
そういったことが影響しているのかわからないが、私にとってこの時代の出来事は、この街を覆っていた光化学スモッグのようにうっすらと靄がかかって像がぼやけている——。

***

小学3年生の時分だったと思う。
飛距離を伸ばすためカラーテープをグルグルに巻いたプラスチックバットに軟式を模したゴムボールで公園や空き地で野球をするのが私たち川端小学校の児童の間で流行っていた。

とある放課後、いつもの空き地で野球をしていると、仲間のうちの1人が突然こんなことを口にした。

「この間、◯組の◯×君が『キャプテン翼』の高橋先生のサインをもらってさー」

「えー、本当かよ」
「いいなー」

他の児童が色めき立つ。

「俺、先生の家知ってるから、これからみんなでサイン貰いに行こうぜ。◯×君も家まで貰いに行ったんだ」

「行こう、行こう」

一旦解散して各々サイン色紙やノートを家に取りに帰ったと思う。
私はというと『キン肉マン』と『機動戦士ガンダム』に夢中だったものの、この時点で『キャプテン翼』の存在を知らなかった。もっというとサッカーというスポーツの存在も知らなかった。
さらに、『サインを貰う』という行為にもピンと来なかったので、一旦家に帰ったフリをして手ブラで仲間と合流した。
とにかくみんなが行くから付いて行く。何だか楽しそう、ただそれだけだった。

「ここだぜ」

自転車で学区を飛び越えて、仲間に誘導されるままにいつもより少し遠くへ行った。知らない土地の空き地に自転車を停めると、5、6人の小学生が高橋陽一先生のご自宅と思しき民家のチャイムを押した。
しばらく経っても玄関の戸は開かなかった。
応答がないことを確認すると、仲間の1人が大胆にもドアではなく道路に面した窓を叩いた。

「すみませーん、高橋先生!」

子供のはしゃぐ声が近所迷惑だったと思う。すぐに窓が開き、中から若い男の人が顔を出した。

「僕たちサインが欲しくて」

勇気を振り絞って仲間の誰かが言った。
先生と思しき人物は、「分かった、分かった」という感じで窓から色紙を受け取り、何やら文字のようなものを書いて我々に返した。

「ありがとうございます」

その時私もサインを書いて貰えばよかったのだが、色紙もノートも用意していなかったのと、元来引っ込み思案で大人の男の人に話しかける勇気もなく、ただただ事の成り行きを眺めていただけだった。
サインはというと、肝心の翼君の絵は描かれてなかったような気がする。それでも私の仲間達は高橋陽一先生からサインをもらったことに興奮していた。

この出来事をきっかけに私は『キャプテン翼』を知り、サッカーという手を使わず足でボールを蹴る奇妙なスポーツがあることを知った。

そして、ほどなくして私は東四つ木の団地から分譲マンションに移るため、葛飾区から品川区へ転出した。

***

先日、ネットニュースでキャプテン翼連載終了を知った。
高橋先生は自身の体力の衰えと執筆環境の変化から、連載終了を決断したらしい。
また、先生に頭に中には最終回までの構想があって、それを実際に漫画にすると少なく見積もってあと40年はかかってしまうらしい。
完結まであと40年!
何という道のりだろう。
高橋先生が仮に今までにペースで描き続けたとしても、先生が物語を描き終える頃には100歳をゆうに超えているという。
だから今までの方法では間に合わない。例えば『キャプテン翼』をネームなどの形にして物語を最後まで残そうとしてくれるらしい。

このニュースを読んだ時、遠い東四つ木の少年時代を追憶した。
様々な疑念がある。
私たちの前に現れて窓越しにサインしてくれたあの男の人は本当に高橋陽一先生だったのだろうか。
仲間の誰かが皆を騙そうと画策し、知り合いのお兄さんに高橋陽一先生を演じてもらっていたのではないだろうか。
そもそもあの日、本当に我々はサインを貰えたのだろうか。
長い年月をかけて、そうだったらいいのにと都合良く記憶を改竄しているのではなかろうか。

こういう時、私は一度も転校することもなく生まれ育った街で高校を卒業し、大人になっても実家がその街に残っているような人をとても羨ましく思う。
大人になるまで同じ場所で暮らしていたら、同窓会などで幼馴染みと「あの時、ああだったよね」と思い出話をして答え合わせすることもできる。

私にはあの時一緒に遊んでいた仲間達の名前は思い出せない。
私が引っ越す時、クラスで送る会を開いてくれた。
「遊びに行くからね」「また遊びに戻るから」そう言って別れたものの、小学生に葛飾と品川の距離は遠かった。数回年賀状を交わしたくらいでいつしか連絡は途絶え、今では親しかった友人の名前を数人覚えている程度になってしまった。
それ故に、東四つ木で過ごした時代とそれ以後とでは記憶が別もののように分断されている。

あの日、『キャプテン翼』を知らなくても『サインを貰う』行為の意味が分からなくても、皆と同じようにノートぐらい持って行けば良かった。
せめて証拠(思い出の品)があれば、あの日のことを一から疑うようなことはないのだから。

私達がサインをせがんだのが約40年。思い返すと本当に同じ人間の記憶なのかと疑いたくなるくらい昔のことに感じる。
あの時から長い時間をかけて翼君の物語はやっと折り返し地点を迎えたばかり。
その折り返し地点で物語を漫画にすることを断念しなければならない。
漫画家というのはなんて気の遠くなる仕事なんだろうと改めて思う。

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