【連載小説】Monument 第六章#3
眞琴
木曜日の終バスに、乗客は少ない。
わたしは啓太郎と二人、一番後ろの左窓側に並んだ。
ここに座っていれば、途中、香澄の墓碑「23番」の柱を通るはず。
「発車します」
ぶっきらぼうなアナウンスでバスが動き出す。
タイヤが水溜まりを踏む音がした。
陽もすっかり暮れ切ってからの、激しい雷雨には肝を冷やした。
毬野が計画を断念してしまうのではないか――たとえ決行、としても、わたしを置いて行く、なんて言い出しはしまいか。
でも、毬野からは一言もなく、淡々と支度は進み、今、わたしはこうしてバスに揺られている。
そんな考え事をしていたせいで、闇に濡れたモノレールの線路も――香澄の墓碑さえ見逃したまま、バスはバラ園へ至るゲートの前を通過した。
振り返って背もたれをつかんだ指が、細かく震える。
悪い兆しでないことを、祈るよりほかない。
気が付けばいつの間にか、乗客はもう、わたしたち二人だけになっていた。
◇
二学期が始まり三日が過ぎても、香澄は登校してこない。
四日目の放課後、あたしたちは先生に招かれて、応接室へ通された。
待っていたのは、黒一色に身を包んだ香澄のご両親。
一瞬にして、あたしはすべてを悟った。
手術そのものは成功だったが、感染症で――。
その後、どんな話があったのか。
唯一、鮮明に憶えているのは、目元を拭うお母さんの、真っ白なハンカチだけだ。
あたしたちは、正門でご両親を見送った。
夕陽がオレンジ色に照らした誰もいない通学路を、幾度も振り返っては頭を下げ下げ去って行く二つの影が、陽炎に揺らぐ。
喉の奥に、血が薫った。
世界は暗み、足元のアスファルトが傾いでいく。
昏倒したあたしは、保健室に担ぎ込まれた。
ここから先は、人づてに聴いた話だ。
毬野は、無言で啓太郎を殴りつけた。
二人がケンカすることはあったけど、唇が切れるほど拳で叩くなんて、今までは絶えてなかったことだ。
理由には、察しがついた。
啓太郎が、千羽鶴を折り上げられなかったからだ。
この夏休みの間中、あたしたちは香澄の平癒を願って、千羽鶴を折っていた。
休みが終わっても、数が千羽に届かなかったのは、啓太郎が遅れたからだ。
これはずっと後になってから知ったことだったけど、啓太郎のお父さんの会社は、だいぶ経営が悪化していたらしい。
あたしたちの前では、いつもと変わらぬ啓太郎にも、帰宅して両親の姿を目の当たりにするれば、考え事や悩み事の種は尽きなかったことだろう。
啓太郎は、ひとり三年生の花壇へ踏み込むと、ヒマワリを打ち倒してまわった。
先生が三人がかりで止めなければならないほど、手の付けられない暴れようだったそうだ。
理由を訊かれて啓太郎は、「俺たちを差し置いて、悲しんでるみたいに見えたから」と、答えたそうだ。
種子の詰まった頭を垂れたヒマワリの姿が、啓太郎には、そう映っていたらしい。
後片付けを手伝って、あたしは妙なものを発見した。
折れた茎を直した跡だ。
こんな結び方を知っているのは、多分、あたしたちくらい。
毬野の手にしては、添えられた割り箸の断面が粗かった。
と、すると、啓太郎は前にもヒマワリを折って、自ら添え木を当てたのだろうか。
そう問うと、啓太郎は腫れた唇をゆがめて、笑顔を繕おうとした。
静かな二週間ほどが過ぎ、香澄の机に飾られた花が片付けられた頃、あたし宛てに青いプラスチックの筒が届いた。
香澄のお母さんからの一筆箋には、
「病室で香澄が描いた絵です」
とあった。
写生会で香澄が描いた構図を、色鮮やかな夕景に改めて、クレパスで描かれていたのは、クチナシを囲む三匹のホタル。
その日の帰り道、あたしは香澄の家へ向かった。
秋の陽は、早い。
夕暮れに染まった香澄の家には、ぞんざいなベニヤ板の看板に、「売家」の文字が踊っていた。
表札もない。
インターホンもない。
お母さんの赤い車も。
掛け金が外れていたから、あたしはこっそりと門をくぐった。
玄関の戸を叩いてみる。
返事は、ない。
もしかしたら――。
庭先に回ったあたしは、ところどころ高く秋草の伸びた芝生の中に、両ひざをついた。
連なる窓にカーテンはなく、なにもかもが取り払われて、ひっそりとした居間を、赤く夕陽が染めていた。
シャンデリアもない。
応接セットもない。
香澄のピアノ、も。
香澄、香澄、香澄。
あたしは幾度、呼べたことだろう。彼女の名を。
香澄、香澄、香澄。
どれほど呼んでも、もう彼女の耳には届かない。
涙がこぼれて、止められなかった。
夕日はとっぷりと暮れ、辺りが闇に呑まれていく。
残光が低く生垣を照らした。
その長い影の付け根に、ぽつんと一つ。香澄の愛したクチナシの鉢が、隠れるように転がっていた。
あたしは、それを胸に抱えると家路を急いだ。
それからの時の移ろいは、とても早かったように思えてならない。
毬野は勉強に没入し、めっきり口数が少なくなった。
毬野との間を取り持とうとした啓太郎の努力は、ひとつ残らず水泡に帰した。
あたしは……あたしは、何もできずに、ただただ立ち尽くしていた。
六年生に進級する始業式に松平先生の姿はなく、近隣で新たに開校した小学校に少なからぬ生徒が移ってしまうと、クラスは再び編成を換え、わたしたちは三人、別々のクラスになった。
卒業を控えた年の暮れ、啓太郎は別れの挨拶もままならず、お父さんの事業の破綻で、夜逃げ同然に失踪した。
毬野が、目指していた遠方の進学校へ、合格を決めた。その直後のことだった。
卒業式を待つことなく、毬野が北海道にある寮へ入ると知らされたのは、年が明けてすぐのこと。
毬野の出立を控えた二月の半ば、この辺りでは珍しい大雪になった。
細かい砂粒のような雪は絶え間なく降り続き、町は一面の白に覆われた。
もうすぐ、あたしは一人になる。
二人はもう、戻らない。
泣き出したくても、泣いてしまうことはできなかった。
家には両親もいたし、姉もいた。
黙って外に出たあたしは、白銀の世界を、あてどなく彷徨った。
ひとりきり、泣いてしまえる場所を探して。
そして、山の上の展望台にたどりついた。
先客がいた。
毬野、だった。
「……行っちゃうの?」
「ああ。明日の朝」
それっきり、毬野はしばし俯くと、あたしの横をすり抜けて、階段を降りて行ってしまった。
一度も振り返ることなく、広場を歩み去る毬野の姿が、降りしきる雪の向こうに隠れると、もう何も見えなくなった。
一面の、逆巻く白。
あたしは、泣いた。
泣き叫んだ。
声の限り。
頑是無い、子供みたいに。
あたしの涙も、叫びも、なにもかも。
すべては白い雪の渦に吸い取られ、そして消えていった。
◇
その日がわたしの、幼少期の終わりになった。
たった一人、中学へ上がると、成績は下降の一途を辿った。
望んでいなかった高校へ進学し、進路を決めねばならない頃にはもう、自分がなにを望み、なにを求めていたのかすら、わからなくなっていた。
少しずつ、何かがわたしを蝕んでいく。
それでもわたしは、なすすべもなく立ちすくむばかり。
そしていつしか、こう考えを改めた。
「慄きながら、じわじわ喰い尽くされるなんて、まっぴらだ」と。
かろうじて引っかかった女子大で、わたしは遊びを覚えた。
「――つまんない」
女友達と示し合わせて、そうつぶやくと、男どもはサーフィンだ、スキーだ、ドライブだ、と次から次へ退屈しのぎを提供してくれた。
もらった写真のどの中にも、無様に笑うわたしがいる。
だけど、眼だけが笑っていない。
ぽっかりと空いた二つの穴が、わたしを呑み込みそうになる。
写真は、もらう端から捨てていた。
落ちるところまで落ちたんだ。
とんでもない――この先、落ちていく底なんか、果てがなかった。
ことあるごとに、わたしを叱りつけた父の具合が悪くなり、すっかり家路が遠退いた頃。
のほほんと一緒にいるには都合のいい男がみつかって、卒業するとすぐ籍を入れた。
遠からず、破綻する――誰に言われずとも、わかりきった結婚だった。
二年と待たず、男は他所の女に目移りし、わたしには寄り付かなくなった。
引き受けるべき苦痛と労苦を甘受して関係を精算すると、帰る先はもう、ひとつしかなかった。
父はすでに他界していて、姉は所帯を持って名古屋にいた。
放り出すことだってできたはずの放蕩娘に、めっきり白髪の増えた母は、黙って敷居を跨がせてくれた。
具のほうが多いみそ汁とアジの干物を平らげて、畳の上に延べられたシャボンが香る布団の上に横になる。
わたしは朝まで、ぐっすりと眠った。
深い夢から目を醒ますと、霧雨の、ひんやりとした朝だった。
六月も、もう半ば――古びた家の木の香りに、なつかしい香りが混じっていた。
障子を開ける。
廊下の突き当りで、クチナシが咲いていた。
香澄のクチナシ、が。
真っ白く、たおやかに。
その日、わたしは傷んだ髪を、母に頼んで切り揃えた。
十一の頃、あたしがそうしていたように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?