【連載小説】Monument 第六章#1
眞琴
長い、一日になる。
覚悟して望んだ最終日、木曜のボランティアは、流れるように時間が過ぎた。
脩さんの誤解は最後まで解けず、おかげで恒例の懇親会も堂々とすっぽかして、毬野と二人、帰途につく。
日中、啓太郎が調達してくれた不足の品を確かめて、行動計画をおさらいすると、わたしたちにはもう、成すべきことはなくなった。
ベッドを譲る、というわたしの提案はあっけなく退けられて、啓太郎はリビングのカウチで、毬野はダイニングテーブルに突っ伏して、わたしは――意固地になったつもりもないが――薄手のブランケットにくるまって、窓辺にもたれた。
後は刻を待つばかり――遠雷が聞こえたような気がしてベランダの窓を薄く開けると、丘の端で三日月が雲に翳んでいた。
首を伸ばして見渡す空に、怪しげな雲は今のところない。
天気予報、外れてくれればいいのだが。
ベランダに並んだクチナシの鉢は、一つ少ない。
選ばれたクチナシは梱包されて、わたしの隣でまだ緑色の抜けきらないクリーム色のつぼみをのぞかせていた。
「眠れないのか?」
「ごめん、毬野――起こしちゃった?」
「いや、僕もだ。目だけでも瞑っておくといい」
「……うん」
言われた通りに、目を閉じた。
まぶたの裏には、つぼみの残像。
そのやわらかな乳白を、うっすらと淡く、黄緑色の光が照らした。
思い出の、電気ホタルが重なる。
収束していく明滅が、わたしをまどろみへと誘った。
◇
近所の神社に、今年も縁日がたった。
夏休みも、もう間近。
あたしたちは、出店を一回りすると、少し離れた沢筋へ向かった。
粘土山からの湧水が造ったらしい、その沢には、ヘイケボタルが生息している。
夏休みの自由研究に備え、あたしは毬野と啓太郎の援けを借りて、そこに簡単な通路と、観察用のテラスを整備してあった。
あたしたちは、手に手にラムネを飲みながら、ホタルを待っていた。
「焼きそばでも買いに行かない?」
退屈したらしい啓太郎が、毬野を誘った。
「おい。まだ食うつもりかよ?」
そう言いながらも、名残り惜し気にビー玉を転がす香澄の手から、毬野は空き瓶を預かる。
「いってらっしゃい、ふたりとも」
手を振る香澄の唇が、「またね」、と象られた。
二人の姿がみえなくなると、途端、香澄は弓なりに、大きく欠伸をしてみせた。朝顔が染め抜かれた浴衣の袖から、真っ白な二本の腕が、むき出しになる。
「はあ~あ。おしとやかなフリって、なんか疲れる」
運動会からこっち、香澄はわたしと二人きりになると、こうして本性を顕わした。
「だったら、やめちゃえば?」
「ふっ。これだから、お子ちゃまは」
あたしが着ていたのは姉のおさがり。
すっかり色の褪せてしまった、タチアオイらしい花柄の甚平で、さっきもラムネ屋のおじさんに、姉妹と間違われたばっかりだった。
「そんなだと、わたしが取っちゃうよ。いいの?」
「なにを?」
「さあーて、ね」
香澄は手すりにひじを置いて、沢を向いた。
「わたし……林間学校、行けなくなった」
聞き違い――かと思った。
ついさっきまで、わたしたちの話題といったら、林間学校で持ちきりだったではないか。
「体調でも……」
「手術するんだ。わたし」
「手術?」
「誤解しないで。悪いわけじゃないの。むしろ、いいからできるんだ――今のうちに……ね」
夕闇の宿る沢筋に、ホタルが瞬き始めた。
「……怖く、ないの?」
「何度目だと思ってんの? いまさら怖いことなんて、なんにもないよ。あっ眞琴、わたしの着替え、覗いてたでしょ? 運動会のとき――エッチ!」
せっかく茶化してくれたのに。
笑い切れずに、あたしは訊いてしまった。
「どれくらい、かかるの?」
「ちょっと早めに休みに入って、二学期までには、ね」
「始業式には、会えるよね?」
確かな言葉が、聞きたかった。
「ねえっ?!」
「シーっ! もう。ホタルが光るの、やめちゃったじゃない」
「ごめっ……」
いきなり振り向いた香澄の腕が、あたしの肩にまわった。
結い上げられたうなじから、藍の香りが立ち昇る。
「ほんとはね――ほんとは怖い。怖くて……逃げ出しちゃいそう……」
「……香澄」
震える背中を、さすり続ける以外、あたし出来ることはない。
震えがだんだん、大きくなった。
「……香澄?」
香澄は、笑いながら両手を解くと、あたしの肩を押して、その身を離した。
「なあーんて、ね。かわいいなあ、眞琴は。すぐに、ひっかかるんだから――いじめたくなっちゃう」
身を折りながら、香澄は笑い続けた。
「もうっ!」
「そろそろ行かなきゃ。お母さんと、待ち合わせなんだ」
彼女はたおやかな仕草で、腕時計を見た。
「今日はありがと。楽しかった。明日から学校休むけど、二人には眞琴からよろしく伝えて」
返事の代わりに、わたしは小指を差し出した。
「――なに、それ?」
「指切りだよ。知らないの?」
香澄が首を傾げたから、その手を取って小指を伸ばすと、あたしは右手の指を絡げた。
「約束だよ。二学期にはまた、元気に登校してくること。いい? 指切りげんまん、うそついたら、針千本呑ーます――指切った」
「――どうでもいいけど、わたし針の千本くらいなら、なんともないよ。注射だけでももう二千、三千じゃきかないし」
「そういう問題じゃあないの。これは大事なおまじないなんだから」
「ふーん――あっ、そうだ。始業式で、感動の再会ごっこしよう! 『手術怖かったー』って眞琴の胸で、わたしが泣くの――どう?」
「なに、それ? まあ……いいけど」
「だからさ、夏休みの間、も少し発育させといてよね。その薄っぺらい胸。ゴツゴツしてて痛いから」
ひとしきり笑った香澄が、襟元を直し、両手をそろえた。
「じゃあ、今日はこれで――見送られるのって苦手なの。眞琴。先に、二人のところへ行ってあげて」
「うん。わかった――手術、がんばって」
堤を上りかけながら、あたしは香澄を振り返った。
「お見舞い、行くからね」
帯の前に手を上げて、薄く微笑んだ香澄の袖口に、いつのまにかホタルが瞬いていた。
襟にも、帯にも、裾にも。
黄緑色のやさしい光は、香澄の輪郭を仄かに照らすと、また闇に帰し、再び淡い光の中に浮かび上がらせた。
「林間学校の、お土産持って行くからねっ!」
ホタルの光に照らされて、彼女の顎は小さく頷いたようだった。
◇
生前の香澄の、これが最後の姿になった。
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