「彷徨」という文字を見ると
「彷徨」という文字を見ると、思い出すことがあります。「彷徨」という文字を見ると、そのたびに、気持ちはひどく乱れます。
もう35年以上も前のことです。日本語ワープロが出た時に、わが家も「書院」というワープロを買いました。まだワープロが出たばかりの頃だったので、内蔵されている辞書にも、漢字数にも、限りがありました。
そしてそのワープロには、「外字」という文字枠が8つ用意されていました。外字というのは、自分でそこに字を作っていいよ、という枠だったのだと思うのです。たぶん、特殊な文字のための枠だったのですが、なにしろ内蔵されている文字が少ないので、わが家では、外字枠に、ワープロに入っていない漢字を入れて使っていました。
家内の原稿をワープロに打ち込むのは、わたしの役目でした。家内はキーボードを使った経験もなく、幸いわたしは会社の仕事でキーボードを使っていたからです。文字を打つことが、わたしは好きでした。
それに、その頃わたしはもう詩を書いていませんでしたし、文学から遠ざかっていました。ですから家に帰ってもテレビを観る以外にすることもありませんでした。でも家内の方は、文芸評論の道を探って、そこに自身の生きる道を見つけるために、日々、心を込めて文章を書いていました。家内が昼間に、原稿用紙に書いた文章を、会社から帰ったわたしがその夜に「書院」に打ち込む、というのが毎日の日課になっていました。
読みながら、「いいね、この文章ぐっとくるね」と言いながら、わたしは夜のキーボードに向かっていました。
ところが、さきほども書きましたように、その頃のワープロに内蔵されている文字数はとても少なく、一方、家内の書く文芸評論には多くの漢字が使われていて、漢字表記に困りました。ワープロにない漢字は「外字」で作ればいいというものの、「外字」8文字の枠ではとうてい足りませんでした。
それで、どうしたらよいだろうと考えて、まずは文章の最初から打ち込み始めて、ない漢字は外字を作って入れ込み、そのページを印刷します。そして8文字を超えてさらに別の漢字が出てきたら、もう出てこないだろう外字の場所を空けて、そこに新しい漢字を入れる、という作業をしました。
ところが、やったことのある人なら分かっていただけると思うのですが、外字を作る、といっても、漢字の形に、一つ一つのビットを打ち込んでゆくわけですから、外字ひとつ作るのに何十分もかかります。
さらに、すでに消してしまった外字が、文章のあとの方で出てきた時には、再びその外字を一から作る、という作業をしたのです。
今考えれば、途方もない作業をしていました。
家内が申し訳なさそうに評論のあとの方に「彷徨」という文字を使った時に、「そうか」と言って、わたしは再び、彷徨の「彷」の字の左端から、微小な点を打ち始めたのです。
もう、35年以上も前のことです。
今はもう、「ほうこう」と打ち込めば、ワープロは容易に「彷徨」と画面に出してくれます。でも、この機能を必要とした人は、もういません。
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