「揺るぎない叙情によって支えられている」 ― 峯澤典子詩集『微熱期』

「揺るぎない叙情によって支えられている」 ―   峯澤典子詩集『微熱期』(思潮社)

峯澤典子の新詩集を開くと、最初のページの最初の文字から、どの言葉も涼やかな感触を持っていることに気付く。私たちと同じ日本語を使っているのに、なぜかまぎれもなく「峯澤典子の言葉」として目の前に現れる。それゆえどの一篇も、外見はそれぞれ違っていても同じ礎の上に建つ建物の個々の部屋のように感じられる。読者はその広大な建物の部屋をさまよい、天井を見上げ、圧倒されては溜息をつくことになる。
では「峯澤典子の言葉」とは何かと考えれば、世界への恍惚とした接近の仕方からくるものなのではないか。世の中にはさまざまな詩人がいて、さまざまなアプローチからの詩が日々書かれている。そんな中で、本詩集のように美しさを抽出するように世界と自己を見つめ、そのありようを言葉に定着するというのは、詩の正道と言えるのではないか。それゆえ峯澤典子の詩を読む人は、作者のうっとりとした世界への接し方を追体験することになる。現代の日本の詩の世界にあってはとても明確な現れ方を示している。詩は清くありたいという明解な側面を見事に具現化できている。だれが読んでもその詩のよさを受け止めることができる稀な詩人なのではないか。

 まだ少女のわたしは耳から喉を伝いからだの奥に夜ごと溜まってゆく一滴、一滴が厭わしかった。目をきつく閉じてはやく眠ろうとすれば、瞼のうらの水の輪はたぷたぷとより広がり、波の震えに沿ってつまさきに蔓薔薇が巻きついてくる。(「Ripple」より)

本詩集は、見た目は楚々として静かな佇まいをしているし、手でつかめばそれほどの厚みがあるわけではない。それなのに読み始めるとなかなか読み終えることがない。それはおそらく、個々の詩の密度の濃さによるものなのだろう。

具体的に見れば、本詩集はいくつかの異なった形式の複合体と言えるだろう。さしあたって五つの形式を見ることができる。
まず一つ目は、これまでにも着実に書き継がれてきた改行詩の、その延長線上に書かれた詩だ。その特徴は頻繁な改行を跨いで書き継がれてゆく長い一文の、底流を流れる澄みきった叙情の水脈にある。詩集全体に流れる地下水のように、作者の叙情の本流とも言える作品群だ。
二つ目は散文詩の充実ぶりだ。時に改行詩よりも作者を近くに感じることができるのはなぜだろう。舞台の上での演技を鑑賞するのが改行詩なら、耳元で語りかけてくれているような思いがするのは散文詩だ。特に「ヒヤシンス」「発熱」「ひとりあるき」等の詩に見られる幼年の記憶や夢の記述は、詩がそのままの姿で上質な小説へ受け渡されてゆくような可能性を持っている。深い奥行きを感じる魅力的な作品になっている。これらの詩に限らず、本詩集に描かれている世界は、時として日本の空気を払いのけてどこかヨーロッパの小さな町を思い起こさせもする。作者の体験や記憶からくるものだろう。それゆえに詩の空間から湿った大気は取り除かれ、言葉の隅々まで明るく乾いた表面を見ることができる。
三つ目は、一つの詩の中に小さな詩をいくつか含ませている構成の詩だ。「ブルーピリオド」という詩は、連作詩というほど大げさではないが、単独の詩として成り立たせるにはどうしても手からあふれてしまう思いの震えを、いくつかの小箱に分けるようにして丁寧に仕舞っている。
四つ目は不意打ちのように挟み込まれる短歌のみずみずしさだ。例えば「ブルーピリオド」にも、最後にあたりまえのような顔をして短歌が載せられている。詩作品の中に含まれた短歌は、単独で短歌集に載るのとは別の効果と感動を持つことができている。詩集を読んでいると、一定の速度で進んでいた読みのリズムが、短歌の箇所でにわかに速度を落とすことになる。詩を読むスピードがその時だけ遅くなり、そのぶん描かれた世界を眺める深さと広さが大きくなってゆく。短歌が挟み込まれていることによって、詩集の読みに適度な刺激が与えられているように感じた。
 五つ目は、短歌と詩という異なった形式の間の領域を繋げるように試みられた詩だ。新たな可能性を探っている作品「未完の夏の眼に」には目を奪われた。詩集から流れ出した短歌、あるいは短歌が腕を伸ばした詩とも言えるだろうか。双方の長所を取り入れて新たな形式を作ろうとする静かな意欲を感じた。詩は一つ所から流れ出す言葉であり、それでいて短歌のように一つ所へ流れ込む動きも見せている。ジャンルを超えた試みとはなるほどこのようなことを言うのかと思った。

三日月を見る それだけのために家を出た
こころは 冷えた寝台に置いたままで
ほんとうの言葉はだれにも聞こえない
鍵をなくした抽斗の奥の スノードームの吹雪のように
              (「未完の夏の眼に 28」)

ここまで見てきたように、本詩集は過去の詩を引き継ぎつつ、今に至るまでの総体の自分を集めてみるという作者の意向が強く感じられる。
『微熱期』をひとことで言うならば、勇気ある試みの詩集と言えるのではないか。人に伝えうる言葉の可能性を、さまざまな形式の組み合わせによって広げようとする意欲的な試みの詩集だと、ぼくには見える。むろんその試みは、詩集全体に流れる作者の揺るぎない叙情によって支えられている。

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