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「現代詩の入り口」7 - 叙情にさわったまま眠りたかったら、峯澤典子の詩を読んでみよう

叙情にさわったまま眠りたかったら、峯澤典子の詩を読んでみよう


それでは本日は峯澤典子さんの詩を二篇読んで見ようと思います。峯澤さんとは昨年何回か対談をやっていて、そちらの方は昨年の「現代詩手帖」(10月号)に載っていますので、興味のある方は見てください。それでは読んでみましょう。



「袋」
 
ベルクール広場からバスに乗り
丘のうえの学生寮に向かう
くねる道を登り
さっき電車を降りた駅の位置がわからなくなるにつれ
遠い国にいる、とはじめて思った

バス停から寮を見上げると
いくつかの部屋の窓の外に
ビニールの買い物袋がぶら下がっている
部屋まで案内してくれた学生が言った
各階の共用の台所には冷蔵庫もあるが
バターやミルクなどは 密かに誰かに使われやすい
だから 共用を避けるひとは
ああやって自分の窓の外に下げ
冷たい空気に当てておくのだと

その日食べるパンも シーツも鍋もまだない部屋の真ん中に
スーツケースを置く
駅の売店で買った水とオレンジを ビニール袋から出し
洗面台の鏡の前に並べる
ひとつしかない窓を開け
からの袋を
外の格子に結びつけると
たやすく風になびいた

それから
マットレスがむき出しになったベッドのうえに
荷物をひとつひとつ解いていった
窓の外の
誰とも共有していないこころが
どこかに飛んでゆこうとする音を聞きながら



「袋について」

 峯澤さんの詩を読んで思うのは、言葉が現実よりも鮮やかにそこにある、ということです。例えば優れた絵画の中の建物は、現実の建物よりもなまなましく見える、ということがあります。現実を両手で掬い上げて、それを詩にこぼしてゆくと、再現された現実は元にはなかった鮮やかさを見せる。そのようなことがあります。この「袋」という詩はまさにそのような作品です。現実の体験やもろもろの出来事を元にしています。

 おそらく、フランスに留学した初日のことを書いているのでしょう。言葉の違う、習慣も違う世界に、一人で飛び込んだ日の、こわさと、緊張感、ワクワク感と新鮮な感覚、あらゆるものが心にたゆたっていて、これからここで住むんだという勇気も湧いて出てきている、つまりは生きてゆくぞ、という決意のようなものに満ちた詩になっています。

 それでも書いてあることは、「生きてゆくぞ」ではなくて、窓の外にぶら下げたビニール袋のことなのです。でも読む人は、そうかこのビニール袋はそういうふうに使うのかと知り、作者と同様に驚き、違和感を感じ、その違和感に慣れてゆくだろう自分の将来を予想します。

 言うまでもなく、窓の外で頼りなげに風に揺れているこの袋は、作者の心の袋をも表わしています。

 詩の中ほどの「駅の売店で買った水とオレンジを ビニール袋から出し/洗面台の鏡の前に並べる」というなんでもない行為を描いているところが、僕はとても好きです。これだけの言葉ですが、駅の売店で外国の言語を勇気をもって口から出し、お釣りをもらい、商品を受け取っている様子や、そんなちょっとした行為にも緊張感が伴っていただろうことが、詩の奥に見えてきます。

 この詩の優れているのは、作者の思いがそのまま読み手に流れ込んでくることです。ぼくは留学はしたことはありませんが、この詩の中で、きちんと留学体験を持つことができるのだと、そんな感じがします。

 峯澤さんの詩は、どれも鮮やかですが、どんな場面でも鮮やかになるのはなぜだろうと、ひとつひとつ読んでみると考えてしまうし、そういうことを考えるのはとても勉強になることだと思います。

 ぼくの詩は峯澤さんの詩のようには美しくはないけど、それでも峯澤さんの詩を読んだあとに詩を書くと、少しだけきれいな方へ傾いてゆくのです。

それでは2篇目「桃」です。読んでみましょう。



桃                        峯澤典子

市場が終わる前に
残っていた桃を買った
他人の赤ん坊を連れて帰るように
ゆっくり歩いた
そのことが
帰り道を明るくした
やっと迷わなくなった道で
顔をあげてもいい明るさだった

深夜 風呂場にいても
桃の香りがした
うぶ毛は眠るように穏やかだが
見えない傷は
広がっているのかもしれない

ナイフの刃をあて
傷みの場所を探すが
ひとのまなざしよりもはやく
指さきからてのひらをつたう液体は
くちにふくまれることなど
思いもせず
皿やテーブルにまで
とめどもなく落ち
香りとして広がることこそ
さいごの実りなのだと

吸うそばからあふれる
惜しみない甘さを
身勝手にこぼしながら
指のさきまでなぐさめられる
ひとといういきものの
夜よりも
はるかな
球体のひととき



「桃」について

 この詩は解説するまでもなく、ほんとに見事な詩だと思います。読んでいるだけで、桃の汁が詩から溢れてきそうです。どの一行も無駄がなく、それぞれの意味を充分に背負って置かれています。言葉そのものが果実のように匂ってきます

 一連目で驚かされるのが「他人の赤ん坊を連れて帰るように」という比喩です。「ゆっくり歩いた」という行為を説明するために「他人の赤ん坊を連れて帰るように」という、言うならば犯罪でもあり、泣かれてはその犯罪がバレてしまうようでもあり、と、ついそんなことを考えてしまいます。そしてこの犯罪を犯すという感覚は、単に形容として使われているだけではなく、桃を買うという行為の素敵さの裏側にある後ろめたさともつながっているのです。ですからもしこの桃を買ったのが、昼間の明るい中でだったら、このような比喩は使われなかったはずなのです。嬉しさとか、ワクワク感を感じる時に、こんなに幸せであっていいのだろうかという罪の意識を感じることがあります。そんな気持ちが含まれているのだと思います。

 そして二連目、「うぶ毛は眠るように穏やかだが」のところを読めば、そうか、桃から赤ん坊を連想するのは産毛のせいだったかと、改めて気が付きます。この産毛は桃や赤ん坊だけの産毛ではありません。この詩の言葉それぞれが、新鮮な産毛を生やしているようです。

 それからそのあとの、「見えない傷は/広がっているのかもしれない」のところで立ち止まります。「残っていた桃」だから、売れてしまった桃よりもどこかに傷があったのかもしれないと思いますが、いえこの傷は桃の傷だけのことではなく、自分の傷でもあるのだと気がつくのです。で、作者が桃を買ったのは、自分の中の傷を癒やすためだったかということがわかります。もちろんここを読んだだけでは何があって傷ついたのかはわかりません。でも、浅くはない傷であろうことは想像がつきます。

 三連目で桃をナイフで剥きますが、ここではもう桃と自分の見極めがつきません。ナイフで剥いているのは、自分の心であり、傷みの場所から私の思いが、皿にこぼれてゆきます。

四連目で桃を口にし、つまりは自分の傷口に口をあて、それで傷みは多少慰められているようです。仮にそれがその時だけの一瞬であろうとも、傷を抱えて明日もなんとか生き抜いてゆくだろうことを予感させてくれます。

 と、意味を考えながら読んでみましたが、この詩をどう読むかは読み手の勝手です。ひたすら言葉の見事さを頬張ってみるのも、ひとつの読み方であると思います。


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