詩の理想とは

下記は、先日の小池昌代さんとの対談で話したことの一部です。

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詩を書く、という時に、(こちら側)と(向こう側)の二つの側面があると思うんです。

(こちら側)

ひとつの側面は、まさに詩を書くということそのものの側面です。詩を書きたくて書く。書きたくて仕方がないから書く。その側面には、詩と、自分しかいないんです。(こちら側)です。

(こちら側)では、世界を遮断して、自分と詩のふたりきりになって、思う存分に詩を書いている、という側面です。

そこでは、自分以外に人はいませんから、書きたいことが、今、流行りの詩とはまったく違っていても、独りよがりでも、妙ちくりんでも、自分が夢中になって書けるものなら、なんでもいいんです。

言い方を変えるなら、どんなに先鋭な詩でも、許されるんです。どんなにどんくさい詩でも、許されるんです。自分がよいと思えばいいんです。ですから、勝手に行きたい方向へ、ずっと行ってしまった詩なんです。

(むこう側)

もうひとつの詩を書くということの側面は、詩を発表するということを念頭に入れた側面です。

そこには、今の詩の世界で読まれる、という意識が入ってきます。そして、せっかく読まれるんなら、誉められたい、人よりも目立ちたい、という気持ちが入ってきます。

詩は書かれれば、そしてそれがそれなりのできであるのならば、人に見せることになります。発表することになります。これは(向こう側)です。(向こう側)に行った詩は、たまに誉められたり、けなされたりします。自然と、心はそういうことに翻弄されるようになります。

ぼくは(むこう側)が必ずしも悪いことだとは思わないんです。人に読んでもらって、評価されて、幸せになっても構わないと思うんです。

でも、(向こう側)ばかり気にしていると、(向こう側)と(こちら側)の境目が破れて、(向こう側)のどろどろした思いが(こちら側)に染み込んでくるんです。流れ込んでくるんです。

詩を書くと言うのは、(むこう側)を意識しすぎて書くと、だから、どろどろした思いに、毎日、苦しくなるよということを、言っておきたいんです。

(むこう側)があることは知っていても、詩を書く時には、常に、(こちら側)にもどって、詩と二人きりになって、自分なりの先鋭な詩を書き続けることがよいのだと思うのです。

(向こう側)で誉められるために書く詩ではなくて、(こちら側)で勝手にやりたい放題に書いた詩が、(向こう側)で驚きをもって読まれる、というのが、詩の理想、表現の理想なのではないかと、ぼくは思うのです。

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