「詩のノート」

詩のノート
 
大田区の、京浜工業地帯、羽田から六郷川を少し上ったところに、私は住んでいました。ベークライト工場や、あらゆるものの部品工場のあいだに、貧しい民家やアパートがひしめき合っていました。下水工事も、近隣よりも後回しにされていた地域で、私とその友人は、詰襟の学生服を着て、地元の中学校へ通っていました。
 
50人一クラスで8組、合計400人いる学年の、ほとんどの生徒は勉強がそれほどできず、クラスのトップの成績になるのは容易な学校でした。I君とは、同じクラスになったことはありませんでしたが、それぞれのクラスの優等生として、家も近く、いつのまにか話をするようになり、友人になっていました。
 
一冊のノートにわたしが数篇の詩を書いて、それをI君に渡し、そのノートの続きのページにI君が詩を書いて、私に渡す。そんなことを、中学生時代、どれくらい続けていたのかもう覚えていません。
 
ある日、夕飯を終えてのんびりとテレビを見ていたときに、I君が私を訪ねてきました。玄関を開けてみれば、興奮気味のI君がいました。「すごいよ、松下、この詩すごいと思うよ」と、I君はノートに書いたわたしの詩を指差して、興奮していました。
 
思えばあの頃は、学校から帰ってくると、よく二人で六郷川の土手へ行き、幾度も二人で詩の話をしました。西脇順三郎の話をしたり、中原中也の話をしたり、ぼくらは熱い思いを、夕暮れの土手道を歩きながら、飽きずに話していました。

そのI君とは、高校が別になり、自然と会うこともなくなりました。わたしはわたしの高校で、一人でひそかに詩を書き続けていました。
 
その後、I君がどのような人生を歩んだのか、わたしは知りません。
 
ただ、私が社会人になってから、一度だけ、I君の角ばった文字を見たことがあります。それはわたしが詩集『肴』(紫陽社)を出版した頃のことです、出版元の荒川さんの家で時間をつぶしていたら、荒川さんが「松下さん、これ、『肴』の注文が来ていた」といって、何枚かの葉書を私に渡してくれました。葉書をめくっているうちに、「肴、一冊お願いします」という、特徴のあるI君の文字がありました。「そうか、I君はわたしが詩集を出したことを知っていたのだ。わたしが中学を出たあとも、詩を書き続けていたことを知っていたのだ」と思えば、葉書を持つ手が小刻みに震えました。

懐かしさに私は、I君に手紙を書きました。折り返しI君から返信が来ました。「もう子供がいる。君のことは忘れない。君の詩はずっと読み続けてゆく」という内容でした。


 
その手紙から四半世紀が経った頃です。2005年のある夕方に、わたしは外出から家に帰り、郵便ポストを覗きました。休日なので何も入っていないと思っていたのに、3冊の書籍小包が入っていました。そのうちの一冊の差出人を見て、わたしは驚きました。I君の名前だったからです。I君から詩集が送られてきていました。I君は55歳にして初めての詩集を出したのです。

中学生のときに、ノートに順番に詩を書いていた、あのI君です。わたしの詩集のあと、I君の順番に回るのに随分時間がかかりました。手渡されたI君のこの詩集は、ノートを開き、わたしに次の詩の順番をせかしているのでしょうか。

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