2023年12月3日(日) 何人かのぼくが詩を読み、詩を書く

さきほど家人が出かけてしまったので、また点ちゃんと留守番になってしまった。点ちゃんは自分用のストーブの前で丸まって暖まっている。邪魔をするのはよそう。

ぼくは相変わらず居間ののテーブルにPCを置いて、詩の通信教室に送られてきた詩を読んでは、感想を書いている。

で、感想を書いたものはそのまま置いて、数日後に読み直してから、その感想が的外れでないかを確認してからメールで送り返している。

いつも思うのだけれど、二度目に読むと、一度目に読んだ時には気付かなかったところが見えてくるということがよくある。つまり、たいていの詩は、時間を置いて二度読まなければ本当のところが見えて来ないんじゃないかと、常々思っている。

どうして一度目に読んだ時には気がつかないものがあるのだろう。一週間前のぼくと、今のぼくの、二人が読んでやっと人の詩が理解できるというわけだ。

それって、詩を書く時にも、同じことが言えるのではないだろうか。

例えば今日、一編の詩を書き上げたとする。今書き上げた時だし、なかなかよいできだと思う。でも、そのまま発表するのは危険だということをぼくは知っている。なぜかというと、まだたった一人のぼくしか、その詩をよいと思っていないからだ。

それから詩を忘れて一週間を過ごす。さて一週間前に書いた詩はどうかなと思って読み直す。そうすると、一週間前に書き上げた時には完璧だと思っていたのに、読み直すそばから、意味不明な箇所や、文法的におかしいところや、副詞がとんでもない位置にあることに気付く。なぜこんなことが、書き上げた時には気付かなかったんだろうと思うけど、そういうものなんだ。

だから一週間前の一人目のぼくが面白いと思った詩を、一週間後の二人目のぼくは手放しに面白いとは思えず、直さなければならなくなる。

そうやって、日を置いて、三人目の僕が読み直し、また日を置いて四人目の僕が読み直し、ということを繰り返していると、いつか、これでいいんじゃないだろうかと、何人目かのぼくが認めて、それで発表をする。

自分の詩がよいものかつまらないものかはとても分かりづらい。だからこうやって、何人かのぼくが認めたところで詩を完成とするのがひとつの方法であると、ぼくは思う。

詩を読む時も、詩を書く時も、昨日のぼくと今日のぼくは違うという、恐ろしいことを、知ったというわけだ。

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