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【実質無料記事!】孫子と日本史:教え⑮「死地に陥れて然る後に生く」元就の背水の陣 (孫子と厳島の戦いの関連) 


こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。




【はじめに:「死地に陥れて然る後に生く」のメッセージは?】

今回は、孫子の中に出てくる言葉で、「死地に陥れて然る後に生く」を、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

「死地に陥れて然る後に生く」って、聞いたことありますか? 意味的には、「自軍の兵を逃げ場のない場所において、覚悟を決めさせる環境を作り、自軍の兵力を最大限に引き出すこと」、といった意味と理解しています。これに似た言葉・戦略が、韓信の「背水の陣」と言う言葉ですが、こちらの方が有名で、意味も分かりやすい為、市民権を得ていると思います。

折角なので、この「背水の陣」を、Wikipedia の力を借り調べてみますと、井ケイの戦いの中の、”背水の陣”の段落で説明されています。

”井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子天官編』に「背水陳爲絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった
趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた”(略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/井ケイの戦い

Wikipedia より:淮陰公韓信(『晩笑堂竹荘畫傳』より)と戦いの場所と言われる、中国・井陘県の場所

Wikipedia より:淮陰公韓信(『晩笑堂竹荘畫傳』より)

皆さんご承知の内容だと思います。(逆の攻める側の視点で、孫子の名言の中に、「囲師には必ずかく」と言う別記事で紹介させて頂いた言葉もありますが・・・)

【「死地に陥れて然る後に生く」の日本史における実例は?】

では、この「死地に陥れて然る後に生く=背水の陣」の考え方を日本の歴史の中で実践した戦は思い浮かびますか? 私が思い出したのは、、、



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