見出し画像

選択肢

双子が小学校に入学すると、今までの勤務体制が終了して、通常の勤務体制になる。
そのタイミングで、病院の移転が決まっていた。

病院に近い立地でマンションを購入していた。通勤は自転車で10分ほどだった。それが移転先は、車でスムーズに行けて3.40分、公共機関を使えば、1時間程かかる場所だった。

小学校に上がるタイミングで、移転はかなり辛い。
今の病院を続けるかどうか、大吾に相談しても、「おれは別にお前が働く必要性を感じてないけんどっちでも良い」「辞めるなら退職金で時計買ってくれん。フランクミュラーの。。」と言って、全く相手にしてくれない。

今でもバタバタの生活なのに、通常勤務でしかも通勤時間も倍以上になるとなると、辞めるしかないと思い、辞める意思がある事を、上司に伝えた。
後日、上司を介して、看護部長から呼び出しがあった。

当時の看護部長は、私が新人の頃に教育をしてくれついた人だった。体育会系で、厳しかったけれど何かと可愛がってくれた人だった。子供の障害のことや、通勤時間など鑑みて辞めることを考えていると告げると、辞める事はいつでも出来るけれど、続けることを一緒に考えようと言われた。

続ける選択肢を与えてくれるとは思ってもなかった。
でも、現実問題続けることは難しいことを告げると、病棟ではなく、外来で働いてみないかと言われた。

外来という選択肢を全く持っていなかった。
外来は当時、職員というよりは、子育て中の有期職員が中心となって働いている部署と思っていた。そこに自分が行って大丈夫なのかという不安はあった。でも、やっぱり自分が選んで入ったこの病院を簡単に辞めることが出来ず、受け入れることにした。

それは、移転の半年前のことだった。

今までの、病棟勤務と全く違う世界に行くことは、不安だった。けれど、続ける選択肢を与えてくれたからには、頑張るしかない。勤め人である以上、いつでも、その場所で頑張るしかない。

辞令交付から2週間後、外来に行くことになった。同時に、病棟最後の日病棟の皆んなから花束や、贈り物をもらった。そして、患者さんからも寄せ書きを頂いた。私がいた病棟は、小児の先天性心臓病術後の病棟で、長期間の入院を余儀なくされる。

お母さん達とは家族みたいな関係だった。
子供達の看護をする中、自分の相談だったり、お互いが信頼しあっていた。そんなやりがいのある病棟の最後の日は、自然に涙が溢れた。

自分の選択肢が、正しかったかは、今から試される。
でも、続けると決めた以上自分の出来ることの最大限を発揮して頑張るしかない。

そんな気持ちで、外来初日を迎える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?