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スキナー「動機、意図およびテクストの解釈」の再構成レポート

経済学部一年 竹内 康司

 解釈に際して著者の動機や意図を考慮すべきではないと主張する批評家は、「動機」と「意図」を知る目的について混同した議論をしているとスキナーは指摘した。そこで、スキナーは、まず意図と動機を知る目的についてそれぞれ区別して議論を進める。

 著者の動機について知ることは、特定の言語行為を促すきっかけを知ることである。著者の動機は作品の出現に先行し、作品との結びつきは偶然的なものと見なされる。したがって、「動機」はテクストとは無関係であることを彼は認めている。

 一方、著者の意図について知ることは、ある型の作品を創造しようとする著者の計画ないし構想に触れることである。著者の「意図」はテクストの内部に存在するので、彼がどのような言語行為を遂行したのかを知る要因になる。

 では、著者の意図の意味を理解する手がかりはどこから見出されるのか。この点に関して、スキナーは言語哲学者J・L・オースティンの古典的分析を参照している。

 オースティンによれば、何らかの真剣な発言をする際、特定の意味を伴って話すにとどまらず、ある特定の発語内的力を伴っているそうだ。この発語内的力を「了解する」ことは、行為主体がその特定の発言を発することにおいて何を行っているのかを理解することに等しい。

 発語内行為(警告・約束)の実現には、発語内的意図が必然的に存在する。例えば、「今週、土曜日は暇です」という場合、「どこかへ連れて行ってほしい」、「雑事を任されても弊害はない」といった話者の思惑(発語内的意図)が込められている。繰り返しになるが、「了解する」とは、この思惑を汲み取ることに他ならない。

 著者がテクスト内で特定のフレーズを使用する所以は、特定の態度や特定の議論の方向に対する攻撃あるいは防禦という発語内的意図をもっているからだ。また著者の意図は、特定の主題の論じ方に寄与しようとする意図として明確なものでなければならない、ともスキナーは述べている。

 発語内的意図の理解がテクスト理解に有意であることを論じた後、彼は、解釈に際して考慮すべき二つの規則を主張している。第一の規則は、「単に解釈さるべきテクストのみに焦点を当てるのではなく、テクストが扱っている論点や主張の論じ方を律している支配的な諸慣習にも焦点を当てるべきだ」というものである。

 テクストにおけるコノテーションは、テクストの構成法など「字義」に依らない側面から派生するのであろう。したがって、ある著者がある概念を用いた際に行っていたと思われることを理解するためには、我々はまずもって、特定の時点で、特定の主題を論じた際に、その特定の概念を用いることによって、一般に(著者が)それとわかるように行われえたと考えられる事柄の性格と範囲とを把握しなければならない。この「評価」はテクストそれ自体から演繹される性質のものだけではない。また解釈者はこの「評価」を通して、著者自身のテクストとの関係性、影響力に着目することになる。

 第二の規則は、「著者の精神世界、すなわち著者が経験的に持っていた信条の世界に焦点を当てるべきだ」というものである。この規則の具体事例として、C・B・マクファースンの解釈が想定するような信条をロックは、持っていなかったということをあげている。

 これら二つの規則からスキナーは「テクストの意味を解釈しうるためには、テクストそれ自体以外の他の要素を考慮する必要がある」と再度、結論付けている。つまり、彼曰く、著述に関しての著者の意図についての知識は、著者が作中で書いている事柄の意味についての知識に大きく寄与する(あるいは、それに等しい)のだ。

参考文献
クエンティン・スキナー.1990.思想史とはなにか.Tokyo:岩波書店

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