見出し画像

いつ我が子を好きになれるんだろう?

 私は褒められた母親ではない。

 子どもを産んだ瞬間に愛情がパチンと湧くことはなかったし、世界で一番愛する存在ができたとは思わなかった。 愛することにしようと決め、まだ中身を伴わない決意だけがあった。産んだ日を境に私の価値観や世界が一変するようなこともなく、ただただ産んだ日の翌日が始まっただけだ。もちろん、大切にしなけれ命として、お腹で育てている時からびくびくと、恐る恐る大事にはしていた。責任感や大事さを愛と呼ぶなら、妊娠時から愛してはいた。でも責任と愛がイコールっていうのもなんだかしっくりこない。産んでからも、しばらく、かなり長い間「いつこの子のことを大好きになるんだろう?」と思っていた。ネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味でなんだけど、(いつ大好きな人になるのかなワクワク♩みたいな)こんなことを言うと、母性が欠如しているだのなんだの思われそうで口には出せなかった。しょーーじき、子と夫だったら、夫の方が好きだった。だって大好きだから結婚したんだし。だってまだ、子のことよく知らないし、対話したこともないから大好きではないし、と思っていた。

 私は死生観がバグってるので、出産前から「自分よりも大事な命」というのは我が子に限らず結構ある。愛犬の命も、親の命も、夫の命も、自分より大事だ。それは対象への愛が大きいからというよりは、自分の命が小さいからな気がする。私の命を愛している親や夫が悲しむから、自分の命を小さく見積もってはいけないらしいぞと自分に科しているような感覚で生きている。

 子どもを好きって一体どういうことなんだろう。可愛いとは思う。小さいし。でも、それって見た目の話じゃないか。じゃあ内面を好きになるんだろうと思っても、まだお腹から出てきたことにすら気がついていないような我が子は、焦点も合わずふにゃふにゃとしていて、寝て飲んで泣いては、排泄をしてばかりだ。たまに笑うがこれは「新生児微笑」といって「面白いこと」や「喜び」に対して笑っているのではなく、反射的に起こる生理現象だという。これじゃあコミュニケーションは取れず、彼の内面はわからない。見た目でも、内面でもなく、沸き起こる「べき」好きって、なんだろう?この生き物は、私がいないと死ぬ。か弱さや、庇護欲を動機に産まれるものが愛ならば、そんなのはなんかグロくて嫌だなぁ。そんな具合に、私は「いつ我が子のことを大好きになるのか」楽しみに待っていた。

 そして今。我が子は2歳半になる。この間夫と話している最中に「アリカが子のことを大好きなのも知ってる」みたいなこと言われた。あまりにも自然でなんの違和感もなかったのでそのまま話を終えた。数日後になって、そんなことを言われたことを思い出して、ちょっとびっくりした。

 うん確かに。私、子のこと、大好きみたい。

 え。え。え。いつから?!!愛を、間違えないように、私は注意深くその時を待っていたのに。庇護欲と間違えないように。責任を愛と気安く呼ばないように。見た目の愛くるしさに惑わされないように。生きがいを育児に託すようなやり方で愛してしまわないように。

 それなのに、「大好きになる瞬間」を見逃してしまった。気づいたら私は子のことが大好きになってしまっていた。くそぉ。

 しかしそれでも、わからない。わからないままなのだ。子どもを好きっていうことが、どういうことなのか。見た目や性格を好ましく思っているが、それは私が子のことを大好きになったことに寄与しているような実感はない。

 もしかしたらだけど、瞬間の積み重ね、なのかもしれない。ゲップをするときの変な顔とか、ミルクをこくんこくんと飲む小気味良いリズムとか、私のことも夫のことも「ママ」と呼んでいたこととか、転んだ時に絵に書いたような涙の堪えの方をしていた顔とか、「ごめんね」を言わなければいけない場面でいつもわざとニヤニヤして私に怒られるニヤケ顔とか、食べ物かおもちゃで釣らないとなかなか自転車に乗ってくれないお迎え時間とか。一つ一つは見た目や内面の、長所とは呼べないようなこと。長短ではない、瞬間たち。その積み重ねによるグラデーション。ここまでは愛未満で、ここからは愛ですみたいなボーダーはなくて、だから私は見逃した。

 いつ我が子を好きになるんだろう?の答えは、とても月並みになってしまう。「いつの間にか」だ。悔しいが、私の負けである。



#創作大賞2024#エッセイ部門


この記事が参加している募集

育児日記

#創作大賞2024

書いてみる

締切: