出産が大変じゃなかったと言ったら殺されそうだが
殺さないでくれ。
私が幼子を残して殺されるのも、本来善良な人が罪に手を染めるのも、どちらも本意ではない。だから、ここから先は、殺さないでくれる人だけに読んでほしい。
私は一度出産を経験している。「出産おめでとう!」「大変だったでしょう」「頑張ったね」等々嬉しい言葉をかけてもらったが、なんだか申し訳なかった。申し訳ない。だって私の出産の感想はこうだ。
「はー面白かった、楽しかった!」
子どもの夏休みの絵日記ばりの小並な感想だ。面白かった。楽しかった。でもこれが一番しっくりくる感想で、そこに枕詞として「大変だったけど」とか「もう二度とやりたくないけど」とかはつかない。純然たる楽しかった100パーセント。言葉にするのも憚られるが、「思ったより大変じゃなかった」とさえ思った始末だ。
(あくまで私個人の感想であり出産の大変さを矮小化する意図も論理性もないことを強調しておきたい。出産が命懸けなのは言わずもがな。)
本来「大変だった」って言っても、「大変じゃなかった」って言っても良いはずだと思っている。だって私の出産で、私の痛みで、私の行為だし。でも、なんか殺されそうな危うさを孕んでしまう。
大変じゃなかった一番の要因は「無痛分娩」だったことだ。しかもありがたいことに私の出産した病院では土日でも24時間ほぼいつでも麻酔できると言われたので「確定無痛分娩」である。しかし結構セレブな病院だったりしても、麻酔科医のいない時間や土日祝は麻酔できませんみたいな病院は多いようだ。その場合の無痛分娩は「ワンチャン無痛分娩」だ。出産の痛みは手足の切断レベルとも言われているにも関わらず、無痛か有痛かは不確定な賭けに出なければいけないのはなかなかの不条理である。ちなみに無痛と言えど、もちろん無痛ではない。ネーミングセンスを疑わざるを得ない。改名求む。
最初は陣痛に気が付かなった。陣痛初期の痛みは便秘と酷似していて、わたしはトイレに篭っていた。痛みに波があるのもまたそっくりだ。でも痛みの間隔が一定であることから、もしや陣痛か?とトイレから出た。だんだん「うううう」と声を出すのを我慢できない痛みから、「うううう」と言いながら病院に向かう車のシートを引っ掻かないと我慢できない痛みに移行していった。待合室でも「うううう」と待合室の椅子を引っ掻いた。妖怪イスヒッカキーの登場に、検診に訪れたであろう妊婦さんたちが驚いていた。陣痛の波が引くと、周囲にペコリと頭を下げて「あ、すみません」と人間らしく振る舞い体裁を整えていた。(整ってない)
そんな痛みからも、麻酔を打った途端に解放された。麻酔打つ部屋では、なぜか天井にプロジェクターが投影されていて、なぜかグアムやハワイの映像が流れていてシュールで面白かった。麻酔は背中に針を刺して管を通す(⁈)みたいで、想像すると怖かったから、麻酔を打たれている間ずっとちびまる子ちゃんの踊るぽんぽこりんを脳内で歌っていた。なんならちょっと声に出して歌っていた。ポンポコリンは馬鹿馬鹿しい歌詞と陽気なリズムで恐怖を和らげてくれるので、おすすめだ。
確定無痛分娩と、ポンポコリンと、なんかやたら優しくしてくれてウハウハラッキーな夫の態度のおかげで、私の出産に痛みは少なかった。めくるめく新しい体験と環境がただただ楽しかった。産んだ後、子どもと初めて対面して、これがお腹に居て今私が出したということがなんだか面白かった。夫がすごくニコニコしながら子どもを眺めていたのを眺めていて楽しかった。子どもの顔が前澤優作さんに似ていて面白かった。翌日から個室に入院したが、個室は快適でホテル暮らしみたいで楽しかった。トラベル用の使ったことのないメーカーの新しい化粧水を使うのが楽しみだったし、夫が面会に来る前に化粧なんかして楽しみに待っていたぐらいだ。ちょっと離れると、夫に会えるのがより嬉しく感じてイイネ!と、私はひたすらに呑気だった。パッパパララー♪あ、でも出産は大変じゃなかったけど、妊娠は大変だった
ところで私は絶対に「子どもが産まれました」「子どもが産まれてから何年経った」とは言わないようにしている。頑固な意志で「子どもを産みました」「子どもを産んでから何年」と能動態を使うようにしている。子どもを望んだのも、産んだのも、私の意志で私の能動的行為だ。子どもに選択権はない事柄だから。「産まれる」は「I was born」、受動態だ。
吉野弘さんの詩を思い出す。
生まれさせられた我が子。産んだものの責任を、ちゃんとわかっておきたいから、私は「産んだ」と言葉を丁重に扱いたい。「私が産んだんだぞこの可愛い命!!!」という功績アピールではない…よ?うん、全然、確かに可愛いし、私凄いけど、うん。