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剥がされた言葉は陳腐に響く

 自分が感じたことを他者に伝えるのは難しい。

 この言葉に救われた、この楽曲に救われた、この小説に大袈裟じゃなく命を救われた、そんな経験がある。でも、どうしても同じ温度で誰かに伝えることができない。言語化能力や文章力が低いのは言うまでもないが、それだけじゃない理由があるような気がして考えたのが

「剥がされた言葉は陳腐に響く」という一つの仮説である。

 例えば、名言集。どんなにすごい言葉でも、文脈や背景から引き剥がして寄越されても、何も伝わってことない。好きな楽曲の話をしたくて、ここの歌詞が良くてね、とまたメロディーや歌声から剥がした言葉を人に渡しても、やっぱり何も伝えられない。なんでだろうなんでだろう、ともどかしい。

 伝わらないだけならまだしも、「陳腐」に聞こえてその言葉の価値さえ下がるのではないかと、私はいつだって怖い。

 「何か」を伝えるのには、表現が必要なんだと思った。小説ならば、「物語」が。何百ページにも及ぶ物語は、たった一つの「何か」を伝えるための手段なのではないか。音楽ならば「演奏」や「歌声」が。そういった表現たちが、ともすれば「陳腐」と捉えられかねないような、でもそこには限りない真実や救いがある言葉に、説得力を与え、心まで運べるのだ。

 唐突だが私には議論ふっかけ癖がある。もはや生業かもしれない。いつもの如く、私はこの仮説について車を運転している夫にふっかけた。 

 「うーん、あ、でも短歌とか俳句は?」と言われた。

 た、確かに。あれらは、「何か」を言葉のみで寄越して来てないか…?私はあまり詩や俳句に明るくないので、ちゃんとした答えはわからない。でも、あれらにも「字数の制約」「リズム」そして何より、想像させる「余白」があるように感じる。だからやっぱり「表現」があって、説得力をもって、「何かが心にまで運ばれてくる。

 でも、書評やレビュー、noteで引用された言葉にだって、心は動く。一概に「剥がされた言葉は陳腐に響く」わけでもなさそうだ。結局世に放たれている時点で、「表現」が加わっているのかもしれない。

 と言うことは。私が何も伝えられないのは、言語化能力と文章力といった、つまり「表現」が足りないのだ。仮説の検証は、失敗に終わった。

 自分自身の心に届くものとの邂逅は、自分自身にしかできないとも言える。誰かに会わせてもらえるもではない。タイミングもある。過去の自分に届かないものが、時を経て届くこともあるように。

 私は多分、ずっと「何か」を受け取って生きていきたいのだ。そして、「何か」を届けるのことだって本当はしてみたいのだ

「 i 」西加奈子
「極彩 | I G L (S) 」ROTH BART BARON

 ちゃんと表現を加えて届く形にしたいのでまだ語らないが、私が命を救われた作品を置いておく。いつか、届けたいと思っていること。

 姉が自死を選んだ時、私は誰にも話したくなかったし、泣きたくなかった。寂しくなんてなかったし、会いたくなかった。親の背中をさすってあげるなんて、したくなかった。でも、これらの作品は、私に涙を許してくれた。

 君の物語を、絶やすな。絶やすな。


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