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90年代の自衛隊~キナ臭いけど平和だった時代~

背景情報~冷戦終わったンゴ~

前回のあらすじ

ソ連崩壊(イメージ)

 ソ連とかいうクソデカ暗黒共産主義国家が無くなりました。やったぁ!
 でも我が国の周辺にはまだ楽しい面子が揃っています。クソが。

 冷戦の主眼は飽くまで東西ドイツと東欧、そしてソ連であり、東アジアは米国がベトナムでボッコボコにされたのと朝鮮半島で乳繰り合ってた以外は基本的に平静であり、少なくとも我が国は『軍備を存在』させ、『基地を提供』すれば十分その責任を果たすことが出来ていました。
 そして世界はグローバリゼーションの潮流にあって、東西対立の解消と核戦争による人類滅亡という恐怖の消失は、西側諸国を安堵させるのに十分な威力を持っていました。

 しかし新たな冷戦の芽は既に東アジアで芽吹いており、自衛隊と米軍はこれを気にしつつ、世界的な『平和の祭典』を楽しんでいました。丁度最初の方はバブルでしたし。

 今回はそんな90年代の自衛隊を扱います。ゆっくりしていってね!

冷戦が終わった後、自衛隊はどうしたか~求職票を握りしめて~

緊縮がアップを始めました~軍縮の季節~

 冷戦終了後、取り敢えず勝利の美酒を愉しんでいた西側諸国ですが、軍隊はそうもいきませんでした。
 これまで認められてきた予算がゴリッゴリに減らされ、『小遣いバンザイ!』と毎会計毎に叫ばなくてはいけなくなる程には貧乏になったのです。
 まぁ考えてみりゃ当たり前で、軍備なんて少ないほうが良いに決まっているのです。軍縮すれば生産年齢人口JKの無駄遣いはしなくて済むし、正面装備の購入費だって維持費だって圧縮できますし、何より軍縮してその分を票が取れるような別の政策社会保障とかなんか聞こえが良いやつに回せば、国民が喜びます選挙に勝てます
 なので冷戦後、西側諸国では『取り敢えず軍隊を棒で適当にバンバン叩いて緊縮し、軍隊は部隊の消耗によってこれを遅滞し耐え忍ぶ』というムーヴメントが起こりました。

 そして自衛隊という武力組織も、この宿命から逃れる事は出来ませんでした。軍隊じゃ無いのに!

 そこで各国軍は冷戦終了後、ソ連が崩壊する前から『こんな事も出来ます!』という仕事を創造して頑張る必要がありました。この過程で『価値創造的任務』とか『非戦争的軍事任務MOOTW』とかが出てくる事になりました。

 簡単に纏めると、今までは核兵器や通常兵器を振り回して『価値剥奪』的な能力を保持していればそれで良かった軍隊が、冷戦の終結によって『タダ飯喰らい』へとジョブチェンジした結果、求職してバイトを始める事になった。
 というのが90年代に於ける西側正規軍の概観と言えるでしょう。

国際貢献の時間だ!~但し武装は制限付き~

 そんなこんなで自衛隊も様々な任務を探し始める訳ですが、冷戦が終わったなら米ソ対立で機能不全に陥っていた国連が、本来の設立目的である平和維持機能を十全に果たせるんじゃないかという期待本来国連は独裁国家の演説会場では無いから、国際貢献しようぜという話になりました。

 最初の海外派遣任務はまだソ連がギリギリ残っていた1991年6月、湾岸戦争の結果、機雷が敷設されまくって通行できなくなったペルシャ湾での掃海任務という形で行われました。
 結果は無事我が国の掃海技術の高さと装備のショボさを世界中に誇示して任務を完了し、海上自衛隊は意気揚々と凱旋しました。
 ここで問題になったのは『自衛隊を海外に派遣するとは何事か!』と目くじらを立てる方々日本社会党や日本共産党である事は皆様御存知の事と思います。
 この時には『当該地域に於いては戦闘が当事者の合意の下終了しており、それに伴って戦闘海域では無くなった』という理屈を立て、当時の自衛隊法九十九条を根拠に出動しました。

第九十九条(機雷等の除去)
 海上自衛隊は、長官の命を受け、海上における機雷その他の爆発性の危険物の除去及びこれらの処理を行うものとする。

自衛隊法
昭和二十九年六月九日法律第百六十五号

 この少し前の3月、多国籍軍のクウェート開放に伴って発出した感謝広告の中に日本が含まれていないという事件が起きていました。

 当時日本は135億ドルもの資金を多国籍軍に結構無理して支援していた為、感謝広告の中に国旗はおろか名前すら挙げられていなかった事に『びっくりして、泣いちゃった』のです。
 そして『やっぱり金だけじゃ駄目だ!』となって派遣が断行され、その後クウェート政府から日章旗があしらわれた記念切手が発行される等の『感謝ハッピースマイル』が伝えられた事から、『やっぱり自衛隊が出ていって汗を流さなくては、これからの国際社会では駄目だ』という共通理解が生み出されました。

 まぁコレ、現場猫案件だったんですけど。

 そういう理解の下、1992年に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律PKO協力法が公布され、自衛隊の海外派遣が法制化されました。
 コレを基に同年9月にはアンゴラ国際平和協力隊が、そしてカンボジア国際平和協力隊が、それぞれ派遣される事になりました。
 尚この時代にはまだ『自衛隊を海外に(以下略)』と国会で騒ぐ皆様平和ボケした主権者の正当なる代表が元気に活動していた為、持っていける武器は小銃と銃剣とけん銃だけという、現地のゲリラ兵以下の装備でしたが頑張りました。
 施設科は最初に戦場に入って最後に戦場から出ていくタイプの戦闘職種なので、一人の犠牲者も出さずに任務を完遂し帰ってくる事が出来たのですが、残念ながら1993年5月に文民警察官が殉職するという結果を招きました。

 そしてこのような過剰な自衛能力抑制は良く無いという事になり、1994年12月のルワンダ派遣からは機関銃を一丁だけ持っていける事になりました。やったね!

 尚これを主張した日本社会党は当時与党でした。
 もう駄目だろこの国。

北朝鮮が暴れ始めました~北朝鮮核開発問題の芽生え~

 ちょっとだけ時計の針を戻して、1993年5月にします。奇しくも文民警察官が殉職したこの月、日本の隣の朝鮮半島では北朝鮮が元気にミサイル開発に勤しんでおり、準中距離弾道ミサイルノドンを日本海へ向け発射しました。しかもこの時代、BMDなんて概念は米国でスターウォーズ計画の中に内包されていて、スターウォーズ計画と共に緊縮棒でぶん殴られた結果安らかに眠りかけていた為、日本の防空警戒網に弾道弾を探知し続ける術はありませんでした。この結果として正確な飛行経路は不明のままです。
 しかも以前から核開発疑惑を持たれていた為、『北朝鮮核武装しようとしてるんじゃないのか疑惑』が持たれる事となりました。
 これを決定づけたのが1993年の核拡散防止条約脱退表明で、これにより世界中が『あっ……(察し)』となったのです。
 ならなかったのは日本の左の方だけでした。
 これにびっくりした日米韓は、何とかしてコレを止めようと取り敢えず対話する事にしました。(成功体験一回目)
 その結果として北朝鮮は、核兵器開発計画の放棄と黒鉛炉の廃止、その見返りとして軽水炉2基とそれが完成するまでの間毎年50万tの重油を日米韓で提供するという枠組みに同意し、取り敢えずは朝鮮半島から核の危機が去りました。残念ながら、心の底から去ったと思ったのは日本の左の方だけでしたが。

中国も暴れ始めました~第三次台湾海峡危機~

 1989年に天安門事件があったのは皆様御存知かと思いますが、この結果として中国が西側諸国にカウントされる事は一切無くなりました。国際的に見てあれはヤバ過ぎたのです。
 その記憶も鮮烈な1995年、台湾で李登輝が総統選に出馬します。
 そしてこの李登輝は独立派でした。

 中華人民共和国からしたら「国際的に孤立してる上に台湾が独立なんてしたら『中国』の正統政府が再度中華民国になっちゃう」という最悪のシナリオが共産党の脳内にポップアップする訳で、無事恐慌状態に陥りました。
 なんつったってCHINAは国連安保理の常任理事国ですから。そうなったらまた外交大立ち回りを頑張らなきゃいけません。しかも今回は『人を戦車で轢き潰した側』です。マジやべぇ。

 この結果、三回に渡って台湾近海にミサイルをブチ込む事で台湾の選挙に介入しようとしたのですが、当時冷戦に勝利してイケイケだった最強無敵アメリカ海軍が台湾海峡にやってきました。しかも空母を台湾海峡に通過させるという大胆な行動に出ます。完全に人民解放軍を舐めきったこの行動により、中国は米海軍相手に手も足も出ない事を認め大人しく引き下がらねばなりませんでした。
 尚めっっっっっっっっっっちゃ悔しかったので、これ以降中国は外洋海軍力強化を模索し始める事になります。

たぶん当時の中共指導部の脳内にはコレがよぎった

 人民解放軍海軍に対して空母は政治の道具戦略兵器であると強烈に印象付けたのは、アメリカ海軍の罪であると言えるかもしれません。

07大綱の策定〜新しい自衛隊のあり方~

 そんなこんなで冷戦終結後も『我が国独自の防衛力』が必要とされ続ける中、村山内閣は1995年11月『平成八年度以降に係る防衛大綱の策定について』を閣議決定します。
 ここでは、これまでの防衛力整備について、

 我が国の着実な防衛努力は、日米安全保障体制の存在及びその円滑かつ効果的な運用を図るための努力と相まって、我が国に対する侵略の未然防止のみならず、我が国周辺地域の平和と安定の維持に貢献している。

平成八年度以降に係る防衛大綱の策定について
平成7年11月28日

 と冷戦の勝者らしく自画自賛しました。周辺環境の事気にしてる?
 この大綱では、1995年1月17日に阪神淡路大震災、3月20日に地下鉄サリン事件があった事もあって災害派遣、そしてこれまで見てきたような国際協力活動の実施等を踏まえての任務の多様化に対応しようという事が盛り込まれました。

 情勢判断では、ソ連が崩壊した事による緊張緩和への安堵から先程挙げたような現代まで続く問題の根っこが発生した事に一応触れた後、グローバリズムの息吹もあって非常に楽観的とも言える内容が記述されています。

 その結果、隊の体勢としては『基盤的防衛力構想』を踏襲した上で冷戦終わったからコンパクト化するンゴという事実上の軍縮に襲われる事になりました。これはまぁ世界的潮流だから仕方ないとして、問題は『前から必要最低限の武力しか整備して無い基盤的防衛力構想』事でした。
 思い出してください。この時代の自衛隊は、もし本格的な国際紛争が発生しそうになった際に『速やかに必要な体勢に移行する』為に必要な基盤としての役割を前提として、『力の空白』にならない程度の規模が整備されてきたのです。

 なので幸いにも部隊そのものはちょっとしか正面装備の大幅な導入減とコンパクト化減りませんでした。バブル崩壊もあったという事を申し添えると、ドイツ連邦軍みたいにどっからどう見てもボッロボロにならなかった事は驚異的とさえ言えるでしょう。
 そしてこれらの事情こそが、今や新冷戦に突入した自衛隊が常に『正規戦対応型』の古臭い体勢であり続けた理由だという見方も出来ます。

 しかし冷戦期に『欲しかった』装備である90式戦車、89式装甲戦闘車、96式多目的誘導弾システム等の高性能かつ高価な正面装備の導入がゴリゴリに削られてしまった事もまた事実であり、これは現在まで影を落としている事も、読者諸君は御存知かと思います。

97ガイドラインの制定~ちょっとずつ防衛力が日本国外へ~

 米国は流石にちゃんと覇権国家としての役割を自覚していたようで、朝鮮半島有事、台湾有事に於いて『出来るだけ他人の土地で戦争をする為には部隊が出張る必要がある』事をしっかり認識していました。
 そして東アジア地域に於いて展開拠点にする土地と言えばやっぱり日本になる訳で、冷戦時に殆ど国内に引きこもっていた事への恨みもあって、少しは手伝えという事になりました。まぁ当たり前ですね。

 この結果、日本は周辺事態法なんかを定めて支援への法的根拠を整備する事となりました。ちなみにこの時にも国会で大揉めしました。もう駄目だよこの国。

 周辺事態とは何かと言うと、日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与えると我が国が認めた事態の事を言います。こうやって逃げ道を作った訳です。
 その代わり、今まで付き纏った地理的な制約から解き放っている訳でその点では画期的と言えるでしょう。
 しかしやる事と言えば後方支援と臨検、即ち兵站支援や救難支援、そして海上封鎖の応支援位なモノで、本格的な戦闘には至らないような仕組みにはなっていました。

自衛隊にとって、90年代とは何だったのか~世界平和が芽吹いていたかもしれない時代~

 1991年のソ連崩壊以降、ヨーロッパでは平和と繁栄、そしてグローバリゼーションなんかが謳歌されていましたが、東アジアは妙にきな臭く、アメリカは天安門事件なんかをやらかした中国や、核開発疑惑がある北朝鮮と対立する気満々でした。

 日本は憲法9条の建前をガッチリ保持したまま冷戦時代を駆け抜けましたが、同時に今まで徹底的に日陰者であり、ゴジラに吹っ飛ばされる存在であり続けた自衛隊に様々な任務や役割を期待するようにもなりました。
 皮肉なことに、西側列強の多くが苦しんだ冷戦の終結に伴う軍事組織への任務や役割の多様化という潮流、即ち破壊専門集団からの脱却は、自衛隊という中途半端な存在にマッチしたモノであったと言えるでしょう。

 忘れてはならないのは、この時代にはソ連崩壊のお陰で目立った脅威は我が国の周辺に存在せず、核戦争による人類滅亡の危機は去り、国際協調と国連主導の平和維持活動、そしてグローバリゼーションによる相互依存と全球的な結合が推進されていた時代だったという事です。

 今この記事を読んでいるあなたはその結末を知っていますが、当時の日本は知りませんでした。
 我々の先達は、憲法9条という縛りの中、自衛隊が日本に出来ることを最大限追求し、そしてその幅を広げる為の種を植え芽吹かせる事に成功したという功績があった事は強調したく思います。

 知っての通り、世界中の人々が平和への夢――将来は電子の海の中で国境と人種は溶けて無くなり、技術は全ての課題を克服する――という理想に浸っていられた時代は残念ながら非常に短いものでした。

ニューヨーク・世界貿易センタービル

 20世紀末、世界中の人々は21世紀が平和の世紀になるという希望に満ち溢れていた事を、最後に書き添えておきます。

そして新世紀へ……↓
2000年代の自衛隊〜そして(ろくでもない)新世紀へ〜|botamoti・ω・記念称号民間牡丹餅設計工作局(CV.ゆっくり魔理沙(Softalk:女性2))|note

おわりに

 ここまでお読み頂きましてありがとうございました。このnoteは『自衛隊』について皆様の理解を深めて頂くため大体三部作でお送りする予定でしたが、長くなったので四部作でお送りします。(自衛隊の誕生→冷戦期の自衛隊→90年代の自衛隊(イマココ)→自衛隊の現在)でお送りする予定です。続きは気長にお待ち下さい。
 ご意見、ご質問、苦情、罵倒、反論、指摘その他は全部受け付けておりますので、是非ともTwitterかコメント欄でお知らせ下さい。はてなブックマークも見てますまたリクエストも受け付けておりますのでお気軽にどうぞ。サラダバー!

追記

 このようなご意見をTwitterで頂きました。

BazilさんはTwitterを使っています: 「福島原発事故が小学生時代だった人が、なぜかソ連崩壊を目撃してる件。 https://t.co/smQdiMUcqr」 / Twitter

 私はこの時代、まだ生を受けておりません。

 端的に言ってあまりに短絡的思考というか、じゃあ時代劇作家は全員その時代に生きていたのかとか、色々と突っ込みを入れたいところではありますが、こういう人にあまり構ってもしょうがないので、誤解を招かない為に一応追記しておきます。


 何故こんなになるまで放っておいた。


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