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高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』読んだ

日本の貨幣の歴史シリーズだよー。

この分野の第一人者によるわかりやすい解説書だ。わかりやすいだけでなく、考古学的証拠も提示して興味が持ちやすくなっている。おすすめの一冊だ。

タイトルのとおり、古代の貨幣についてはさらりとしか書いてなくて、13世紀後半以降の、銭不足による私鋳から詳しいお話は始まる。経済の発展による銭不足と、動の精錬技術の発達が要因だったらしい。

政府も銭を発行しようという動きがあり(後醍醐天皇の失脚により未遂に終わる)、これは東アジア全体にみられたという。琉球、朝鮮、ベトナムの王朝も独自に貨幣を発行した。

日本では室町時代以降も、中国の貨幣を模造した私鋳銭が作られ続けて、やがて模造品ですらない無文銭も作られるようになる。銭が不足した背景には、明政府が銭をあまり発行しなかったこと、明との貿易が低調になったことがあげられる。

銭不足にもかかわらず、日本の政府が、他のアジア諸国のように貨幣を発行しなかったのは、海に囲まれていて国防費用が少なくてすんだこと、あるいは国防を地方政府に丸投げしていたことから、貨幣をそれほど必要としていなかったからと推測される。

銭不足に対処する方法のひとつが紙幣様のものを用いることだった。切符、割符、祠堂銭預状など。これらの紙幣的なものや、信用取引は、取引コストが低いために、戦乱の時代には重宝されることになった。

中世の銭による取引で重要なのは撰銭という現象である。15世紀後半にもなると銭不足は閾値を超えて、以前は受け取りを拒否されたような低品質な銭も市場に流通するようになる。どの銭を受け取るかの好みは様々だあったから、受取拒否が頻発するようになった。

次におこるのが銭の階層化。低品質な銭であっても、額面未満の価値ということにすれば取引可能なはず、という柔軟極まりない発想だ。銭の階層は同時期に中国でもおこっている。

ここで興味深いのは、私鋳銭などを放置してきた政府が、撰銭に介入してきたことだ。なぜ行政コストをかけてまで規制しようとしたのか。ひとつには銭を選り好みすると、結果的に貨幣の流通量が減って、財の供給も減ってしまうからだろう。貨幣数量説的な直感に反して、銭不足のために物価が騰貴することもあったらしい。
逆に飢饉のときには、買い手を保護するために撰銭を規制した(つまり通貨供給量を確保しようとした)。

政府が銭に介入したのには、銭で戦争を行えるような時代になっていたことも関連している。その一方で、銭不足は石高制という独特の仕組みも生み出している。

織田信長の時代になるとビタという言葉が登場する。ビタは銭の中でも低品質なものであるが、織豊時代には民間ではこれが基準銭になっていた。なぜなら、南米から福建省に銀が流入して、銭が作られなくなり、日本は深刻な銭不足に直面していたからである。信長も秀吉もこれを追認する法令を発布した。

つまり銭の階層化を法的に定義することで取引の円滑化を図った。

さらに秀吉は高額決済のために金貨銀貨を発行する。高額の取引は金銀を用いること、米を交換手段として用いないことを定めた。

豊臣秀吉は新規の銭鋳造を禁止し、貨幣発行権を独占しようとした。ただし銭を政府として発行することはなかった。

江戸時代に入っても、秀吉の政策が継続する。参勤交代などの都合から、銭の交換比率を標準化しようとする試みがあった。

銭不足は相変わらず続いていたので、民間での模造銭鋳造のほか、藩銭や藩札が発行されるようになった。

江戸幕府は慶長金銀をはじめ金貨銀貨は発行したが、銭に関しては民間や地方政府に頼り続けていた。しかし家光の時代に寛永通宝が発行される。とはいえ鋳造は民間業者が行っており、ビタの成れの果てともいえよう。

この時代、康煕通宝など東アジアで政府が銭を新規に発行する動きが広がった。宋銭およびその模造銭に頼る構図が終わりつつあった。

しかし日本においては民間の取引円滑化というよりも、武士階級の身分や制度を守るためという側面が大きかった。

明治維新以降は銭の仕様は段階的に廃止され、第二次大戦後に完全に使用が停止された。ただし銭という言葉は0.01円を指す単位として残っている。


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