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No border

最近色んな人に
『会うと案外しっとりしてるんだね』
と声をかけていただく

どっちが本当のみりちゃんなの?
どっちが自然体なの?
と言われたりもするが

どちらも自然体な私だ

『私』は色々な場面で
様々な人によって定義されるし
場によって自分の在り方もコロコロ変わる

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私のストーリーを聞いて
何を感じるだろう?

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娘が脳性麻痺で生まれ
1歳で亡くなった

自分が救われたように
たくさんの母子を救いたい!と願い

翌年には第二子の子育ての傍ら
看護学校へ行き
2000組の母子をケアした

9年ほど看護師として働いたが
身体のケアだけでは
ママたちを本当の意味で救えていない
と感じ

コーチングを学んで
コーチとして独立した

今はコーチの仕事のみで生計を立て
ママを始め、様々な方にコーチングを提供している

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爆速だね
勢いがある人だね
タフだね
頑張ってきたんだね

と言われることが多い

自分自身でも
勢いがある、と感じることもある

悲しいできことは沢山あったが
ケラケラ笑えている自分は
タフだなぁとも思う

でもそれは
私の一側面でしかないのだなと
改めて感じる

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この動画は
現在受講中のライフリーダーシップでの一場面

私の感情が溢れ始めた
そんな場面だと思っている


幼い頃から
両親にネガティブな感情は出さないよう
伝えられていた

怖いことがあったり
嫌なことがあっても
そう感じる自分はよくないのだと
蓋をして過ごしてきた

中学生でイジメにあった時
大人になって性被害に遭った時
父や娘をはじめ、家族が様々な形で亡くなった時

感情が大きく動いた時にも
それらを味わうことをしないようにし
蓋をして笑い
周りを支え
強く生きねば、と自分を律してきた

そんな経験が
少しずつ自分の身体と心を分離した

自分の身体の感覚も感情も
どんどんどんどん
味わいづらくなっていった

より思考型で生きるのが
私の生きていくための
方法でもあった

自分の無力さを
非力さを
味わうのが怖い

私はやっぱり、人を救えない

そう実感してしまうのが怖かったからだ


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自分や人のことを決めつけ
評価や判断をしてしまうことは
とても恐ろしいことだなと感じる

いつもニコニコしているから
思考型だから
しっかりしているから
傷つかないだろうから
何を言っても良いのだろうか?

そんなはずはないし
本当はとても、傷ついてきた
でもいつも、それでも笑っていた

女性の身体を持つことで
生きづらさを感じることもあった

女性と2人で泊まるのはOKで
男性と2人で泊まるのはダメだなんて
誰が決めたんだろう

大切な友達に変わりはないのに
性別が変わるだけで
急に周りの反応は変わってくる

じゃあもし
私の恋愛対象が性の制限を受けてないと知ったら
どんなふうに感じるだろうか?

私は性なんて関係なくみんなのことが好きだし
好きになった人が好きな人だ

寧ろ女性をそんなふうに見てしまう自分を認めきれず
女性を避けてしまうことも多いように思う

それを自覚してしまう温泉も
とても苦手だ

みんなのように
当たり前には温泉に入れない
リラックスなんてできない

自分は変なのかもしれない
と、自覚するのは怖い

全ての人が愛おしい
全ての人を受け容れたい

そんなふうに思うのは
おかしいことだろうか?

自分の女性の身体も愛おしい
女性の身体も堪能したい
でも
全ての人が愛おしい

性も人種もヒトかどうかも関係なく
どの命も等しく愛おしい

中学生の時の書き初めで
『博愛精神』
と書いた

変なの、と笑う人がいた
わたしは、変なのだろうか


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人の悪口を言わないなんて嘘くさい
裏があるに決まってる
どうしてそんな風に
悲しいことを言うのだろう

自分の言ったことに
様々な意味づけが加わり
違うように伝わってしまうこともある

とても辛いし、とても怖い

曲って伝わってしまわないよう
注意を払い
言葉にしていかなければならない

そんなふうにしていると
『作り物みたい』
と言われることもあった

でも、わたしは
自分の気持ちの
出し方がわからない

ある人は、私に言った
『頭がおかしいから、病院へ行け』

みりちゃんと、みんなは違うんだよ
あなたは特別だよ

そんな言葉にも傷ついてきた

少数派にならないように
生きていかなければならないこの世界は
なんて生きづらいのだろう

自分の生や性の在り方に
名前や枠組みなんて要らないはずだ

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様々なことを書いてきたが
これは、わたしにだけ起こっていることではない

様々な方とセッションをさせていただく度に

皆んなが それぞれに
『自分らしさ』や
『ネガティブな感情』
に悩んで生きているのだと改めて感じる

周りからこう思われているから
こんなふうに振る舞っている

自分でこう思っているから
こんなふうに振る舞っている

様々な枠組みに自分をはめると
それ以外の自分には
スポットライトが当たらないこともある

でも
何が良いか悪いかなんて
一体誰にわかるだろう

改めて
そこには何も定義など要らないと
そんなふうに感じる

ただ、ある

そんなわたしが、いる
そんな感情が、ある

それで良いじゃないか

曖昧なものを
赦していきたい


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こんなことを言っているが
自分にも様々な固定観念があり
評価や判断をすることが多々ある

それはもう、たくさんある

人と対話をすることは
それに気づけるきっかけだと思う

この人はこんなふうに感じるんだ
と違いを知れることは
結果的に自分を知ることに繋がるからだ

ヒトには
もっと対話が、必要である

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ライフリーダーシップでは
プロジェクトを掲げてそれを握って過ごしています

わたしのプロジェクトは これ⇩

【言葉】を使うヒトだからこそ
感じたことを言葉で発していきたい
【対話】も大切にしていきたい

そんな思いで掲げました

これを掲げたところ
『わたし自分の声全然聴けてないな…』
と気づき
少しずつ自分の身体や感情を味わっているところです

もっともっと
自分を堪能して生きていきたい

せっかく生を受け、生きているのだから
とことん自分の探求をしていきたい

自分を通してしか、世界を味わえないから




改めて
対話の場をもっと広げていきたいなと思う

対話は
自分と相手は違う
という前提の元に成り立つと言われる

自分や相手を評価/判断することなく
そこに湧いてきた思いや在り方で
ただそこに在る

そんな曖昧で評価や判断のない場は
きっとこれからの正解のない世界に
灯りをともしてくれると思う

家庭の場に
職場に学校に
医療の場に
衝突/対立/喪失の場に

対話が広がるよう
力を注いでいきたいと思います


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最後まで読んでくださって
ありがとうございました

出すことに緊張する内容になってしまったけど
最近なんだか自分の在り方を否定して生きてる気がしたので

自分の感情や、自分の在り方を
赦していきたいなと感じ綴ってみました

寝なきゃ!おやすみなさい💤



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