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2023.8 村田門左衛門の報告書

 7月3日に朝日新聞で小さな記事を目にした。
「薩摩藩を探れー熊本藩の『密偵』報告書」。熊本大永青文庫研究センターの調査により、熊本藩の密偵が薩摩藩に潜入して十八か条にまとめた報告書が、藩の家老松井家にあった文書から見つかった。

 内容は「鹿児島城の石垣の一部が洪水で流された」や「弾圧していた一向宗の信者を島流しにした」との重要情報や、「虫害による不作で年貢の取り立てが十分にできない」などの財政状況、なかには当主の島津光久が猪狩りばかりしているとの生活ぶりが記されている。
 薩摩藩は辺境にあって閉鎖的で秘密主義が目立ち、その内情は外に洩れてこない。領内への出入りの厳しさは薩摩飛脚と呼ばれた。その意味は入国した者は生きて帰れないと恐れられていた。
 熊本藩は幕府から薩摩藩の不穏な動きの監視を命じられ、そのため幾人もの密偵を送り込んでいただろう。そのうちの一人が報告書をまとめた村田門左衛門だった。


 どんな人物だったのか。いまのところ村田門左衛門の個人に関する情報は全くない。薩摩への潜入という危険な仕事ならば密偵には目立たなさが必須だっただろうと思われる。目鼻立ちに特徴はなく、体つきは中肉中背。方言でばれないように口数は少なく、物腰は柔和で怪しまれないようにしたに違いない。旅立つときは家族に地名も目的も明かせなかったはずだ。

 潜入後は、たとえば托鉢僧の風体で辻に立ち、道行く人の会話や噂話に耳を傾け、喜捨を受ければお礼のついでにさらりと気になる話題に触れてみる。真偽を確かめるために物売りに化けて噂の出所辺りを往復したかもしれない。集めた情報を命がけで持ち帰り、出世や報酬の見返りはあっただろうか。恐らく門左衛門はそれを望まぬ性格だったゆえ報告書のみに名前が残ったのではないか。

 この先の調査によって門左衛門の素性が明かされるのか。まだまだ興味が尽きない。


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