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「耳が聞こえてさえいれば」なんて、絶対に思わない!…ようになりたい

noteでもあちこちで語るように、かなりの動画沼にハマってる私。
そして、日本語字幕の有無で、「観たいもの」より「観れるもの」を選ばざるを得ないことも語ってます。

とは言っても、数年前に比べたら、ダンチな進展も。
地上波のドラマは、深夜枠も含め、字幕付きが増えてきて、たまーに「なし」を見つけると驚くくらいで、そーゆーのは捨て置けるくらい、観れるものが増えてきてます。
劇場で公開される映画も、字幕メガネ対応でいつでもどこでも字幕付きで観れるものが増えてきました。

「映画みにいこ!」サイト
https://www.bfeiga.net

ネックは、字幕メガネ自体の普及、かな。
私はモニターとして申し込んで使用してますが、個人で購入するのはかなり高価だし、劇場でのレンタルも進まない。聴覚障害者にも「文化的」な生活をする権利があるし、合理的配慮の観点からも、また集客の面からも字幕メガネ貸し出しがもっと広がったらいいのに、と思ってます。

ともあれ、字幕付きで観れる物が増えてきて、「選ぶ」贅沢まで生まれてきて、ほんと、ありがたいのですが、逆にこんなふうに「字幕で観れるのが当たり前」になりつつあり、「ほぼ」字幕がつくという中にあって、「本当に観たいもの」に字幕がない!と分かった時の落胆は、むしろ以前のように「ないのが当たり前、あったらラッキー!」時代より大きくなります。

「なぜ?!よりによって、これに字幕がないの?」

それが、まさに私がどハマりした『美しい彼』でした。

私がハマった時は既にドラマは地上波放送は終わってて、映画も劇場での公開を終え始めてる時期。
ドラマは最初、字幕なしのHuluだったので、PCにUDトークつないで視聴してました。直接繋いでたので、認識率、高かったし、なんとなく理解、その後、Netflixでの配信が始まり、字幕付き鑑賞できました。

問題は、映画館で鑑賞した「劇場版エターナル」。
公開当初はどうだったのか、分かりませんが、その時点で字幕メガネ非対応。
でも、観たくて観たくて、例え、内容がよくわからなくてもいいから観たくて、ネタバレない範囲で末っ子から予備知識を入れて、映画館へ行き、こっそり音声認識させてながらの視聴。
とりあえず、何が起きたか、は分かったし、美しい2人の姿を堪能した満足感はゲット!という感じでした。

その後、ビジュアルブックなどを端から端まで読んで、大事なシーンやセリフ、キュンキュンセリフのシーンなども頭に入れて、再度、劇場へ。

とりあえず、話は分かった。展開も、結果も分かった。

字幕なしでそこまでできれば、それで満足すべき、、と自分に言い聞かせながら、11月発売の円盤には日本語字幕の付くことを確認してポチった私。

発売日を指折り数えながら待っていたところに、エターナルが「Netflixで配信開始」のニュースが!!

観ましたよ、配信開始日に。

でね、、、やはり衝撃でした。

やっぱり違うんですよ、字幕ありで見ると。

「ファンが選ぶベストキュンキュンセリフ」とかに選ばれないような、さりげない言葉。
深いため息の音
画面の外からの声
(地響きのような音)みたいな効果音の説明

セリフ一つ一つ、
モノローグ一つ一つ、
効果音一つ一つ、

それら全てに意味があって、作ってる人、演じている人の思い入れがあって、それが観ている人に伝わることで、より深い理解や感動につながるんだ、と。

それらを「音」で聞けない私たちには、やはり「字幕」という方法で「目」で聞く必要があるんだ、と。

私だって、平良と野口さんがラーメン食べながら交わしてる会話にクスッとしたかった。
落ち込んでいる時に、平良からのメッセージを受け取って、じんわりとした嬉しさにこぼした、清居のため息に気づきたかった。
意識を失いつつある平良のモノローグと清居の叫び声が重なっていることに、グッときたかった。

字幕で観てみて、あらためて、みんなは当たり前に楽しめていたものを、私は楽しみきれていなかった、ということに落ち込んでしまいます。

でもね。
そんな時、「私の耳が聞こえていれば、、、」って思うのはもう止めたいと思うのです。

だって私、「障害の社会モデル」への理解啓発の講義や授業をしているのだから。

「障害の社会モデル
「障害」は個人の心身機能の障害と社会的障壁の相互作用によって創り出されているものであり、社会的障壁を取り除くのは社会の責務である、とする考え方

「ユニバーサルデザイン2020行動計画」より

それに対して、「私の耳が聞こえないせいで、映画を、ドラマを楽しめない」って考えるのは、「個人モデル」

「障害の医学(個人)モデル」
障害や不利益・困難の原因は個人の心身機能が原因であり、その障害を解消するためには、個人の努力や訓練、医療・福祉の領域の問題である、とする考え方

公益財団法人 日本ケアフィット共育機構サイトより抜粋

世界の潮流は「社会モデル」の考え方に移行しつつあります。

私たちの生きづらさは、個人の心身の機能の不具合のせいだけが原因ではなく、いろいろな特性を持った人を想定して作られていない社会が、生きづらさやバリアーを生み出している、という考え方に。

まだまだ
「障害があるんだから仕方ない」
「障害があるんだから弁えろ」
「障害があるんだから諦めろ」
という考え方が、当事者にも根強く残っています。

違うよね?

スロープがあれば、エレベーターがあれば、車イスでも自由に移動できるよね?
「移動できない」という障害(バリアー)は階段や段差(のある社会)のせいでもあるよね?

字幕があれば、私だって、「エターナル」を堪能できたよね?
映画を楽しみきれないのは字幕がなかったせいでもあるよね?

いつも高校生たちに「社会モデル」の話をし、これからの社会を変えていってほしい、と訴えている私なのだから、「耳が聞こえないせいで」なんて思っていては、聞いてくれてた彼らに対して失礼千万。

だからこれからも愚痴っていこう。
「私たちがここにいることに、気づいてよ!」と。

そして
「いろんな人が生きているってことを想定した社会にしていこーよ、みんなで」と。

「劇場版美しい彼〜エターナル〜」を何度目かのリピしながら、そんなことを思う、失聴33年目の私でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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