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人間存在の複雑性──バタイユの視点から

0.要旨

 『人間存在の複雑性』をテーマに、本エッセイは人間の存在の意味、対立と調和、内面的葛藤、ジェンダーのアイデンティティ、芸術を通じた感情表現の探求を展開する。サルトルやバタイユの哲学を踏まえ、人間実存の曖昧さと矛盾を統合へと導く道を探り、自己と他者、個人と社会の関係性を深掘りし、新たな自己を生み出す可能性を示唆する。文学作品を引用しながら、ジェンダーの多様性と芸術の力を探究し、人間の精神の頂点への道を照らす。



1.序論

1.1.執筆動機

 昨今の時事問題、戦争や紛争、災害への対応や差別問題などから、人間中心主義への疑問が湧く。存在の複雑性に立ち返りたくなった。バタイユの哲学やジェンダーに関する議論を通じ、対立や調和に対する僕の洞察過程を残しておくことにした。

 バタイユの哲学は、対立を超えて調和を追求する努力を重視し、これが人間の精神の高みへの道を示唆している。そのため、本記事は反戦や博愛の理念とも関連があるが、直接的な言及はさほどない。

1.2.概論

 人間存在をめぐる対立と調和の問題は、量子論や化学反応、生物の性差など、自然界のさまざまな事象に通底する普遍的な原理である。本エッセイでは、バタイユの思想を手がかりに、この根源的な原理について考察を深めていきたい。

注意:本投稿で述べる〈統合〉とは〈統一〉ではない。議論、討論、折り合いなどの非暴力かつ非全体主義的運動を指す。
〈博愛〉に近しい。後日、明記。

筆者

 今回、既存の学問領域を越境する試みを行ったが、学際性の深化にはなおいくつかの課題が残る。対立と調和の普遍原理は人類普遍の原理であるはずだが、現代思想への傾斜が見受けられる。今後は人類学や文化人類学の知見も参照し、多様な文化における「対立」と「調和」の概念的理解を参照する必要がある。また、宗教学や神話学の領域にも着目し、神話的世界観における対立と調和のダイナミズムの解明も検討課題となろう。加えて、脳科学や認知科学の成果を援用することで、「至高の感性」の神経基盤にまで掘り下げた学際的検討も可能になるだろう。

1.3.仮説 対立の止揚と精神の頂点

 まずは、仮説を打ち立ててみる。対立する要素の間には、調和への連続性が潜在しているのではないか。この根源的な原理を、バタイユが説く「至高の感性」によって認識し、対立を止揚した統合へと高めることが可能になるのではないだろうか。そしてこの対立の統合こそが、人間の精神の頂点へと至る重要な過程なのではないか。

具体例をいくつか挙げてみよう。量子力学において、粒子と波動は対立する存在形態であるが、実は両者が渾然一体となることで量子現象が現れる。つまり、この二つの対立項の間に連続性が潜んでいるのだ。

同様に、化学反応においても酸化と還元は対をなしており、この二つが表裏一体の関係にあることで化学変化が生じる。一見矛盾する2つの過程が、実は連続した一つの原理を体現している。

生物の性差における雄雌の関係も、この原理の現れと言えるだろう。雄と雌は性的に二元化されているが、お互いに補完し合うことで種の保存に貢献する。対立しつつも連続した関係にあるのである。

バタイユはさらに、有性生殖の過程にもこの連続性の原理が現れていると説く。つまり、精子と卵子が一時的に連続した存在を形作りながらも、すぐさまそれは非連続な2つの個体へと分化していくのだ。生命の連鎖そのものが、対立と統合の弁証法を描いている。

芸術作品にも、この根源的な原理は投影されている。絵画や音楽では、相反する要素が対になりながら渾然一体となることで、新たな次元の陶酔が生まれる。荒涼と温かみ、緊張と解放といった二律背反が、見る者・聴く者に強烈な感動を呼び起こすのである。

人間存在そのものにも、この原理は色濃く現れている。サルトルが指摘したように、人間には自他の二元性が宿り、自らの自由な存在は常に他者の思考や視線によって規定されざるを得ない。しかしその一方で、他者の存在なくしては自己を全うできない。このパラドキシカルな関係性こそ、人間における対立と連続の現れではないだろうか。

以上のように、自然現象から芸術、人間存在に至るまで、対立項の間に調和への連続性が潜んでいることが確認できる。しかしこの連続性を認識し、対立を統合へと高めるには、バタイユが唱える「至高の感性」が求められる。理性を超越したこの感性によってのみ、対立項の奥に潜む調和が体感できるのだ。

バタイユは芸術作品の鑑賞における陶酔の体験に、この至高の感性を見出している。さらに「私は太陽である」と叫ぶがごとく、あらゆる対立や嫌悪を自己の内に取り込み、渾然一体の新たな存在を生み出す強度の感性をも説く。

つまり、対立を決して二者択一と見なすのではなく、至高の感性によってその根底に潜む連続性を認識し、統合へと高める。このプロセスこそが、人間の精神を極限の頂点へと導く重要な過程なのではないだろうか。バタイユの思想は、このように人間の精神の至上の境地を指し示しているのである。
 
 本論では、これら仮説をさまざまな角度で検証していく。

2.対立と調和の普遍原理 

 素粒子の二重性は量子力学の基礎概念だが、粒子と波動はまさに相反する存在形態の二つ一対である。もっとも有名なのはEPR-パラドックスに関するアインシュタインの論文が挙げられる。(註釈1)
 酸化と還元も化学反応として常に一対で起こる。生物の雄雌は性的二元性を体現しつつ、種の保存にあたり、お互いに補完し合う関係にある。科学的にも、対立が調和の上に成り立つ事例は数多い──表裏一体な二項対立的現象は興味深く、好きだ。自然の摂理や神秘、生と死、愛憎など。
そして、人間中心的でない博愛が好きだ。だから、僕はバタイユに惹かれてしまうのだ。

 このエッセイにおける実証的アプローチは一定の成果を示したものの、対立と調和の普遍原理の完全な解明には課題が残る。今後は、対立項の微細な振る舞いの観測、新次元のデータ解析手法の開発など、より精緻な実証研究の深化が不可欠となろう。あわせて、多様な対立事例の体系的データベース化と包括的モデル化を行い、普遍原理の数理的記述を試みる必要がある。さらに実験科学の手法に留まらず、社会調査や民族誌的手法による対立と調和の実践事例の収集と分析へとアプローチを拡張することで、理論と実証の統合的検討を目指せたら理想かもしれない。

 そうした展望は、一旦脇におき、本題に入ろう。

3.バタイユの思想

「最高の哲学的な問いはエロティシズムの頂点と一致する。私はそう考えている。」

『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健
ちくま学芸文庫 p465

知性を持つ人間たちは、見たいものしか見ない。
見たくないおぞましい動物性を見ないのだ。
バタイユは、それらを主体性もって独自に見つめ述べている思想家、あるいは聖者、あるいは狂人だろう。連続性と非連続性の弁証法的一体性を説いた。エロティシズムにおいて、禁忌的なものと陶酔が一つに融合する様は、その典型例だろう。生と死の間にも連続性が存在し、死はただの生の終焉ではなく、新たな生への移行でもある。

3.1.エロティシズムと禁忌/連続性と非続続性

「最初の存在は、自分が産みだした二つの存在のうちどちらにおいても生き残っていないからである。最初の存在は、死につつある有性動物のような仕方で解体したのではなく、存在しなくなったのだ。かつての不連続な存在として存在することはなくなったのだ。ただし連続性も、生殖の一時点にはあったのである。もとの一なるものが二つになる時点がある。二つの存在が現れるやいなや、再びそれぞれの存在の不連続性が生じることになる。しかしこの過程のさなかに、一瞬の連続性が二つの存在のあいだに生じているのである。最初の存在は死につつある。だがその死のなかに二つの存在の連続性の重要な瞬間が出現するのである。

これと同じ連続性は有性生物の死のなかには出現しえない。有性生物の生殖は、死苦や消滅とは原則として無関係だ。しかし有性生殖も、根本的には無性生殖の場合と同じように生殖細胞の分裂を惹き起こすのであって、不連続性から連続性への新たな種類の移行を生じさせているのである。」

『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健ちくま学芸文庫 p22

このように通常分断されがちな事象の間にも、連続する一体性が潜在している。移行を可能とする至高の感性について、つまり、至高の感性の重要性──他人には理解し難いような所謂《メタファー》をバタイユは意味あるものにまで押し上げている。

「だからこそ私自身の喉元で愛欲が叫んでいる。「私はイエスヴィオ山なのだ。人を盲いさせる灼熱の太陽の汚れたパロディであるイエスヴィオ山なのだ」と。

私はそんな自分の喉を切り裂いてもらいたい。そして「お前は夜だ」と言い渡すことのできた娘を冒したい。

「太陽」は「夜」だけをひたすら愛し、地球へ、その光の暴力を、淫らな男根を、差し向けている。だが太陽は、眼差しに、夜に、出会うことができない。地表の夜の広がりが絶えず太陽光の汚れに向けて進んでいるというのに。」

『太陽肛門』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健
景文館書店 p20

感情を理性で乗り越え、更に、その理性を乗り越える感性。
「私は太陽である」と叫ぶだけで新しい朝が燦然と現れ、悲しみ憎しみ嫌悪をものともせずに乗り越えられるのだ。叫びながら、その叫びを愛/神秘/夜によって切り裂かれたい、切り裂かれてこそ、聖域/沈黙へアクセスできるかもしれない、という激しい葛藤は、タナトス的剥き出しの生への渇望に思う。死を目前としたものにしか《意味》など価値は懐疑的なのだろう。

他者(人間だけではなく、あらゆる動植物やそれらを取り巻く環境)の存在を尊重するという謙虚さを忘却の彼方に押し込み、欲望を動物的に剥き出している様の顕著な例が紛争や戦争だ。

「一匹の動物のように、至高の感性の人間には、現在の瞬間より先は視界に入らない。彼は、今ある不幸に、未来あるだろう幸福を埋め合わせとして提供されても、興味を示さない。彼の見方によれば、不幸に与えられる唯一の答えは、今との瞬間に、即座に、価値を発揮しなければならない。とはいえ彼は次の点で動物と根源的に異なる。すなわち、直接的な感性とは、原則として、人が理性的な段階に達するとすぐに理性に従属させられてしまう感性なのである。それに対して、至高の感性は、理性の上に位置づけられる。至高の感性は、効果のある活動の限界内では理性を承認しているが、理性を乗り越え、理性を従属させる。ただし、至高の感性がまず感傷というあり方で現れるのは当然のことだろう。というのも、ある意味で、至高の感性の最初の動きは、理性の限界内にあり続ける感性のむなしい反抗であるからだ。至高の感性は当初、理性のように何かをおこないたいと欲し、しかしそれでいて自分自身の目的のために何もできずにいたのだが、しかしこのようにむなしいままだった感傷が、高揚感によってあまりに深く引き裂かれると、自由の身へ解放されていくのである。しかしまた、驚くにはあたらないことだが、この解放がほとんど確固たるものになる瞬間にはもう、この解放それ自体のむなしさが明らかになり、これが新たな試練になってこの解放に襲いかかるのである。との瞬間とは、破壊のための軍事技術が何十倍もの手段を手に入れる瞬間でもある。じっさい、至高の感性の人間は、原子爆弾の誕生と無関係ではない?この人間の途方もなさは、科学の、つまり理性の、途方もなさに呼応している。」

『ヒロシマの人々の物語』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健
景文館書店 p25

これは、原爆投下直後の広島を取材したジョン・ハーシーによるルポタージュ『ヒロシマ』への書評の一文である。説得力と凄みのある危機感を持つバタイユの素晴らしい小論だ。

この一文は、科学技術発展とともに誕生した核兵器が無益なものであること、かつ、原爆投下を目の前の現実とする人々の人間の理性を超えた感性の崇高さ、つまり、至高の感性を的確に述べてもいる。

今回、提示した「至高の感性」の再概念化は、バタイユ思想の新解釈の一端を示すにすぎない。さらに突き詰めるならば、バタイユの根本概念である「連続性」と「非連続性」の弁証法的把握そのものに、決定的な問い直しが必要となるだろう。バタイユはこの二つの概念を二元対立的にとらえがちであったが、そこには未だ解体されるべき形而上学的残淀が潜んでいる可能性がある。本エッセイではサルトルの「対自の直接的構造」や「共同存在」など、また、バトラーのジェンダーにおける研究を参照し、「連続性/非連続性」という古典的二項を離れ、実存の複雑な継起における主体の生成過程に着目する。このことにより、対立の止揚を志向するだけでなく、「差異の政治」の視点からバタイユ理論の潜在的可能性を掘り起こすことが可能になると考えられる。

4.連続性と非連続性〜対立と調和

4.1.蝶への嫌悪と対立の象徴 

 僕は蝶々が嫌いだ。

幼虫の頃は異様に柔らかくクネクネと動き、メタモルフォーゼした後には、ふわふわと飛び、鱗粉を振り撒き、得体の知れない丸まった細いストローのような口で蜜や水を吸い上げる。

とにかく嫌いなのだ。

蝶への嫌悪感は一見すると、主張からかけ離れた個人的な感情にすぎないように思えるかもしれない。しかし、それは蝶の存在そのものへの嫌悪ではない。むしろ、蝶の一生を眺めるとき、幼虫からさなぎ、そして美しい蝶へと移り変わるその過程に、生と死の連続性、醜さと美しさの同居、対立する二つの性質の表裏一体の関係性を感じ取ることができる。この蝶の一生に象徴される生成変化の過程そのものに、ニーチェ的な意味での狂騒的でディオニュソス的(ニーチェが『悲劇の誕生』で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつもの)な生の根源的(註釈2.)な力が宿っているのである。対立項が渾然一体となってなお動的に変転していく様は、まさにディオニュソス的な世界観を体現している。このような蝶の一生に象徴されるディオニュソス的な対立の統合こそ、バタイユが説く連続性と非連続性の弁証法を体現しているのである。また、これは、サルトルが述べる以下とも関連付けられる。

「根原的な企てに立ち戻ろう。根原的な企ては、我有化の企てである。したがって、根原的な企ては、ねばねばしたものに強いてその存在を顕示させる。存在への対自の出現は、我有化的な出現であるから、知覚されているねばねばしたものは、所有されるべきねばねばしたものである。」

『存在と無』サルトル 訳 松浪信三郎 河出書房 p295

 僕が蝶に嫌悪を抱くのは、この対立の一体性にあまりにもストレートに直面させられるが故の、ある種の畏怖感からかもしれない。しかし同時に、その存在様式の神秘さに魅了されざるを得ないという矛盾に胸を打たれる。このように、蝶は対立項の調和した具現例として、きわめて重要な意味を持っている

 ところで、自然界の現象と社会的概念を結びつけると、対立と調和のテーマがくっきりと浮かび上がる。蝶の変態過程は、生物学的な発達段階を経て個体が成熟し、美しさを獲得する過程であり、これをジェンダーのアイデンティティが個人の経験や社会的相互作用によって発展し、変化することのメタファーとして捉えることができる。ジェンダーアイデンティティの形成は個人個人で異なるプロセスを辿る。例えば、ある人は幼少期から強いジェンダー意識を持つ一方、ある人は思春期を過ぎてから自身の性を見つめ直すケースもあるだろう。こういった個別のプロセスを尊重し、画一化された枠組みにとらわれずに支援していくことが大切である。

 この比喩を通じて、ジェンダーのアイデンティティが固定されたものではなく、時間と共に進化する可能性を持つことを示唆する。また、蝶の生涯は対立する特性の統合を示し、ジェンダーにおいても異なる特性を統合し個人のアイデンティティを形成することが可能であることを示唆する。

僕は性差を際立たせ権利を主張する語彙が苦手だ。例えば、フェミニズムやジェンダーなど。

5.性差とジェンダー概念への違和感

 フェミニズムは、性別に基づく不平等に対抗し、平等な権利を主張する社会運動であり、ヒューマニズムは、人間の尊厳と個々人の価値を重視する思想である。これら二つの概念は、社会的な対立を超えて、より公正で包括的な社会を目指す点で共通している。フェミニズムの目的が単に特定の権利を主張することではなく、すべての人間が平等に尊重されるべきであるというヒューマニズム的観点からの理解を深める可能性──その運動の範囲と影響については様々な意見がある。「女であるならこの権利がある」と叫ぶのが僕は何だか違和感を感じる。弱い者を強い者がサポートする、ただそれでいいし、生理学的な体調の変化や不都合なども、「生理学的現象」として、認識し合い、助け合えばいいだけだし、そうできるのが現代文明の叡智であるはずだし、それはフェミニズムではなくヒューマニズム的観点から声を上げるべきだろう。

5.1.ジェンダー平等とヒューマニズムの視点

 ジェンダーやLGBTQといった用語が一般的にもさまざまな媒体で使われるようになってきている。ジェンダー概念について上野千鶴子によれば、学術的に70年代以降、定着したようだ。

「ジェンダーという概念はセックスと区別するために 、60年代ごろからストーラーら[Stoller 1968=1973]によって使用され、70年代以降女性学・ジェンダー研究者によって広く採用され定着した。」

『ジェンダー概念の意義 と効果』上野千鶴子 『学術の動向』vol.11, no.11, pp.28-34, 2006-11-01 (Released:2009-12-21)

 ジェンダーという語彙の不確かさに疑問が残る。ジェンダーに対する批判的視点を提示する一方で、個人の生物学的差異や多様性を尊重することが重要だ。一人一人の固有の違いを尊重し、画一化された枠組みから解放されることが不可欠である。サルトルが説いたように、人間には自由な主体的実存を遂行する権利と責任がある。ジェンダーに関する議論は、性差の存在を曖昧にせず、むしろ個々の個体差や固有性を認識する上で補完的な役割を果たすべきだろう。

主義主張のために曖昧な語彙を用いることの隠蔽体質と他責。生理学的性差を曖昧にする語彙は均一化を肯定しているようにも感じる。個体差を許さないことに繋がりそうで嫌だ。

ジェンダーという概念への違和感は、生物学的な雌雄二元性という対立を、あいまいな言葉で覆い隠そうとする試みに対するものである。上野千鶴子は、この点について「セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的文化的カテゴリー)を区別する必要性」があると指摘している(上野 2006)性差をジェンダーという概念で曖昧にしてしまうと、むしろ男女の個体差や固有性を均一化し、排除してしまう危険性がある。生物学的な性差という事実を前提にしつつ、その上で構築される社会的ジェンダーカテゴリーの相対性を認識することが重要なのだ。

やや抽象的な前述を噛み砕いてみる──ジェンダーは社会的に構築されるという理論は、生物学的な性差をあいまいにし、個体の多様性を無視する危険がある。例えば生理現象における男女の違いは、明らかに生物学的な性差に起因するものである。しかしジェンダー理論はそうした生物学的事実を曖昧にしてしまう。代わりに社会的要因のみを強調するあまり、個体ごとの固有の違いを等閑視してしまうのではないか──ということだ。

本来、男女の性差は、種の保存を支える上で表裏一体となって対をなす必要不可欠な存在である。つまり相補的な関係にあるのだ。この対立項めぐる不可分な一体性が、人類を支えてきた自然の原理なのである。これはジュディス・バトラーの「ジェンダーの二元論的枠組み」への違和感と重なる。ジェンダーという概念はかえってその原理から逸脱し、本来の自然の神秘を見失わせてしまう。ジェンダーを男女の二元論に押し込めるのではなく、よりスペクトルとしてとらえ直す発想が必要かもしれない。例えば、XYZといった新たなジェンダーカテゴリーを設け、性自認と性的指向を多角的に開示できる枠組みを用意する。そうすれば、従来の二元論の制約からも解放される。

 対立項の一体性とは、固有の差異を排除するのではなく、その違いを前提としながらも、全体としての調和ある統合を目指すものでなければならない。生物学的な性差は自然に存在するが、その上で男女に期待される役割は社会的な構造の中で人為的に形作られてきた側面がある。例えば家事や育児は、必ずしも特定の性に依存するものではない。こうした役割分担について、個人の適性や事情に合わせて柔軟に見直していくべきであろう。

5.2.ジェンダー言説の曖昧さ

 対立項の一体性は、固有の差異を受け入れつつも、その相互関係の中で統合を追求することを意味する。つまり、対立が存在することで新たな意味や価値が生まれ、調和した統一が可能となる。

この点でジェンダー概念には違和感を覚えざるを得ず、個体差を許容する上で問題があると考えられる。

フェミニズムの思想や、ジェンダー概念へは一定の評価も必要であろう。それらは性差別への抗議と、多様性の承認を促す動きであり、対立の不当な分断に警鐘を鳴らしている。ただし、ジェンダーという言葉があまりにも曖昧であり、却って個体差を無視する危険性を孕んでいる点には注意を払わねばならない。生物学的性差という事実を前提に、しかしその上で男女の個性と多様性を尊重する道を探ることが、調和ある統合への一歩となろう。

 生理現象における男女の違いは生物学的性差に基づくものである。しかし、その上で個人によって生理的リズムや症状の現れ方は様々である。従って、一人一人の個体差を尊重し、柔軟な配慮が必要となる。例えば生理用品の選択や休暇の取り扱い、妊娠、出産前後に伴う心と体の体調の変化などは、個人の事情に応じて対応できる仕組みが求められよう。

 バトラーの主張する「ジェンダー化された規範からの解放」や「多様性の許容」という視点と合致するかもしれない。

 蝶や性差への僕の嫌悪や違和感は、対立項の不当な分断や隠蔽に対する危惧から生まれており、対立の統合的解消が実現されていない現状への批判的な眼差しにほかならない。つまり主張する対立概念の調和一体の理念の欠如に対する、批判的な姿勢の表れなのである。

 イデオロギーやドグマ的何かを声高にしているとき、その行為が主体性なきものに見えることがある。権力やイデオロギーへの強い批判は、対立の不当な一方的解消への危惧に由来している。権力者が他者性を無視し、支配と収奪を繰り返すならば、調和ある統合はかならず阻害される。サルトルが指摘したように、他者の視線によって自己が対象化され、自由が制約されてしまう。だからこそ、調和のとれた他者との関係性を構築する必要がある。他者の存在を無視し、自己のみを絶対化することは危険である。サルトルが指摘したように、他者の視線によって自己が対象化され、自由が制約されてしまう。だからこそ、調和のとれた他者との関係性を構築する必要がある。イデオロギーがあくまでも一元的な価値観を絶対視するなら、対立の根源的な意味を見失ってしまうであろう。したがって、様々な立場や個性の許容と包摂が不可欠となる。

蝶々は主体性があるか?──あるだろう。
彼らにとって、他者性はまったく必要なく、生きることにただひたすらに純粋だ。つまり、自然に調和する自由を謳歌している。

人間の場合はどうか?

「他者の自由のうちに、他者の自由によって書かれるような、私の存在である。あたかも私は、一つの根本的な無によって私がそこから隔てられている一つの存在次元を、もっているかのごとくである。そして、この無こそは、他者の自由である。他者は、彼が自己の存在であるべきであるかぎりにおいて、「彼にとっての私の存在」を、存在させるべきである。それゆえ、私の自由な行為の一つ一つが、私を、一つの新たな環境に拘束するのであり、そこでは、私の存在の素材そのものが、或る他人の予見されえない自由である。それにしても、私は、私の羞恥そのものによって、他人のこの自由を、私のものとして要求する。私は、意個体相互の一つの深い統一を肯定する。しかも、私が肯定するのは、往々にして客観性の保証と見なされてきたモナッド相互間の調和ではなくして、一つの存在統一である。というのも、「他人たちが私に一つの存在を付与し、この存在を私が承認する」ということを、私は受けいれるし、また欲するからである。」

『存在と無』サルトル 訳 松浪信三郎 河出書房 p155

《私》は第三者に依存しており、その自由な考えによって《私》の実在が規定されているのだ。《私》はそのための存在であり、第三者なくしては何者でもない。《私》には、この脅威に対抗する他の道はない。なぜなら《私》は、他者の自由な判断なくしては何者でもないからである──要するに、他者の視線や判断によって自己が実在として規定され、その自由な考えに依存せざるを得ないということだ。

 他者性から逃れられないこの哀れな人間は、どこかに所属し、帰属していなければ、いつも不安を抱え、生きづらく、権威を嫌っていても、権威にぶら下がるか頼るかして、社会での立場を承認されたがる。かなしいことに、社会的承認は人間にとって非常に重要だ。

銀行口座を開く際には住民票や運転免許証などの身分証明書と印鑑が求められる。つまり、身分を誰かに証明してもらわないと、お金すら預けられないし働けない現実がある。

確かに、このような制度に基づく身分証明は現代社会に不可欠である。しかし一方で、上野が「性別自認やセクシュアリティにおける多様性が指摘され、ジェンダー二元制への批判がなされている」(上野 2006)と指摘するように、個人の生来的な多様性を尊重する視点から、そうした制度的な枠組みにとらわれすぎることへの危惧も持つ必要があるだろう。ジェンダーを言語カテゴリーとして捉えるこの構造主義的アプローチは、ジェンダーアイデンティティの可変性や曖昧さを浮き彫りにしている。個人の固有性を認めつつ、制度的な要請とのバランスをいかに保つかが課題となる。この僕は、誰かに証明されたくなんかない。僕は僕であり、世界に唯一無二の存在だ。ジェンダーの流動性は、対立と調和の間の形而上学的な橋渡しとなり、芸術の真髄を解き明かす可能性があるのかもしれない。

6.対立と調和の芸術表現

6.1.音楽 ベートーヴェンとマーラーから

 ベートーヴェンの『運命』が鳴り響き、仰々しさと柔らかさのコントラストにいつの間にか取り憑かれたように聴き入る憐れな僕。歪みと美しさが共存している。第1楽章の緊張感ある旋律と、第4楽章の歓喜の歌による和解は、音楽がどのように人間の感情の対立と調和を描き出すかを示している。この二律背反する要素の同居こそが、作品の魅力の源泉でもある。荒涼とした感情と温かな旋律が行き交う。激しさと穏やかさの対比が、緊張感と陶酔をもたらしている。

 また、マーラーは人間の内面や思想性の高い作曲家であり、前述のベートーヴェンから強い影響を受けている。特に、『交響曲第五番』はベートーヴェンの交響曲を意識しているとよく言われている。以下、簡潔に各楽章における特徴を述べる。

・第1楽章
葬送行進曲の形式を取り、トランペットのソロによる不吉なファンファーレで始まります。死というテーマを探求し、重厚で厳粛な雰囲気を持っている。

・第2楽章
嵐のような激しさを持ち、情熱的で荒々しい音楽が特徴。力強い第1主題と悲しげな第2主題が対比され、マーラーの内面的な葛藤を音楽的に表現している。

・第3楽章
スケルツォであり、ワルツやレントラー舞曲の要素を含みつつ、ホルンが大活躍する楽章。ユーモアと皮肉が交錯する複雑な性格を持っている。

・第4楽章
アダージェットは、マーラーの交響曲の中でも特に有名で、映画『ベニスに死す』で使用されたことで広く知られるようになった。非常に遅く、瞑想的な美しさを持ち、愛と悲しみを表現している。

・第5楽章
アレグロ・ジョコーソで、楽曲は明るく、活発な終結を迎える。前の楽章の瞑想的な雰囲気から一転して、希望と喜びを象徴するような音楽になっている。

マーラーの交響曲第五番は、悲劇と喜劇、暗さと明るさ、そして対立と調和のテーマを巧みに表現しており、聴く者に深い感動を与える作品である。

6.2.詩 『悪の華』ボードレールから

 詩についてはどうか?ボードレールの『悪の華』を取り上げてみる。

序文のAu Lecteur(読者に)はまさに存在論的な詩である。

Au Lecteur

La sottise, l'erreur, le péché, la lésine,
Occupent nos esprits et travaillent nos corps,
Et nous alimentons nos aimables remords,
Comme les mendiants nourrissent leur vermine.
僕の解釈:罪深きわれわれひとの子らを彷彿させる。人間が本質的に悪や罪に惹かれる存在であることを表現している。

Nos péchés sont têtus, nos repentirs sont lâches;
Nous nous faisons payer grassement nos aveux,
Et nous rentrons gaiement dans le chemin bourbeux,
Croyant par de vils pleurs laver toutes nos taches.

Sur l'oreiller du mal c'est Satan Trismégiste
Qui berce longuement notre esprit enchanté,
Et le riche métal de notre volonté
Est tout vaporisé par ce savant chimiste.

C'est le Diable qui tient les fils qui nous remuent!
Aux objets répugnants nous trouvons des appas;
Chaque jour vers l'Enfer nous descendons d'un pas,
Sans horreur, à travers des ténèbres qui puent.

Ainsi qu'un débauché pauvre qui baise et mange
Le sein martyrisé d'une antique catin,
Nous volons au passage un plaisir clandestin
Que nous pressons bien fort comme une vieille orange.

Serré, fourmillant, comme un million d'helminthes,
Dans nos cerveaux ribote un peuple de Démons,
Et, quand nous respirons, la Mort dans nos poumons
Descend, fleuve invisible, avec de sourdes plaintes.
僕の解釈:死の川、うめき

Si le viol, le poison, le poignard, l'incendie,
N'ont pas encor brodé de leurs plaisants dessins
Le canevas banal de nos piteux destins,
C'est que notre âme, hélas! n'est pas assez hardie.

Mais parmi les chacals, les panthères, les lices,
Les singes, les scorpions, les vautours, les serpents,
Les monstres glapissants, hurlants, grognants, rampants,
Dans la ménagerie infâme de nos vices,
僕の解釈:人間内面のさまざまな闇の告白と絶叫の存在

II en est un plus laid, plus méchant, plus immonde!
Quoiqu'il ne pousse ni grands gestes ni grands cris,
Il ferait volontiers de la terre un débris
Et dans un bâillement avalerait le monde;
僕の解釈:残酷なもの、邪悪、欲望、そうした不条理に満ちた世界に僕が取り憑かれたかのように否応なしに飲み込まれそうになる

C'est l'Ennui! L'oeil chargé d'un pleur involontaire,
II rêve d'échafauds en fumant son houka.
Tu le connais, lecteur, ce monstre délicat,
— Hypocrite lecteur, — mon semblable, — mon frère!

Charles Baudelaire

 バタイユとサルトルは、ボードレールの詩において、各々異なる見解を持つ。バタイユは、悪という概念を再評価し、それが文学における価値とどのように関連しているかを分析している。一方でサルトルは、ボードレールの苦悩を欺瞞と見なし、彼が既成の善に挑戦せず、自己を悪として断罪し悩んでいると批判する。バタイユはボードレールの苦悩を、無限定の子供らしさに忠実であるための苦悩として捉え、自己への断罪を通じての深い愛として理解している。このように、バタイユは詩の裏切りを世界の戯れとしてのあり方と見なし、詩と世界の関係を常に変化するものとして捉えている。(註釈3.)

 詩の本質──対立と調和の狭間。詩は滅びゆくものを永遠のものに変えることで調和を生み出すが、詩人が自己の挫折を詩に投影するとき、詩はその対立を反映するのだ。

 このように芸術は、対立するものの融合によって、新たな次元の体験を生み出す。

 対立と調和の狭間の奥深く、世界の深淵──だが、音楽や詩ですら表現し難いものは?笑いのもたらす世界の深淵を垣間見る契機か?誰の?これを書く僕の?読むかもしれない、あるいは、見向きもしない蝶の笑いか?

6.3.哲学、文学、社会、相互依存性の中の自己

6.3.1.バトラーの『非暴力の力』における洞察

 結論に至る前に、ジュディス・バトラーの『The Force of Nonviolence: An Ethico-Political Bind』からの洞察を考慮に入れることが重要である。バトラーは、暴力と非暴力の区別を考察し、社会的相互依存性を攻撃する暴力に反対する立場を明確にしている。

バトラーは、非暴力の倫理と政治が個々の生命が相互依存していることをどのように考慮に入れるべきかを示唆している。

「an ethics of nonviolence cannot be predicated on individualism, and it must take the lead in waging a critique of individualism as the basis of ethics and politics alike. An ethics and politics of nonviolence would have to account for this way that selves are implicated in each other’s lives, bound by a set of relations that can be as destructive as they can be sustaining. The relations that bind and define extend beyond the dyadic human encounter, which is why nonviolence pertains not only to human relations, but to all living and inter-constitutive relations.」

『The Force of Nonviolence: An Ethico-Political Bind』Judith Butler

 彼女は、自己が他者との社会関係によって定義されると主張し、非暴力はこれらの関係を肯定する方法として提示されている。

6.3.2,非暴力と平等の政治

 さらに、個人主義や共同体主義を超えた、実際の社会的絆とその潜在的な世界的な結びつきについて問いかけている。

「For nonviolence to escape the war logics that distinguish between lives worth preserving and lives considered dispensable, it must become part of a politics of equality. Thus, an intervention in the sphere of appearance—the media and all the contemporary permutations of the public sphere—is required to make every life grievable, that is, worthy of its own living, deserving of its own life. To demand that every life be grievable is another way of saying that all lives ought to be able to persist in their living without being subject to violence, systemic abandonment, or military obliteration. To counter the scheme of lethal phantasmagoria that so often justifies police violence against black and brown communities, military violence against migrants, and state violence against dissidents, a new imaginary is required—an egalitarian imaginary that apprehends the interdependency of lives. Unrealistic and useless, yes, but it is possibly a way of bringing another reality into being that does not rely on instrumental logics and the racial phantasmagoria that reproduces state violence. The “unrealism” of such an imaginary is its strength. It is not just that in such a world, each life would deserve to be treated as the other’s equal, or that each would have an equal right to live and to flourish—although certainly both of those possibilities are to be affirmed. A further step is required: “each” is, from the start, given over to another, social, dependent, but without the proper resources to know whether this dependency that is required for life is exploitation or love.」

『The Force of Nonviolence: An Ethico-Political Bind』Judith Butler

6.3.3.バトラー、バタイユ、サルトルにおける個人と他者の関係性

 このバトラーの文章は非暴力、平等の政治、そして生命の尊厳について述べており、バタイユやサルトルの哲学との関連性を感じ取れるかもしれない。バトラーは、個人主義を超えた相互依存の倫理と政治を説く。これはバタイユの「連続性」の概念、すなわち個々の存在が孤立したものではなく連続して結びついているという考え方と通底する。一方でサルトルは、個人の自由と主体性を重視しつつ、他者との関係性の中で存在を理解しようとした。バトラーはこれらの思想を踏まえながら、非暴力による平等な関係性の構築を目指している。

補足
バタイユの思想は、しばしば超越性、儀式、供犠などを通じて人間の責任を外部化することを批判されてもいる。サルトルは、バタイユがヘーゲルの弁証法の概念を取り除き、悲劇を弁証法の代わりに置いていると非難してもいる。(註釈4.)一方で、サルトル自身の『存在と無』の概念は、個人の自由と主体性を強調し、他者との関係性を通じて存在を理解しようとするものでもある。サルトルは著書『存在と無』の中で、自由な主体形成の過程に内在する「暴力」的契機を詳述している。自由な実存には、既存の事物や状況に対する否定や超越が伴い、そこに一種の「暴力性」が孕まれるというのが、サルトルの基本的な立場である。また、バタイユは著書『有罪者』や『内的体験』などを通じて、「主権的存在」と「内的体験」の間に不可避的な暴力の契機を見出している。それぞれ異なる角度、視座から暴力について論じており、単純な同一視は避けるべきでもある。

筆者による補足

 バトラーが提起する非暴力と平等の政治は、バタイユの反ファシズムや民主主義に対する考え方とも関連がある。バタイユは、ファシズムの感情的な側面と、反民主的な情熱を動員する方法を理解するための概念を提示している。ここで注目すべきは、ファシズムや反民主主義が、しばしば特定の集団への「追放」や「離脱」を伴うという点である。作家ミラン・クンデラは、プラハの春前後の社会的不条理における追放や離脱といった観点で間接的ながら「暴力の論理」についても深く考察した。

6.3.4.ミラン・クンデラの『不滅』における連続性と非連続性

 彼の作品は、個人の自由、政治的抑圧、そしてそれらが個人のアイデンティティや人間関係に与える影響を探求しており、特に彼自身の追放の経験は、彼の文学における重要なテーマの一つとなっている。クンデラの作品においては、暴力や追放はしばしば、個人の存在や人間性を否定する行為として描かれる。

 例えば小説『不滅』では、登場人物たちが政治的状況や社会的圧力に直面し、追放や孤立を経験する。これらは、クンデラが故国チェコスロヴァキアから追放された自身の体験と重なる。

 クンデラは、個人の内面世界と外部の政治的現実との関係を掘り下げ、その中で「暴力の論理」が個人の生をどう侵食するかを描写する。彼の作品は、暴力や追放が個人に与える深刻な影響を洞察し、人間がそれにどう反応し適応するかを多角的に探ることで、読者に強い印象を残すのである。そして、連続と非連続を想起させる。

 少し暴力とは脱線するが、『不滅』は実存における対立と調和、連続と非連続、追放と離脱を巧みに小説内に展開している。例えば、物語のはじめの方をみてみよう。登場人物アニエス──注目すべきは、アニエスが年齢を超越し、ある婦人のしぐさから偶然物語に産み落とされる点でもあるのだが──は、ポールと来訪者の会話の流れを静かに観察していた。彼女にとって、そのやり取りは時間の連続性の中で生じる無数の瞬間の一つに過ぎなかった。エッフェル塔の写真に対する来訪者の質問は、ポールにとっては連続的な自己の記憶と経験の一部であり、その質問は彼の人生の線上にある一点を指し示していた。しかし、来訪者にとっては、その写真は非連続的な出来事、彼の知識の断片に過ぎなかった。

 バトラーが指摘するように、僕らは他者との相互依存の中で自己を構築する。この物語において、連続と非連続は、人間の経験と知識の断片化を表現するためのメタファーとして機能している。アニエスは、ポールと来訪者の間の連続性と非連続性の対比を通じて、人生の不確実性と必然性の交錯を理解している。彼女は、ポールが経験する連続的な成長と、来訪者がもたらす非連続的な変化の瞬間を、人生のリズムとして受け入れていた。彼女自身の存在もまた、他者との関係性の中で形成されており、その相互依存性が彼女の視点を豊かにしている。

筆者の『不滅』ミランクンデラにおける相互依存性の中の自己と連続と非連続の考察一例

6.3.5.個人の自由と社会的束縛

 このように、バトラー、バタイユ、サルトルらは非暴力や他者との関係性を重視する一方、クンデラは暴力の論理と個人の自由やアイデンティティとの関わりを描いた。しかし両者には、個人が完全に独立した存在ではなく、社会的な絆や政治的状況から切り離せない、という共通する問題意識が見られる。

 バトラーの議論は、バタイユの「連続性」の概念や、サルトルが『存在と無』で示した他者との関係性の重要性とも重なる。バタイユは個々の存在が孤立したものではなく、連続性を通じて相互に結びついていると考えた。一方サルトルは、個人の自由と主体性を強調しつつも、他者との関係を通じて存在を理解しようとした。
このようにバトラー、バタイユ、サルトルはいずれも、個人が完全に独立した存在ではなく、他者や社会的な絆と切り離せない関係にあることを指摘している。そしてこの点については、加藤周一の『文学とは何か』についての考察も参考になる。加藤は、リルケからサルトルに至るヨーロッパの作家たちが表現する実存的な孤独が、単なる歴史的産物ではなく、人間の普遍的な現実としての意味を持つと主張した。
加藤によれば、この普遍的な孤独や人間性を理解し内省することで、僕らは歴史的・社会的制約を超えることができる。しかし、現代日本社会を見渡せば、二〇十二年の自民党による憲法改正草案や、現政権による度重なる閣議決定の強行といった権力者による一方的な決定や二〇二四年一月一日能登半島地震への対応の遅れなど、に批判の目が向けられる。さらにロシア・ウクライナ/イスラエル・パレスチナ問題や戦争紛争、少数民族弾圧への先進国のダブルスタンダードなど、国民一人一人が社会的・政治的な束縛から完全に自由であるわけではない。
このように、バトラー、バタイユ、サルトル、加藤の議論する個人と普遍、自由と絆の問題は、現代社会の中でも常に関連性を持ち続けている。

6.3.6.サルトルの『文学とは何か』における暴力と文学の役割

 サルトルは著書『文学とは何か』の中で、「暴力は暴力を終わらせる唯一の手段」と述べ、暴力に反対しながらも、暴力を避けることができない現実を認識している。そして、批判的思考と文学の役割について深く強く訴えている。

「われわれが暴力の使用に一貫して反対しなければならないということを意味するのではない。暴力は、いかなる形で示されようと、失敗であることを、私はみとめる。しかし、それは、われわれが暴力の世界のなかにあるが故に避けることのできない失敗である。そして暴力に反対して暴力に訴えることが、暴力を永続させる危険をおかすことであるというのは事実だが、暴力は暴力を終らせる唯一の手段であるということもまた事実である。どこから来ようが暴力との直接あるいは間接の共犯はすべて拒絶しなければならないと、かなり尊大に書いていたある新聞が、翌日には、インドシナ戦争の最初の戦闘を知らせねばならなかった。私はそのような新聞に、こんにちたずねたい。暴力行為へのあらゆる間接的な参加を拒絶するためには、いかにしなければならないかを。もしあなた方がなにも言わないなら、あなた方は必然的に戦争の継続に味方することになる。人はいつも防ごうと努力しないことに責任があるからだ。しかし、もし戦争がただちに、しかもあらゆる犠牲を払って、止むようにあなた方が動いたなら、あなた方はいくらかの殺数の張本人ということになるだろう。インドシナに利害関係を持っているすべてのフランス人にたいし暴力を働くことになるだろう。戦争が生じたのは妥協からであるが故に、もちろん私は妥協せよと言っているのではない。暴力には暴力を。選ばなければならない。それも別な原理に従ってである。政治家は、軍隊の輸送が可能であるかどうか、戦争を継続することによって世論が彼からはなれるかどうか、その国際的反響はどんなものとなるか、を考えるだろう。抽象的倫理の見解からではなく、社会主義的デモクラシーの実現という明確な目標の展望において手段を判断するのが、作家の責任である。かくして、目的と手段との現代の課題についてわれわれが熟慮しなければならないのは、たんに理論においてばかりではなく、個々の具体的場合においてなのである。
ごらんの通り、なすべきことが沢山ある。しかしわれわれがわれわれの生進を批判に使いはたすとしても、いったい誰がわれわれにそのことを非難できるだろうか。批判の任務は全体的になったのであり、それは全人間を係わり合わせぶのである。一八世紀においては、道具は鍛えられていた。すなわち、分析的理性をたんに使うだけで、概念を清掃するのに十分だった。清掃するとともに仕上げをし、中途で立止ったために鳴りとなった観念を完成までおし進めなければならないこんにちでは、批判もまた綜合的なのである。批判はあらゆる発明能力を機能させる。数学の二世紀によってすでに構成された理性を用いるだけに限定されないで、それとは反対に、批判こそ現代の理性を形成するものであろう。その結果批判は、最終的に、創造的自由をその根拠とする。もちろん批判はそれ自体によって肯定的解決をもたすらものではない。しかし誰がこんにちそれをもたらしているだろうか。私がいたるところで見るのは、古めかしい方式、弥縫策、誠実さのない妥協、時代おくれの、あわてて塗り替えられた神話でしかない。われわれがこれらの風でふくらんだ膀胱[くだらぬ宣伝]をすべて一つ一つ穴をあけること以外に何もしなかったとしても、われわれはわれわれの読者に十分貢献したことであったろう。
しかしながら、批判は一七五〇年ごろ、抑圧階級のイデオロギーを解体させることによって抑圧階級を弱体化するのにあずかって力があったが故に、体制の変更を直接に準備するものであった。こんにちでは、批判すべき概念があらゆるイデオロギーとあらゆる陣営とにぞくしているが故に、事情は同じではない。
それだから、歴史に奉仕しうるのは、もはや否定性だけではない。たとい否定性がついには肯定性となるとしても。孤立した作家はその批判的任務に自己を限定することができるが、われわれの文学は、その全体において、とりわけ建設でなければならない。このことは、われわれが、いっしょにであろうと孤立してであろうと、新しいイデオロギーを発見しようと努力すべきであることを意味しない。私がすでに示した通り、あらゆる時代において、イデオロギーである[として存在する]のは文学全体である。」

『一九四七年における作家の状況』『文学とは何か』サルトル 訳 白井健三郎/海老坂武 人文書院 p272

 この引用から、「歴史に奉仕しうるのは、もはや否定性だけではない。たとい否定性がついには肯定性となるとしても。」と述べており、文学には単なる批判だけでなく、積極的な役割があると考えているのが見て取れるだろう。バトラーの提唱する非暴力の倫理もまた、既存の価値観を問い直し、新たな平等な関係性を構想する批判的営為なのである。そして、非暴力の力こそが暴力を終わらせる暴力とも僕は考える。

6.3.7.結論:非暴力の倫理と存在の意味

 非暴力の倫理は、僕らが相互に依存していることを認識し、尊重することから始まる──存在の意味を探求することは、僕らがどのように生きるべきか、どのように他者と関わるべきかを考えること。最終的に、あらゆる存在は、共有する愛と悲しみによって、その真の意味を個々人それぞれに見出すときもあるかもしれない。

7.結論

7.1.存在の意味

 僕の存在にも、蝶々の存在にも、何とかイズムというロゴスの存在にも、存在自体に意味などない。一定のリズムと調和ある旋律がニヒルな笑みを浮かべてやってくる。それらはすべて偶発的事象でしかなく、在るは在るなのだ。カミュの『シーシュポスの神話』におけるシーシュポスの物語は、存在の無意味さを象徴している。彼は永遠に岩を山の頂上に転がすという無意味な作業を繰り返すが、カミュはこの繰り返しの中に人生の意味を見出す。このように、存在の意味は個人が自らの経験の中で見出すものであり、外部から与えられるものではないのだ。

存在が無へと帰す寸前に、死を目の前にしたときに、存在の意味は、死を目前とした者たちにとって郷愁とともにもたらされるかもしれない。

 だからこそ、存在そのものではなく、生き抜いてきた過程、それは個々にとってかけがえのないものであり、個々人には、大いに意味があるだろう。

嫌いな蝶々、だけれど、僕はサナギの中でドロドロに溶けて発狂し美しい羽を広げようとするあの蝶々の存在を尊重している。

〈表裏一体な二項対立〉は、〈あいまいさ〉と言い換えれるかも知れない。自然の神秘を忘れたあいまいさへの言及は他責への一歩でしかない。
あいまいを言い訳に主体性のなさを取り繕うことのいかに残酷なことか。

権力を振り回してその椅子にしがみつき、ありとあらゆるものを区別し、何もかもを搾取し踏みつけ破壊し、持つ者と持たざる者の格差をこれでもかというほどに拡げていくことに無頓着で卑劣極まりない人間たち。

他者の存在なくして自己を規定すらできない呪われた存在──それが人間かもしれない。

 表裏一体の対立項は、この世のあらゆる事象の根源的な原理なのである。そして、人間実存そのものの根源的な特徴でもある。サルトルが言うように、人間存在には不可避的な曖昧さと矛盾が宿っている。しかしそれを直視し、統合へと高めていくことこそが重要なのだ。例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』における主人公ラスコーリニコフは、善と悪、罪と罰という対立する本質を内包している。彼の行動と心理の描写を通じて、人間の複雑な内面が明らかにされ、読者は人間の本質について深く考えるきっかけを得るだろう。人間の内面的な葛藤は、社会構造や文化的な枠組みにおいても同様に見受けられる。これにより、個人の経験と社会全体の動きが相互に影響し合うことが明らかになる。例えば、経済格差や社会正義の問題は、個人の価値観と社会的な要求との間の対立を示している。

 また、バタイユが提唱する連続性と非連続性の弁証法は、社会的な進化と革命的な変化の間の緊張関係を反映している。例えば、有性生殖における精子と卵子の融合は、連続性と非連続性が渾然一体となった現象だ。生殖細胞が分裂し一時的に連続した存在となるが、ただちに非連続な2つの個体へと分かれていく。この生命現象における対立と統合の原理は、科学の理論から芸術の作品に至るまで、対になった二つの要素が渾然一体となることで、新たな次元の体験や発見をもたらしている。生命の連鎖そのものさえ、この原理に従っている。

 人間も自他の二元性から逃れられない。しかし、人は自らの思索によって、対立を単なる二者択一ではなく調和ある統合へと高めることができる。蝶やジェンダーへの違和感も、そうした視座から生まれた批判の目なのだ。

 対立を分断や排除と捉えるのではなく、対位法的に融合すべき契機とみなす。それこそがバタイユの説く至高の感性なのである。常に矛盾や対立に気付き、それを自己の内に凝縮することで、新たな自己を生み出していく。死を越えた存在の意味とは、そのような人間の可能性を指し示しているのかもしれない。バタイユ的な至高の感性を獲得し、対立を乗り越えた自己の新たな地平を切り開くことができるだろう。サルトルの掲げた主体的で自由な実存の可能性を、さらに深く追求する必要がある。

7.2.バタイユ思想の核心

──僕たちはバタイユの哲学から得られる啓示に耳を傾ける価値が今でもある。対立の中に調和を求めることが至上であることを認識しなければならない。単なる対立する要素とは異なり、対立の中での調和の重要性が浮かび上がる。したがって、自己や他者、蝶やジェンダーといった概念をより深く理解することが不可欠である。対立を超えて統合を促進する努力が求められる。このような努力こそが、人間の精神の頂点への光の道を照らすことであり、バタイユの尊い感性を具現化するものである。存在と意識の関係は、実に曖昧で対立にみちている。

「対自は1つの事実的必然性をしかもたない。いいかえれば、対自は、自分の意識存在〔意識であること〕 etre-conscience もしくは存在〔現実存在〕existenceの根拠ではあるが、決して自分の現前 presence を根拠づけることはできない。それゆえ、意識は、自分を存在させないわけにはいかないが、いったん存在するや、自分の存在について、意識は全面的に責任を負うことになる。」

『存在と無』サルトル 訳 松浪信三郎 河出書房 p115

サルトルが論じたように、意識はそれ自体では無──対象のない自由な透明性として現れるが、それ自体が実在の一部でもある。この対立を乗り越える視点こそが望まれる。

 バタイユ思想から対立と調和の普遍原理を探求する理論的・実証的アプローチを試みたが、より実践的な方法論の確立が課題として残る。それは、追々やっていくとしよう。また、結論でわずかに触れた個の尊厳と時事戦前戦後現代の日本、そしてそれにまつわる憲法についての改憲問題などの議論は別途エッセイで述べてきたりもしているが、総合的に組み込んだ論を練らねばならないだろう。

 「人間の精神の頂点への光の道」「存在と意識の関係は曖昧で対立に満ちている」ことをサルトルは指摘した。しかし、人間存在がはらむ有限性という側面については、さらに掘り下げる必要がある。
 カンタン・メイヤスーは著書『有限性の後で』で、人間が自らの有限性と対峙する際の在り方について考察している。また、意識についてサルトルを批判してもいる(註釈5.)。僕らは必ず死を迎えるがゆえに、人生とは一回性のものであり、そこに意味を見出さねばならない。メイヤスーは「私たちは有限で、しかし生は無限なのだ」と説く。つまり個人は有限であっても、生そのものは世代を超えて永遠に連なっている。ここにメイヤスーが言う「調和」の契機が潜んでいるのではないか。個人の一回性の人生と生そのものの永遠性、このような対立項を「分断」や「排除」ではなく、バタイユ的な視座から〈対位法的に統合すべき契機〉と捉えることで、全てを包み込む高次の調和が見出せるかもしれない。
 死を前にした人間にとって、バタイユの連続性と非連続性の弁証法は、実に切実なものとなる。誕生から死に至る一生の連続性と、やがて訪れる非連続的な断絶。この対立を乗り越える「至高の感性」こそ、人間が自らの有限性を受け入れ、調和ある実存を手にする鍵かもしれない。

 春、陽光の朝、カラヤン指揮ベルリンフィルのマーラー『交響曲第五番』「第四楽章アダージョ」を聴きながら、こうして黒と白の記号を羅列している。マーラーの持つ深い感情表現や人間の内面世界への洞察はバタイユの尖った思想とどこか共鳴するようだ。音楽の休止符は次の感情の高まりを呼び覚ます──静寂、沈黙。廃墟同然となった瓦礫の家の前、雨の中、立ち尽くす少女が誰かのぬくもりにはにかむ姿が見える。(註釈6.)

 僕は人間嫌いだ──儚くも脆く、傲慢この上ない愛すべき人間。

「もしも言葉がなかったら、私たちはどういう存在になっているのだろうか。言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。だが、語る者は、最終的には自分の非力さを告白する。」

『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健
ちくま学芸文庫p470



註釈

1. A. Einstein; B. Podolsky, and N. Rosen (1935). ”Can Quantum-Mechanical Descrip- tion of Physical Reality Be Considered Complete?”. Phys. Rev. (The American Physical Society) 47 (10): 777-780.
EPRパラドックスは、量子力学の基本的な特性である「量子もつれ」が、局所性を破ることを示唆するため、相対性理論と矛盾する可能性があるという問題を提起する思考実験。
このパラドックスは、アルベルト・アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンの3人の科学者によって1935年に提唱された。

EPRパラドックスでは、2つの粒子が量子もつれ状態にあるとき、一方の粒子の状態を測定することで、もう一方の粒子の状態が即座に決定されるという現象が起こる。これは、粒子間に何らかの超光速での通信があるかのように見え、相対性理論が禁じる超光速の相互作用と矛盾するように思われる。
しかし、この「瞬時の影響」は、実際には量子もつれ状態特有の非局所性として理解されており、量子テレポーテーションや量子暗号などの技術の理論的基礎となっている。EPRパラドックスは、量子力学の解釈に関する重要な議論を引き起こし、物理学における根本的な問題を浮き彫りにした。詳細は『アインシュタインのパラドックス――EPR問題とベルの定理』1:アンドリュー・ウィテイカー著、訳 和田純夫 岩波書店を参照せよ。

2.理性や秩序から解放された、狂騒的で生命力あふれる存在の源泉。これは、生命の本質的なエネルギーと創造性を象徴し、激情や直感、自己超越への欲求を包含する。
ディオニュソスとはギリシャ神話で、酒の神。 もと、北方のトラキア地方から入ってきた神で、その祭儀は激しい陶酔状態を伴い、ギリシャ演劇の発生にかかわるともいわれるニーチェが「悲劇の誕生」で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつものを「ディオニュソス(Dionysos)的」と表現する。『悲劇の誕生』ニーチェ著にて取り上げられているが、『権力への意志』ニーチェ著で、広範な射程にまでこの特徴を省察している。

3.『悪の華』ボードレール日本語訳は、訳 堀口大學 新潮文庫、『文学の悪』ジョルジュ・バタイユ ちくま学芸文庫および『ボードレール』サルトル 人文書院を参照せよ。

4.サルトルは『新しい神秘家』(『哲学・言論言語』サルトル著 訳 清水徹 人文書院)の中で次のように批判している。

「人間、ディオニューソス的人間、これこそニーチェとわれわれの著者とに共通するヒューマニズムの基盤にある考え方であるように思える。

しかし、よく反省してみると、自分がそれほど自己に確言を抱いているとは、もはや感じられぬものだ。

バタイユ氏の思想は波のようにうねる。はたして彼は、この人間的な、あまりに人間的なヒロイズムに満足するだろうか。彼はこのディオニューソス的情熱をわれわれに提出するのだが、彼にはそれにしがみつく権利はないということに、まず注意しよう。これまで長々と述べてきた説明に従ってこられた読者はすでにお気づきになっただろうが、この情熱=受難>はまさしくひとつのごまかし、<全体>と同一化するためのいっそう滑なやり方なのだ。すでにまえに引用した条りだが、そのなかでバタイユ氏は「人間は(その探索の果てにおいて)すべて存在するものの死の苦悶である」と書いたではないか、しかも彼は、ニーチェに捧げた章のなかで、われわれを「すべてが生贄である犠牲の儀式」〔一七五ページ〕と規定しているではないか。こうしたことすべての底にわれわれは、ショーペンハウアーによって定式化され、ニーチェがふたたび取りあげたあの古い苦悩尊重の態度の第一公準を見出す。苦悩する人間は、全宇宙の苦悩と病いを取りあげ、自分の内部でそれを基礎づけるーーという公準だ。これはまさしくディオニューソス主義、すなわち苦悩の形而上学的価値の無償の肯定である。こういう肯定にはそれなりにいろいろと口実がある。たとえば、苦悩するときはいくらか気を紛らすことが許されるし、宇宙の苦悩を引き受けるという理念は、ちょうどよくそれにつらぬかれるならば、薬として役立ちうるという口実だ。だがバタイユ氏は確肩を抱くことをのぞむ。したがって彼は自分の自己欺瞞を承認しなければならぬ。もし私が全体のために苦悩するならば、私はすくなくとも苦悩として全体である。もし私の死の苦悶が世界の死の苦悶ならば、私は瀬死の世界である。こうして私は私を失うことによって、全体を獲得しているであろう。」

『新しい神秘家』『哲学・言論言語』サルトル著 訳 清水徹 人文書院 p60

5.サルトルへの言及は、意識と外部世界の関係についての議論の中で行われている。

「相関主義は、意識や言語が根源的な外部と原初のつながりをもつと主張するが(現象学において意識は世界に対して自己超越する、サルトルの言い方によれば、意識は世界のほうへ「炸裂する」)、しかし他方で、この主張は、そうした外部への閉じ込め、ないしは監禁という奇妙な感覚を隠しているように思われる(「透明な檻」)。なぜなら、私たちは言語と意識の外部性のなかに閉じ込められているからであり、私たちはつねにすでに[toujours-desa](これは「co-」と同じく、相関主義に属するもうひとつの本質的な語句である)そこにいるからであり、「世界-対象」を外から観察できるような視点をもっていないからだ。「世界-対象」は、あらゆる外在性を与える乗り越え不可能なものなのである。さて、この外部が私たちに対して閉壊的な外部のようなものとして、すなわちみずからが閉じ込められているような感覚がある外部として現れるとするならば、それは本当を言えば、そのような外部は相対的なもの、つまり、明確に私たちに関係しているものであるからなのだ。」

『有限性の後で』メイヤスー 人文書院p18

 サルトルは、意識が世界に対して自己超越するという考え方を提唱した。彼の哲学では、意識は常に何かに向けられており、その意識の対象によって定義される。サルトルによれば、意識は世界の方へ「炸裂する」と表現される。これは、意識が能動的に世界に向かって開かれているという彼の見解を示唆している。

 しかし、メイヤスーはこの見解に対して批判的立場をとる。サルトルの考え方は、意識が世界に開かれていると同時に、僕らは言語と意識の「透明な檻」の中に閉じ込められているという矛盾を隠していると指摘。つまり、僕らは自己と世界の関係性の中で生きており、その関係性を超えて世界を客観的に把握することはできないということだ。

 この部分は、相関主義がどのようにして主体と客体の関係性を中心に据え、僕らの認識がこの相関関係に依存しているという考えを強調しているかを示唆。また、僕らが世界をどのように経験し、理解するかについての根本的な問いを提起している。

6.戦争紛争地帯や災害地での犠牲者、差別と格差に苦しむ人々や理不尽な環境破壊を指す。

参考文献

『太陽肛門』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健 景文館書店
『ヒロシマの人々の物語』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健 景文館書店
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健 ちくま学芸文庫
『文学の悪』ジョルジュ・バタイユ 訳 山本功ちくま学芸文庫
『ボードレール』サルトル 訳 佐藤朔 人文書院
『ヒロシマ』ジョン・ハーシー 訳 石川欣一/谷本清/明田川融 法政大学出版社
『存在と無』サルトル 訳 松浪信三郎 河出書房
『哲学・言論言語』サルトル著 訳 清水徹 人文書院
『一九四七年における作家の状況』『文学とは何か』サルトル 訳 白井健三郎/海老坂武 人文書院
『Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity』
Judith Butler,Routledge
『The force of nonviolence』 Judith Butler,Verso
『悲劇の誕生』F.W.ニーチェ 訳 秋山英夫 岩波文庫
『文学とは何か』加藤周一 角川ソフィア文庫
『アインシュタインのパラドックス――EPR問題とベルの定理』1:アンドリュー・ウィテイカー著、訳 和田純夫 岩波書店
『ジェンダー概念の意義 と効果』上野千鶴子 『学術の動向』vol.11, no.11, pp.28-34, 2006-11-01 (Released:2009-12-21)
『悪の華』ボードレール 訳 堀口大學 新潮文庫
『シーシュポスの神話』アルベール・カミュ 訳 清水徹 新潮文庫
『罪と罰』ドストエフスキー 訳 工藤 精一郎 新潮文庫
『不滅』ミラン・クンデラ 訳 菅野昭正 集英社文庫
『日本国憲法改正草案』自民党憲法改正実現本部
『有限性の後で』カンタン・メイヤスー 訳 千葉雅也他 人文書院

以下、本エッセイに影響したもの
引用と考察詳細を後日別途
『権力への意志』ニーチェ 訳 原佑 河出書房
『有と時』ハイデッガー 訳 辻村公一 河出書房
『ベンヤミン・アンソロジー』ベンヤミン 河出文庫
『実存から実存者へ』レヴィナス 訳 西谷修 ちくま学芸文庫
『全体性と無限』レヴィナス 訳 藤岡俊博 講談社学術文庫
『存在の彼方へ』レヴィナス 訳 合田正人 講談社学術文庫
『The nature of order』Christopher Alexander


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