ページと瓦礫のあいだで
ポール・オースターが死んだ。
そのようなニュースを見たとき、僕は偶然にも『ムーン・パレス』を再読しようと仕事場に携えてきていた。ひとがいつか死ぬのはわかっているけれど、思い入れのある作家の訃報は淋しいものだ。
『ムーンパレス』で、主人公マーコが叔父さんからもらった本を売るのは、彼の個人的な経済的必要と、物質的なものへの感情的な結びつきの間の葛藤を表している。
2024年に起きた能登半島地震の被災者も、愛着のある家や思い出の品々を手放さざるを得ない状況に直面し、マーコと同様の心境を抱えていたことだろう。
このシーンは、資本主義経済の中で個人の価値と市場経済における物の価値の緊張関係を示しているとも取れる。被災地の復興が人手不足などの理由で遅れがちな中、生活再建のために金銭的な必要に迫られた人々は、愛着のある地元から離れざるを得なかったりもする。
さて、本書中では1968年の学生運動に触れられている。コロンビア大学の学生運動は、ベトナム戦争反対と大学の軍事研究への関与に抗議するものだった。
2024年のコロンビア大学でのイスラエルに対するパレスチナ侵攻の反対運動も、学生たちが社会的、政治的な問題に声を上げる点で似ている。
こうした運動は、特定の時代や場所に限らず、歴史を通じて繰り返される可能性がある。
学生たちが社会的正義のために立ち上がるのは、民主主義社会における重要な側面で、時代を超えた普遍的な行動だろう。
『ムーンパレス』のシーンが示すように、個人の経験がより大きな社会的、歴史的な文脈に結びついている。過去の出来事が現代にも反映され、新しい形で再現されることは、歴史の連続性と社会の進化を考える上で重要な視点だ。
同様に、自然災害からの復興にも、社会の一体性や連帯感が試される。被災地支援への積極的な関与を通じて、我々は新たな社会的紐帯を構築する機会を得るのである。
ところで僕はといえば、4月下旬から北陸へ応援に入っている。
震災のあった元旦当日とほとんど変わっていない死にかけのような街の姿に最初驚いた。
それでも少しずつだけど、ボランティア活動や建設業者らの手が入ってもいる。
先日、4月から仮設建設応援に来ている神奈川の同業さんと話をしていた。「国も県も何もしていない訳じゃないんだけど、そもそも人が足りない」
少子高齢化の著しいこの業界では、修繕できる職人が消えていっている。
大阪万博を延期か中止し、災害支援に国の予算で建設関連業者さんたちを回してくれたら、もう少し進捗も改善できるだろう。
オースターといえば偶然と必然を描く作家──誰もが遭遇したくない、日本では誰もが遭遇する自然災害、地震の偶然、支援での出逢う偶然、ダイナミックな当たり前にあった昔ながらのあたたかな必然としての助け合い。
がんばれって他人事じゃなくて、みんなでそれぞれにできる範囲で助け合って頑張れたらいい方向に風が吹くかもしれない。
久しぶりの施工──「きのどくな」と仰りながら謙虚に感謝を伝えてくれる地元の方々にパワーをもらえて頑張れる。
参考文献
『ムーン・パレス』
ポール・オースター 柴田元幸訳 新潮文庫
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