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存在の耐えられない軽さ プラハの春と惑星の永劫回帰

著者 ミラン・クンデラ
訳 千野栄一
出版 集英社文庫

この記事はネタバレを含みます

永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p6)

ニーチェ ツァラトゥストラのキーワード、永劫回帰で始まるプラハの春を背景にもつ恋愛小説仕立てのクンデラ思想でありニーチェの超人哲学を受容体にしたクンデラの恋愛小説のようにみせかけた反キッチュ的実存哲学思想小説であるかのように思える。

 このユートピアの見通しには、ペシミズムとオプティミズムの概念を十分に使うことによってのみ正当化が可能であろう。オプティミストとは第五の惑星における人類の歴史が血で汚されることがよりすくなくなっていると考える人である。ペシミストとはそう思わない人である。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p285)

ここからはネタバレをかなり含みます

あらすじ

プラハの春を背景に、女にだらしのない身勝手な男トマーシュを「私」(クンデラ)が回想する。
トマーシュはテレザ=純粋無垢な田舎女を愛することで、身勝手さからやがて献身的なまでの愛に昇華させていく。それはテレザが献身的な愛をトマーシュに捧げていたからであろう。
しかし、その献身さは、両者にとって「重石」となる。
トマーシュの浮気相手、自由奔放な女、サビナはキッチュのメタのような女であった。サビナにはトマーシュの後、フランツという恋人ができる。
男女4人の恋愛と旧チェコスロバキアの政治情勢から、人間の実存をキッチュを軸に思索していく。

テーマ

プラハの春
永劫回帰
実存
キッチュ

偶然と必然

プラハの春

1968年当時の共産党による民主化と自由化の運動がプラハの春である。
クンデラは文化面から積極的にこの運動を支えた一人であった。
運動は旧ソビエト軍を中心にワルシャワ条約機構軍による旧チェコスロバキアの占領によって終わる。
その後、フサーク大統領によるいわゆる「正常化」の時代が訪れる。
この「正常化」時代にクンデラは数々の圧力をかけられ、遂には1975年にフランスへと亡命する。

クンデラの本は本国チェコでは長らく発禁であったが、最近になり、何冊かようやく刊行されたようだ。

本作はいまだチェコでは未刊行である。

永劫回帰

ニーチェの超人哲学の真髄ともいえる言葉「永劫回帰」/「永遠回帰」

クンデラの本書「存在の耐えられない軽さ」の感想を述べる前に、少しニーチェの思想に触れておく。

永劫回帰をまず考える際、ニーチェの超人哲学、もしくはツァラトゥストラの概要を知っておく必要がある。

ニーチェといえば、多少哲学をかじったことがある人ならば、きっと一度はツァラトゥストラに目を通したことがあるのではないだろうか?

そこでざっくりとかなり簡単に触りだけ思い出しながら書いてみる。

※哲学ド素人でニーチェを読んだのはかなり前の為、間違えていたらごめんなさい。

嫌なことも引き連れて自分の人生を全部肯定したうえで、それはめぐりめぐっていく。自分の負をも全肯定する(このことを運命愛に帰結するという)

運命愛に帰結=永劫回帰
永劫回帰を理解する人を超人

という。

ルサンチマンやニヒリズムに陥ると喜びを忘れてしまう、喜びを感じ取る力が弱くなってしまう。

ルサンチマン=他人を否定することで自己肯定するなど。

ニヒリズム=神による善/悪から人間主体の良い/悪いへと価値転換するときの障害。たとえば、「どうせ~なのだから」といった軸を見失ってしまった結果。※現代はニヒリズムの時代ともいえる。ニーチェは当時から2世紀はニヒリズムの時代だと予言していた。

末人=超人の対義語であり、ノミのような最低な人間。

ニーチェの無神論的な超人哲学は非常にストイックでポジティブな哲学である。

超人を目指して没落せよというニーチェ。これは失敗しても良い。ルサンチマンやニヒリズムに陥ることなく、その失敗した自分を肯定し次の小さな幸せにつなげていけと言っていると勝手に僕は解釈している。

3段の変化

ツァラトゥストラでは3段の変化ということをいっており

ラクダ⇒獅子⇒子ども

に精神の変化を例えて述べている。

最初は「重い」荷物を背負ったラクダのような精神。
そこから反撃や反抗、否定の時期(自己超克)への闘争の獅子のような精神。
最後には猛々しい獅子から子供のように無垢で物事に対して夢中に全力になれる精神。
ツァラトゥストラ 第1部 三段変化

また、ニーチェは、自分が自分を見捨ててはならない。自分が最大の自分の味方である。とも言っていたと思う。

このように、

喜びをもとめて力強く永劫回帰することを肯定しながら人生を生きよというのが超人哲学
※僕なりのツァラトゥストラの解釈

なのかなと僕は解釈している。
きちんとした解釈は慶応義塾大学リポジトリにて論文が置かれていたのでそちらを参照して欲しい。


キッチュ

 本書のしょっぱなからニーチェが出ている点とタイトルから、どうしても前述の三段変化の重い荷物を背負ったラクダのような精神状態を僕は彷彿させられる。本書の冒頭の永劫回帰は、物語での「軽さ」に対するコントラストを強調させているが、僕は、むしろ、冒頭ニーチェの引用や後半でのニーチェと馬の話から、テレザとトマーシュの関係の変化から三段変化の「子ども」へと変貌していくように見えた。特に第七部でのトマーシュが野兎になるあたり。
重い十字架を背負ったことよりも、自らの存在自体が軽すぎることへの不安や焦燥感、やるせなさ、無力感のほうが人は耐えられない。そして、そうしたある種の自由から来る不安、サルトル的に言うなれば、自由の刑に処されている我々は、ノスタルジーなどの審美的なものや俗悪的なもの、すなわち、キッチュなものに時に、拠り所を求めたりするのかも知れない。むしろ、重さと軽さを繰り返しながら、最終的に軽くなるのではないか?無意味の祝祭のように。上手く言えないがそのうちまとめる。ともかく、キッチュからは逃れられないのが人間らしさの特徴の側面でもあるのは何となく理解できる。2021/10/21追記

第六部大行進にて、クンデラは彼の思想の一つであろうキッチュについて語る。
キッチュとは、存在を無条件で同一視すること。綺麗事などのことを指すようだ。

クンデラは反キッチュであるかも知れないが、この、重さと軽さの狭間に漂う「俗悪」やキッチュこそがそのバランスをなんとかとろうとするもののようにも思えてくる時がある。上手く言えない。何と言えば良いのだろう。必要悪ともまた違うのだが。クンデラの言葉を借りるならば、我々人間が超人ではなく、人間だからこそ、キッチュからは逃れられず、また、キッチュこそが人間の存在たらしめんこととなっていると。

俗悪=キッチュに関して、当時のチェコ情勢を背景に、全体主義からの民主化と自由への運動を推進しようとしていたクンデラらの思想や情勢への当時の考えが第6部「大行進」にて語られている。

俗悪なものは続けざまに二つの感涙を呼び起こす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子どもは何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子どもに全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!
この第二の涙こそ、俗悪を俗悪たらしめるのである。
世界のすべての人々の兄弟愛はただ俗悪なものの上にのみ形成できるのである。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p318)

さらに、俗悪は政治家こそがよく知るところであるとクンデラは断言する。

世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。
(中略)
唯一の政治運動があらゆる権力を持っているところでは、われわれは突如として絶対的に俗悪なものの帝国に身を置くことになる。
(中略)
この見地からすれば、いわゆる強制労働収容所も、全体主義的俗悪なものがごみを捨てるための浄化槽のようなものとみなすことが可能である。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p318-319)

そして、旧ソビエト軍の介入によるプラハの春が終わり、「正常化」へと向かった旧チェコスロバキアにおける「フランツが酔いしれた大行進」(『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p325))という考えを政治的俗悪なものと言い切る。

絶対的に俗悪なものの本当の敵は質問をする人間である。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p321)
俗悪なものの源は存在との絶対的同意である。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p325)

全体主義的なキッチュの敵、それは「疑い」や「問い」であるともクンデラは言う。
共産主義が敵なのではなく、キッチュこそが敵なのだ、とサビナは言う。

戦後教育以降の現代の我々日本の社会も同じことが言える。2021/10/21追記

実存とは重くもあり、軽くもある

ここからはネタバレをかなり含みます

ここからはネタバレをかなり含みます

ここからはネタバレをかなり含みます

ここからはネタバレをかなり含みます

ここからはネタバレをかなり含みます

われわれは忘れ去られる前に、俗悪なもの(キッチュ)へと変えられる。俗悪なものは存在と忘却の間の乗り換え駅なのである。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p350)

本書は単なる悲劇的な政治情勢下での恋愛小説ではなく、そうした情勢下でのクンデラの思想「キッチュ=俗悪」を実存に照らし合わせて思索する哲学的な小説だと思う。

追記2021/10/21
ペトシーンの丘のテレザの夢はサルトル『嘔吐』へのオマージュのように思える。2本のプラタナスではなく、花盛りの「マロニエの木」でのシーン。テレザにとってのねばねばしたものは、愛の上での憎悪。

人間の実存をクンデラは俗悪なものの中にこそ見出すと考えていたのだろう。そして、民主化と自由のために「まだここに恐れてはいない人たちがいる」と自分たちの存在を示そうとするのか、何もしないでただ傍観者的に情勢に流されるのか。クンデラだけではなく、民衆は当時前者を選択したが、旧ソ連軍の介入により、それも終わりを迎えることとなったのがプラハの春であろう。
また、トマーシュは、性的な快楽への欲望からではなく、世界を捉えたいという欲望に駆られた。ロマンティックな形をした実存の探究者でもあった。

 フランツは正しい。私はプラハで政治犯の恩赦のため署名活動を組織する編集者のことを考える。その活動が囚人たちの助けにならないことを彼はよくわきまえていた。真の目的は囚人を解放することではなしに、まだここに恐れてはいない人たちがいることを示すことにあった。やったことは芝居でしかなかった。でも他の可能性はなかった。行動か芝居かの選択はなかった。選択できたのは、芝居をするか、何もしないかであった。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p338)

プラハからチューリッヒへ脱出したにも関わらず、トマーシュはテレザを追って、プラハへと戻ってしまい、挙句の果てにはテレザの夢の中で、政治犯として、飛行機で見知らぬ場所へつれていかれる。

飛行機が着陸し、タラップから降りるトマーシュは、人生の幕を下ろすかのようである。
崩れ落ちるトマーシュの中にテレザはようやく、無垢なる愛を見出し、トマーシュからも自分自身の呪縛からも解放されたかのように見える。

テレザとトマーシュはお互いの存在の重さ、社会情勢の重さを背負った人生であったが、自由奔放なサビナは軽さを求めた人生だったようだ。

テレザとトマーシュは重さの印の下で死んだ。彼女は軽さの下で死にたいのである。彼女は空気より軽くなる。これはパルメニデースによれば、否定的なものから肯定的なものへの変化である。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p344)

俗悪な情勢、人間臭い愛憎と嫉妬とその隙間を埋めるかのような短い幸せ。
全ては永劫回帰、あるいは、惑星から惑星へのトマーシュ版のような永劫回帰。

 宇宙にはすべての人がもう一度生まれてくる惑星がある。その際、人々は地球上で過ごした自分の人生、そこで得たあらゆる経験を十分に意識している。
 そして多分さらにもう一つの惑星があって、そこでわれわれ誰もが前の二つの人生の経験を持って三度目の生を受ける。
 そしてさらに次から次へと惑星があって、そこでは人類が一階級分(一つの人生分)成熟して生まれてくるのである。
中略
 このユートピアの見通しには、ペシミズムとオプティミズムの概念を十分に使うことによってのみ正当化が可能であろう。オプティミストとは第五の惑星における人類の歴史が血で汚されることがよりすくなくなっていると考える人である。ペシミストとはそう思わない人である。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著 集英社文庫(p284-285)

クンデラは1975年に祖国を追われた後、1984年に本書をフランスにて刊行する。

チェコ人としての自身の在り方が国家によって無きがごとしのようにされ、亡命により重石がとれたのか、それとも彼のアイデンティティのひとつであろうチェコ人としての彼の存在を軽んじられたことが耐えがたいものであったのか?

誰しも祖国を追われたら、後者ではないだろうか?

彼の在り方、人生の本質の答えは、その後2013年に刊行された「無意味の祝祭」にて見出されたと僕は感じている。

祖国の民主化と自由化のために活動した結果、祖国を追われたクンデラにしか描けない人間の存在の重さと軽さを問う、俗悪を軸に人間の実存を描いた作品である。

以下2021/10/21加筆

偶然と必然、重さと軽さ、生と死など、一見すると二項対立的なものは、全て曖昧な境界線にあるのだろう。過去から現在、未来とひと続きのなだらかな線だとして、その線状のある一点を観測するとする。そこでの事柄は偶然のように見えて必然であったと気付かされる。

クンデラを読んでいても、やはりタブッキの以下の文章に想いを馳せていた。

ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目には見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ 
『遠い水平線』 アントニオ・タブッキ

テレザの夢の中での飛行場は、トラック事故の偽装を暗喩しているのだろう。


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