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延伸した北陸新幹線の終点「敦賀」はこんなとこ【国際港】

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敦賀(つるが)市は、福井県にある古くからの港町だ。
人口は6万人ほどで、県内5番目の都市である。

タレントの大和田伸也・大和田獏の兄弟がこの敦賀の出身だ。
大和田家はかつては大和田財閥とも呼ばれ、旧大和田銀行を率いた地元の名家であるという。

早口言葉の定番でもあった「高速増殖炉もんじゅ」という原子力関連施設があることでも有名で、他にも原発が数基ある(現在稼働中はゼロ機のようだ)。

その敦賀だが、実は古くからの港湾都市であり、国際色豊かな都市であることはあまり知られていない。
敦賀の港湾部分である金ヶ崎地域は「東洋の波止場」や、あるいは20世紀前半に果たした歴史的な役割から「人道の港」とも呼ばれる。

かつて筆者は、一人で敦賀を旅行したことがあるが、そのときの写真を添えて敦賀の魅力をお伝えできたらと思う。


地名がそもそも国際的

この3月16日(月)から北陸新幹線が延伸され、東京から福井県の敦賀駅までが新幹線一本で繋がった。
筆者の住む関西からはというと、以前からサンダーバードという特急列車が敦賀駅まで出ている。

ちなみに、大阪駅から石川県の金沢駅に向かうときには、北陸新幹線の延伸以前はサンダーバードで乗り継ぎせずに行くことができた。
今回の北陸新幹線の延伸に伴い、サンダーバードの敦賀〜金沢間が廃止された。
大阪から金沢へは敦賀から新幹線にわざわざ乗り換えないとアカンという七面倒臭いことに乗り継いで以前より早く到着できるようになった。

実は、サンダーバードのような特急列車を使わずとも、大阪から在来線一本、2時間で敦賀に行くことができる(しかも安い)。
筆者も在来線を使って敦賀を訪れた。

貴重な椅子が一つ占領されている。

まず、駅に着くとホームで恐竜の博士がお出迎えしてくれる。
さすがフクイリュウの福井県である。

駅構内の小便小僧。このときは小便が枯れていた。

小便小僧の敦ちゃんもお出迎え(何故)。

駅前で右腕を挙げて出迎えてくれる。

都怒我阿羅斯等もお出迎え(誰や)。

「つぬがあらしと」さんと読むらしい。
なんでも古墳時代に朝鮮半島から日本に来た方で、敦賀の笥飯(けひ)浦、いまの氣比(きひ)神宮の付近に来泊したと伝わっているとか。
意富加羅国(おおからこく)、すなわち大伽耶(デガヤ)という国の王子だったらしい(異説あり)。

伽耶というのは、朝鮮半島の三国時代にいがみ合っていた高句麗・新羅・百済とは別に、半島南部にあった小国連合のこと。
その中でも金官伽耶国大伽耶国がツートップの勢力であった。
伽耶諸国には勢力拡大を狙う倭国(日本)が拠点を置いていたとも言われ、古くから交流があったようだ。

後に伽耶諸国は新羅に吸収され、金官伽耶からは金庾信(キムユシン)という三国統一に大きく貢献した将軍が輩出されたりもするが、大伽耶の出身者で有名な人物は聞いたことがなかった。
その意味でも都怒我阿羅斯等は稀有な存在だ。

この都怒我(ツヌガ)が敦賀(ツルガ)の語源になったとも言われている。
敦賀という地名からして古代の朝鮮半島との国際交流の賜物であるほどに、敦賀は昔から国際港の役割を果たしていたのだ。

ちなみに、韓国南部にある伽耶諸国の遺跡群は2023年に世界遺産に登録されている。
筆者は以前、金官伽耶の古墳がある韓国の金海市を旅行したことがある。

参考:金海(筆者撮影)。韓国にも立派な古墳がある。

できれば今年は、同じ世界遺産の一部で、大伽耶の遺跡がある高霊池山洞古墳群を旅したいと考えている。
ぜひ都怒我阿羅斯等の故郷を見てみたい。


人道の港、敦賀

新・敦賀ムゼウム

駅から海の方向へ向かうと、もともと船着き場だった辺りに特徴的な建物群がある。
2019年にリニューアルされた敦賀ムゼウムだ。

これら建物は、当時にあった(上の写真の右から順に)ロシア義勇艦隊事務所・大和田回漕部・敦賀港駅・税関旅具検査所を、そのまま当時の場所に、当時の面影のまま再現したものだという。

ちなみに、ムゼウム(museum)とはドイツ語で「博物館」の意。

曲線の湾景

建物群の反対側には湾景が広がる。


ここ敦賀の港は過去に二度、「人道の港」として難民を受け入れたことがある。

一度目は1920年代。
レーニンらによるロシア革命で内戦状態になっていたシベリアには、多数のポーランド人の戦災孤児たちがいた。
日本赤十字社はその救出を試み、ロシアのウラジオストク港から出港した多数のポーランド人の子どもたちが敦賀に降り立つこととなった。
やせ細った孤児たちは日本滞在期間を経て、無事にポーランドに送り返されることとなった。

参考:ロシア革命100周年の2017年10月のサンクトペテルブルク(筆者撮影)。


二度目は1940年代。
外交官であった杉原千畝から、いわゆる「命のビザ」を発給されたユダヤの民たちの、あまり知られていない物語の続きである。
リトアニアのカウナスでビザを発給され、シベリア鉄道でウラジオストクに移動したユダヤの民が来航したのも敦賀港だったのである。
このユダヤの民たちは鉄道で神戸に移動して、神戸ジューコムというユダヤ共同体に滞在することとなった。

参考:神戸ジューコム跡地(筆者撮影)。神戸大空襲で建物は消失し、石垣だけが残る。

杉原千畝がビザを発給から少し経ってから、ヨーロッパではナチによるユダヤの民の大量虐殺が始まる。
アウシュヴィッツなどの強制収容所に送られるなどして、600万人という夥しい人々が死に追い込まれた。
これがホロコーストである。

参考:ポーランドのアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所(筆者撮影)。

杉原千畝にカウナスで命を救われ、敦賀に降り立ち、神戸に滞在したユダヤの民は杉原サバイバーと呼ばれる。

ポーランド孤児と杉原サバイバーが降り立った敦賀。
敦賀ムゼウムはヨーロッパと敦賀とヨーロッパとの、人道の絆を感じられる博物館である、必見だ。


旧・敦賀ムゼウム

湾に沿って駅の方角へ引き返すと、途中に特徴的な赤屋根の洋風建築がある。
これはリニューアルされる前の旧敦賀ムゼウムで、今は金ヶ崎緑地休憩所となっている。

旧敦賀港駅舎、レトロで味わいがある。

もう少し湾に沿って歩くと、敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)がある。

東京から敦賀〜ウラジオストクを経由してベルリンを結んだ1936年の連絡切符が展示されている。
戦前は敦賀がヨーロッパ各国への窓口だった。


そこかしこに国際港の痕跡が

旧紐育スタンダード石油会社の倉庫

他にも、敦賀の街中には国際色豊かな建物がチラホラ散在している。

例えば、アメリカの石油王ロックフェラーの石油会社、スタンダードオイルの倉庫跡はレンガ造りの見ごたえのある建物だ。

今は「敦賀赤れんが倉庫」の名称で、カフェとレストラン、それと往時の敦賀市内をジオラマで再現した施設が営業している。


敦賀市立博物館

重要文化財の旧大和田銀行本店本館ビルは、現在では敦賀市立博物館だが、これまた見ごたえのある昭和初期の銀行建築となっている。
さながら神戸や横浜の旧居留地にあるレトロビルヂングで、港町に相応しい風貌を湛えている。


何とも味のある灯台

現存する江戸時代の灯台も風情があっていい。
洲崎の高燈籠と呼ばれるこの灯台が見守ってきたのは、松前藩(青森県や北海道あたり)から来る北前船であったという。

北前船が松前藩から運んでくるのは、鰊や魚肥、昆布などであったが、鰊は松前商人が北海道アイヌを雇って獲らせたものであった。
江戸時代の蝦夷地やアイヌは、松前藩が支配の拡大を進めていったとはいえ、日本の支配が及びきっていない異国という側面も強い。
北前船の活動は国内交易とだけ見るのではなく、アイヌとの国際取引という側面も見逃してはならないように思う。
敦賀港は北前船を介してアイヌや蝦夷地とも繋がっていたのだ。

そういえば、敦賀市内に当時の鰊蔵が保存されている公園もあったが、あれは今はどうなったのだろう。


渤海との交易拠点である松原客館

立派な松原

さて、筆者の敦賀ひとり旅もクライマックス。

駅から少し離れたところに、日本三大松原にも数えられる「気比の松原」がある。

日本三大松原は、世界遺産の一部に指定もされた富士山を望む三保の松原、佐賀県最北端の唐津市にある虹の松原、そして敦賀が誇る気比の松原だ。
敦賀原発や高速増殖炉もんじゅにも近い。

この気比の松原には、1300年も昔に現在の北朝鮮や中国東北部近辺に建国された「渤海」という国からの使節をもてなした、「松原客館」なる建物があったと言われる。

この海岸を渤海人も歩いたのか。

渤海の建国については、またしても朝鮮半島の三国時代に話が戻る。
伽耶諸国を吸収して勢力を増した新羅は百済を滅ぼし、次いで中国の唐王朝と新羅が組んで高句麗を滅ぼしたことで三国時代は終結した。
しかし、統一新羅の勢力は高句麗の元支配地域の大部分であった鴨緑江以北には及ばなかった。

高句麗が滅びた668年から30年後の698年、高句麗があったのとほぼ同じ場所に、高句麗の支配層と同じツングース系民族の靺鞨族が渤海を建国する。
初代王の大祚栄(だいそえい)韓国ドラマの主人公にもなった。


ちなみに、ツングース系民族といえば、やっぱり有名なのは中国の清王朝を建国した女真族。
つまり、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀もツングース系民族である。

日本は新羅と対立していたため、同じく新羅と対立していた渤海とは友好的な状態にあった。
そのため、渤海使が日本に来港し、遣渤海使が日本から渡り、相互交流が行われていた。

向こうから渤海の船が来るような気がしてくる。

日本と渤海はちょうど日本海を挟んで向かい合う形になっていて、日本海側の港として敦賀は都合が良かったのだろう。

今では影も形もない松原客館は、国際港敦賀が誇る歴史だと思う。

気比(きひ)神宮。なかなかの規模の神社だ。

冒頭の都怒我阿羅斯等のところでも出てきた、笥飯(けひ)浦から派生した氣比(きひ)神宮だが、松原客館が置かれたのは気比の松原ではなく、敦賀駅により近いここだったという説もあるようだ。

画像︰JR西日本の北陸新幹線延伸PRのCMより

ちなみに、JR西日本の北陸新幹線延伸のCMが撮影された場所の一つが、この氣比神宮だ。


ソースかつ丼を旅の〆に

ヨーロッパ軒は老舗のようだ。

旅の締めくくりは、「ヨーロッパ軒」という国際色全開の名前を冠したカツ丼屋さんだ。

敦賀は一日あればかなりの観光ができるので、例えば金沢旅行に行ったときのエクスカーションとして立ち寄るのも大いにアリだと思う。
そして、一日動きまわった最後に、敦賀駅からさほど遠くないヨーロッパ軒で敦賀名物ソースかつ丼を食し、また新幹線で金沢駅に戻れば完璧やないか。

シンプルで良い。

見てきたように、敦賀には知られざる見所が沢山ある。

東京からの北陸新幹線と、大阪からの特急サンダーバードの両方の終着駅になったのを機に、この地を訪れて敦賀港から世界に思いを馳せる観光客が増えて欲しい。

ちなみに、敦賀港は今でも海外との輸出入の拠点であり、れっきとした国際港である。
観光客が増えて認知が増せば、もしかしたら再びここから船旅で海外旅行ができるようになるかもしれないで、知らんけど。


出典

・JR西日本の北陸新幹線延伸PRのCM画像は、
https://youtu.be/0dgvzGx_tqU?si=uaMSeLpS6xjKdRwg
より。

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