私小説「ハードボイルド書店員の独り言」

雨上がりの朝七時。誰もいない路地を歩く。

タバコの残り香が鼻孔を掠める。湿ったアスファルトに自転車が踏みつぶした吸い殻。舌打ちはいつしか堪える方に過半数を譲った。

今日は昨日よりも混むだろう。

連日前年比を超えている。外国人観光客のおかげだ。彼ら彼女らが買うのは帆布を使った鞄。北斎や写楽や鹿苑寺のポストカード、そして文房具各種と期間限定で並べている動物のぬいぐるみだ。イングリッシュブック? ソーリー。ノー・イングリッシュブック・ヒア。

本を売ろう。置こうぜ英語の書籍も。仕入れが大変とか返品が手間とか、お客さんには関係ない。

「洋書、いりますかね?」
「地元にいくらでもあるのに、わざわざ旅先で買わないですよね~」

カバーを折りながらこんな雑談をしている同僚を見掛けた。カウンターでの待機中や品出しの間に「イングリッシュブック?」と一度も訊かれなかったのか。ノーと答えれば働いたとでも? 俺たちの仕事はお客さんの欲しい本を売ることじゃないのか?

雲の欠片を見上げ、無言の叫びを虚空の彼方へ。

「だらしないね」

昨年の八月末。日本史の棚へ新刊を出していると、関東大震災及びそれに纏わる虐殺事件に関する本のお問い合わせを受けた。どちらも置いていません。そう告げると、白髪の紳士は呆れた顔でつぶやいた。

「どこにそんな時間が」「担当でもない旅行ガイドや実用書や文芸書の品出しをし、レジにも三時間連続で入っているのに」心の声が態度へ滲んでいたはず。帰宅してから冷静に返り、両手で顔を覆った。

震災から百年。節目ゆえに仕入れるとかじゃない。何年目だろうと忘れてはいけないことがある。目の前の課題に追われ、ともすれば忘れがちな人々に思い出してもらうのも書店の役割じゃないのか。あの二冊は、いつでも棚へ備えておく本じゃないのか。

本で勝負したい。雑貨や文房具やカフェなどに頼らず。だから返品率を下げ、代わりに書店側の利益率が三割まで上がる改革を。職場の仲間やSNSのフォロワーや知人相手に滔々と語っていたくせに、勝負できる棚を時間と人手が足りないせいにして作り込めていなかった。他人へどうこう要求する前にテメーの仕事が不細工すぎる。

件の紳士は続けた。「なんでこんな本ばかり積んでるの?」反射的に返した。「どちらも売れるからです」「本を売るのが我々の仕事だからです」

記憶と事実をデリートしたい。

本音は置きたくない。でもお金になるから仕入れる。本社の指示ゆえ一等地へ積む。それを是とするなら、売りたくない本を売って仕事だからと開き直ることができるのなら、鞄やぬいぐるみを扱うことに反発するのは筋が通らない。

お客さんの欲しい本を置く。日用品を売るように。それだけじゃない。いまは無関心でもいつか興味を持ってほしい良書を吟味し、棚へ忍ばせる。車の両輪に二元論はそぐわない。

文房具や鞄やぬいぐるみと共存してもいい。ただしメインは本。本が売れないから他の商材に頼るのではなく、本だけでもビジネスを成り立たせ、なおかつプラスアルファの経営努力としてお客さんからの要望に応える。その形を目指す。

大量生産及び大量廃棄が是とは誰も考えていない。だが理想は理想として、現実の前に数字の壁が立ちはだかる。お金は必要だ。皆わかっている。抗うのは難しい。ならば我々が代わりにやろう。豪奢と拡大を好む天下人に対峙し、縮小の美を打ち出した千利休みたいに。面陳の横にそっと差す一冊で伝えよう。黄金の茶室。その床の間に活けられた一輪の花で。

ランニングする若い男性と擦れ違い、横断歩道をゆっくり渡った。もうすぐ駅が見える。車両へ乗り込めば職場まですぐだ。だが理想の書店像ははるか先。いま脳裏に浮かんだヴィジョンは近未来の予告か、あるいは都合のいい幻影か? 

答えを知る方法はひとつ。やってみる。それだけだ。

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