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ハードボイルド書店員日記㉟

「書店員としていちばんやってみたい仕事は何ですか?」
以前勤めていた職場の採用面接で訊かれた。相手は店長である。白髪を黒く染めた背の高い男性だ。佇まいが加藤和彦に似ている。「好きな本だけを集めてフェアをやりたい」と答えた。「そりゃさすがにムリだよ」口元で金歯が光った。その日の夜に「採用」の連絡が入った。

「この店、来月閉店するから」
一年半後、退勤しようと事務所に入った私に店長はいきなりそう伝えた。黄色く濁った眼球が全体的に赤みを帯びている。「テナント料を大幅に上げられてね。社長がもうムリだって」「…」言葉が出ない。急過ぎる。生活費のことを考えたら、すぐ次の仕事を見つけないといけない。せめて二か月はくれよ。ふつふつと怒りが沸いてきた。

「心配しなくていいよ。次に入る○○書店には、いまと同じ条件で雇用してもらえるように話をしてある」「○○書店、ですか」昔の職場の同僚が批判していた会社だ。「全然人を置かないんです。俺のいた店、スーパーの2階で110坪あるのに常時3~4人ですよ。カバーしきれません」と。

「すいません、他の書店の話を聞いてみたいんですが」「いいよ。月末までに決めてくれれば」「ではお先に失礼します」早く帰って身の振り方を考えたかった。「申し訳ない」店長は深々と頭を下げてくれた。頭頂部が意外なほどに薄く、白い物も多く目に付いた。

着替えて事務所を出るところで呼び止められた。「あのフェア、まだやる気ある?」「?」「ウチに来るときに言ってたやつ」「ああ…もちろんあります」忘れたことはなかった。「じゃあ月末から始められるように準備してもらえる? 場所はレジ前。全員で一冊ずつ好きな本を選ぶ感じで」「わかりました」

題して「本当はこの本を売りたかったフェア」。予想以上に賑わった。全て同じ冊数で入れたから、減り具合で誰の本が売れているか瞬時にわかる。あまり動いていないが「時計じかけのオレンジ」は私も読みたいと思った。文庫担当のチョイスだ。「俺大賞、堂々の1位」と筆ペンで書かれたPOPが自信過剰な彼らしい。

口数の少ない黒縁眼鏡の女性バイトが「FBI心理分析官」を推しているのも意外だった。トルーマン・カポーティ「冷血」を読んだかと訊くと「単行本で持ってます」と鼻の穴を控え目に膨らませた。「そういう先輩は何にしたんですか? やっぱりチャンドラーか藤原伊織ですか?」フェア台のいちばん奥を指差した。残り一冊。A5判で150Pぐらい。表紙で白いヒジャブを頭に巻いた中学生くらいの女の子が笑っている。

「『もしも学校に行けたら』児童書ですね」「そう」「意外。あれ? 著者の後藤健二さんってたしか」数年前、テロリストに拘束されて亡くなったジャーナリストだ。

「先輩、ファンだったんですか?」「いや名前すら知らなかった。だからこそさ」「なるほど」女性バイトが眼鏡を直しながらかすかに頷く。「あんな悲惨な事件は二度と起きて欲しくないけど、あれで彼の存在を知ったわけですね」「そう。彼の書いた素晴らしい本にも出会えた。でも本当はあの惨事が起きなくても彼のことを知っていたかったし、生きている間に著作を紹介したかった」「まさに『本当はこの本を売りたかった』ですね」私買ってもいいですか、と言ってくれた。

目を閉じる。ふと彼の生前のツイートが頭に浮かぶ。「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域」ふうっと小さく息を吐いた。そうか。忘れてた。

「○○書店でお世話になります。お気遣いいただいてありがとうございました。ぼくはいままで働いた中でこのお店がいちばん好きです。拾ってもらえて幸せでした。感謝しています」翌日、店長にそう告げて頭を下げた。彼は「ありがとう」と掠れた声でつぶやき、親指で目尻をそっと拭った。



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