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ハードボイルド書店員日記【184】

「すいません、抜けます」

GWの真っ只中。通常よりもやや大きいハヤカワ文庫のカバーを折っていられたのは開店から20分までだった。

「絵本を3か所に配送したい」という小柄な老婦人が来た。送料がどれだけかかっても構わない、孫に贈りたいとのこと。遅番が出勤する13時半までは3人しかいない。店長が伝票の作成や梱包のためにカウンターから離れ、残りはふたり。電話がずっと鳴り続けている。

そしていま、客注のお問い合わせを受けてまたひとり。本能寺で明智方の大軍へ弓を引き絞った織田信長の心境が少し理解できる。ここは禅で学んだ前後裁断だ。目の前のお客さんにだけ集中しよう。

「英語のテキストどこ?」
できない。こういう時でも平気で横から割り込んでくる。
「NHKでしたら、そこの通路を真っ直ぐ行って右です」
あのでっかい看板が見えませんか? 心のなかで付け加えた。

「レジ袋は要りますか?」
「What?」
「Do you need plastic bag?」
「ニホンゴワカラナイ」
諦めて会計を済ませ、ポストカード5枚とボールペン2本、さらに替え芯4本を手渡した。すると「bag?」と何かをぶら下げるジェスチャー。やれやれ。指と電卓で金額を伝えた。

コール音がまた始まる。何度目のトライだろう。数年前のドラッグストアでは「マスクある?」の永遠リピートが名物だったとか。子どもの頃に遊んだ「スーパーマリオブラザーズ」で亀の甲羅を蹴り続けて無限1UPしたのが懐かしい。

ふたりが戻ってくる。恐る恐る受話器を取った店長が「……当店の営業は21時まででございます、はい、まことに申し訳ございません、失礼します」と頭を下げる。切る際に舌打ちが聞こえたのは気のせいだろう。

「カバー付けて」
緑のポロシャツを着た白髪の男性。青いカゴがカウンター上に置かれた。ビジネス書や文芸誌、新書で構成された群れに表紙が白と黒で荒々しく描かれた単行本を見つける。講談社の今村翔吾「じんかん」だ。
「お客様、この本は先月に文庫版が発売されましたが」
「え、そうなの? いまある?」
「少々お待ちくださいませ」

「こちらでございます」
「文庫もけっこう分厚いね。どうしようかな」
首を傾げて考え込む。ついでに後ろで待つ人たちが自分だったらと想像してもらえるとありがたい。
「内容が変わったとかある? だいぶ加筆されたとか」
「たぶんないです」
一応どちらも読んでいる。文章の細部までは覚えていないが、少なくとも伊坂幸太郎の恐妻家小説みたいなことにはなっていなかった。
「ただ文庫版には北方謙三さんの解説が付いています」

またフリーズしてしまった。
「……北方って八犬伝を書いた人だよね?」
「いえ、水滸伝です」
「南総里見八犬伝」の著者は曲亭馬琴だ。10月に公開される映画の原作を書いたのは山田風太郎で、角川文庫から上下巻が出ている。そして「水滸伝」の原典を書いた人は他にいて、北方版は半ば別物に近い。しかし話がややこしくなって会計が長引くと困るので流した。
「うん、だからあの人でしょ」
だから、の意味がわからない。
「じゃあ文庫にしよう」

丁寧にカバーをかけ、背表紙が隣り合うようにして紙袋へ詰めた。
「あなた『じんかん』読んだの?」
「読みました」
「どうだった?」
「ウクライナやパレスチナのことを考えました」
「なんで? 戦国期の日本が舞台でしょ」
本を取り出す時間はない。前後の地の文を見せてネタバレになるのも避けたい。530ページ。そこにこんなセリフが書かれていたと告げる。

「誰かが高笑いしているこの世の片隅で、今日も誰かが泣いている」
「お主たちも大切な者を、何の罪もない者を不条理に失ったことがあろう。神や仏がいるならば何をしているのだ……」

おそらく伝わっていない。だが読めば気づくはずだ。世の不条理を耐え忍ぶすべての人に勧められる名作だと。

「神や仏がいるならば、俺たちの時給をせめて10円でも上げてほしいですね」
クレジット端末のロールを交換しながら同僚が隣でつぶやく。彼は間違っていない。我々はどちらも3時間連続レジとサービス早出及び残業の常連なのだ。

出版不況? 本が売れない? 冗談はやめてくれ。こんなに身体張ってるんだぜ。文化を守れ? 余計なお世話だ。現在進行形で本屋の文化を守っている「じんかん」は後ろで理屈ばかり唱えるアンタらじゃない。知行合一。最低賃金の最前線で踏ん張る非正規雇用の俺たちだ。

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