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音が物語るもの 台所のおと 幸田文

女はそれぞれ音をもってるけど、いいか、角(かど)だつな。さわやかでおとなしいのが、おまえの音だ。料理人の佐吉は、病床で聞く妻の庖丁の音が微妙に変わったことに気付く……。音に絡み合う、女と男の心の綾を、小気味よく描く表題作。ほかに、「雪もち」「食欲」「祝辞」など、全10編。五感を鋭く研ぎ澄ませた感性が紡ぎ出す、幸田文の世界。

Amazon商品ページより

確か角田光代氏の書評エッセイで読んで、これはまだ読んでいなかったなあ、と購入した1冊。表題作と合わせて10編が収録された短編集だ。
どれもしみじみとした味わいの作品で、派手さはないが幸田文らしい、情緒と芯の通った作品ばかりだ。
表題作、『台所のおと』は小さな料理屋を営む夫婦の物語だ。料理人の佐吉は病に伏せっている。歳の離れた妻のあきは、佐吉に変わって台所(厨房などと書かないところに幸田文らしさを感じる)立ち、料理屋を切り盛りしている。
佐吉の病はたちが悪く、病みついたままそう遠くないうちにいけなくなるだろう、と医者から言われているが、本人にはそれは告げられず、あきが1人心の中に抱えているのだ。
佐吉に自分の心の動揺を知られまいと、以前よりも密やかな音をさせながら台所に立つあき。その音の違いを敏感に感じ取る佐吉。悟らせまいとする女と、何かを悟っている男と。
佐吉はあきが冷や冷やするような事を言い、自分の命の行く末を知っているのではないかと思わされるが、はっきりしたことは描かれない。
それは他の作品にも共通することなのだが、おそらくこうだろうと読み手は容易に推測できるが、そのものずばり、は描かない。このたっぷりと水を含んだものからぽつりぽつりと滴り落ちるような淡い情緒が幸田文の持ち味ではないかと思う。
佐吉のあきを思う気持ち、あきの佐吉への気遣い、そして重いものを抱えたあきの辛さ、そうしたものが静かな文章から滲み出てくるのだ。
その2人を繋ぐものとして台所の音を選ぶところがまた秀逸だ。
佐吉に行末を知られまいとすればするほど密やかになっていくあきの音、動揺を抑えようとすればするほど、それまでのあきの音とは違ってしまうのだ。細心の注意を払っても、佐吉はそれを聞き分けてしまう。この2人のやりとりはおだやかで何気ない風でありながら、スリリングでもある。そしてどちらも決定的なことは何一つ言わないところに、互いの思いやりと愛情を感じるのだ。
死を見つめる2人と対比するように、手伝いの若い女初子と出入りのさかなやの秀雄が生き生きと描かれる。死と生、それすらもさりげなく描く幸田文の上手さが光る。
佐吉はあきが立てる自分が教えた音を聞きながら、あきと一緒になる前に暮らした2人の妻を回想しする。どちらも佐吉がいいとは思えない音を立てる女だった。それももはや滑稽な思い出に変わった今、あきの立てる音に佐吉が安らいでいることが感じられる。そして春雨の湿やかな音を聞きながら、その日のあきの音を褒め、そしていつもより沢山話すところで物語は終わる。
これから、佐吉とあきが最後の時をどう迎えるのか、描かれてはいないがおそらくは今と同じように、互いを案じながら思いやりあいながら、静かにその時を迎えるのだろうと思わせる。
表題作の他に収録されている短編も同じような静かな味わいに満ちている。
幸田文が書く物語の時代は戦後なのだが、その情緒から時代小説のように感じるものが多い。昭和を描いているが、江戸の町場の暮らしを思わせるような、粋さを感じるのだ。道具立てや言葉が古臭いわけではない。彼女の文章から匂い立つように漂うその情緒がそうしたものを感じさせる。
父、幸田露伴の影響と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、やはりその時代を知る人々の間で育った露伴がその身にまとっていた江戸の名残を幸田文も受け継いだのかもしれない。武家だからこそ、色濃く残るものもあったことは『父・こんなこと』でも見て取れる。露伴に家事から何から仕込まれた文にとっては、そうした情緒は当たり前に日常の側にあったのだろう。
この独特の情緒が幸田文の魅力だと思う。じめじめとしたものはなく、淡々と冷静に人というものを見つめて描いていながら、そこから滲み出るものが読み手の心にひたひたと染み込んでくる。そしてその染み込んできたじんわりとしたものを噛み締め、読み終わった後にしばらくその本を手にしたままふわりとその世界に漂うような読後感を与えてくれる。
余韻の残る本は他にもあるが、このなんともいえない噛み締めるような読後感は幸田文独特のものだろう。
久しぶりに読んだ幸田文だったが、やはりこの独特で幸せな読後感に浸ることのできる1冊だった。

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