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空色のダイヤモンド

 世界には空に穴の空く場所があって、その穴の中には空色をしたダイヤモンドが眠っている。
 だからおれはそのダイヤを掘りに行かねばならない。
 あなたはそう言ってこの街を出ていった。もう十年前のことになる。
 十年前というと、わたしはまだ女子高生で、あなたの話す夢のようなホラ話を無邪気に笑って聞いていられる年頃だった。
 百匹のテントウムシがスズメバチを撃退する話とか、示したところを掘ると必ず財宝が出てくる、賢い犬の話とか、人の影を食べて生きる恐ろしい怪人の話とか。どれもこれも夢とうつつの間を彷徨うような、ありそうでありえない話ばかりで刺激的だった。
 あなたと出会ったのは映画館だった。あのとき見ていたのはひどく退屈な映画で、海賊や海軍の話だったと思うけれど、それさえ定かでない。とにかくあくびが出るほど退屈だったことを覚えている。
 その退屈な映画に、あなたは涙を流して、エンドロールが流れると立ち上がって拍手さえした。寝ぼけ眼をこすっているような人が大半だったから、信じられないものを見るような視線を、一身に集めていたっけ。
 わたしはまたあなたに会えるんじゃないかと、あの映画館に来ている。相変わらず退屈な映画ばかり流している。違うのは、あなたがいないことだけ。
「あれ、久永さん?」
 声がして振り向くと、職場の同僚の北島くんがポップコーン片手に立っていた。
「久永さんも映画好きなの」
 北島くんはぎこちない笑みを浮かべていた。職場では寡黙な人で、自分から声をかける方じゃないのに。緊張感が伝わってきて、わたしも思わず背筋を正してしまう。
「うん、まあね」と大して好きでもないのに、なんだか照れくさくて、そう答えてしまう。
 北島くんは熊のような人だ。といっても、獰猛な熊という側面はない。元水泳の選手だっただけあって上半身には筋肉がついて、肩幅もがっしりしているのに、人のよさそうな穏やかな顔をしているから、熊、というよりはくまさん、だろうか。そんな印象をもってしまう。
 ちなみにわたしは小柄で、りすに似ていると言われる。りす以外にもげっ歯類の小動物に似ている印象を与えるのだとか。そんなにせかせかと忙しなくしているのだろうか。そんなつもりはないのだけれど。
 北島くんはあなたとは正反対。あなたは痩せぎすで、ひょろりとしていて、風が吹けば飛んでいきそうだった。わたしは最初あなたのことを心の中で一反もめんと呼んでいたのだ。
 共通点もある。それは、映画が好きだということ。それも、誰々監督がこうだ、とか、あの役者は、とか通ぶった知識をひけらかす愛好の仕方ではなく、映画の内容はもちろんだけど館内の雰囲気、人の身じろぎの音、ひそひそと話す声、笑いどころでこぼれる笑い声。そうしたものをひっくるめた、いわば映画館を愛していたところだ。
「北島くんはよくあの映画館に行くの」
 北島くんと出会って、二人で映画館を出たら自然と二人の帰路になった。こういうとこも、あなたと似ている。
「休みのたびにね。あの映画館、普通の映画館じゃ上映しないマイナーな作品も上映してくれるから。ハリウッドの大作もいいけどさ、おれはああ、映画を見たな、って思える一本が見たい」
 わたしがくすくすと笑うと北島くんは赤面して視線を泳がせながら、「変なこと言ったかな」と頭を搔いていた。
 ううん、違うの。とわたしは首を横に降った。
「昔似たようなことを言った人がいたなって」
 北島くんは途端に真剣な表情になり、「久永さんの彼氏?」と言葉にすることすら恐ろしいものののようにおずおずと口にした。
 わたしは空を見上げてうーんと首を傾げる。空は青地に朱色を重ね塗りしたような色合いだったけれど、どこにも穴は見えない。
「たぶん違うと思う。わたしの片思いだったのよ、きっと」
 好きだ、と言われたことも言ったこともない。ただ、お互い時間と空間を共有していると心地よかったというだけ。空色のダイヤのために簡単にわたしを置いていってしまうくらいだから、彼は好きでもなんでもなかったに違いない。
 結局北島くんにはわたしのアパートまで送っていってもらった。わたしは部屋に入るふりをして隠れて見ていると、彼は歩いてきた進行方向に沿ってしばらく歩き、周囲を伺ってわたしの目がないことを確かめると、走って来た方向へ戻って行った。おそらく、北島くんの家とわたしのアパートは、まったく方向が違ったのだろう。そういうところも、似ているなと思った。
 部屋に帰ると愛猫のリックが出迎えてくれたので、彼を抱き上げて頬ずりをすると、「ただいま」というわたしの声に応えるようになあん、と鳴いた。
 浴槽を洗って、湯を張っている間にリックに餌をやり、洗濯物をとりこむ。ちょっと小腹が空いたので食パンをちぎって、いちごジャムを塗って頬張る。
 そうこうしていると湯が溜まるので、服を脱いで、下着を洗濯ネットに入れて洗濯機に放り込む。
 まず頭からシャワーを浴びて、火照った熱を洗い流すと、湯船の中に体を沈める。
 あなたのことを思い出すのは久しぶりだった。見た映画のせい? 北島くんからあなたに似た匂いを感じたせい?
 いずれにしてもいいことだとは思えなかった。空色のダイヤを求めて去っていった人なんて、とわたしは湯桶に何度も湯を汲んでは頭に落として考えを洗い流そうとした。
 あなたなんて、浴槽にこびりついたカビみたいなものよ、と湯を被り続けるけれど、そうすればするほどカビのようなあなたは色濃くなっていくのだった。
 湯を出ると、下着とTシャツだけ身につけて、電気を消して窓辺に腰掛け、コーラを飲んだ。夕暮れの濃い闇がスカートとなって、わたしの体を覆い隠してくれた。
 窓の外には大きな通りが広がっていて、二つの目をぎらぎらさせた車たちが押し合うようにして行き交っていた。歩道には仕事終わりのサラリーマンや部活帰りの学生ががやがやと通り過ぎ、誰も見下ろしているわたしがいることなど気にもとめない。
 夕闇の涼やかな風を受けながら、わたしは窓辺に置いておいた読みかけの文庫本を手に取る。
 あなたはドストエフスキーは読むな、トルストイを読めと言った。でもわたしはどちらも読んでいない。それらはわたしが読みたい本ではないし、読まなくても生きていける。生きていけるということは、糧にはならないということだ。
 わたしは読まずにいれば命を落とすような、読むことに餓えるほどの本を探している。そればかりはあなただって知らないだろう。きっと、わたしにとっての空色のダイヤが、そうした本なのだ。決して見つからないもの。
 文庫本を読んでいてあるページで手が止まり、わたしはそのページに書かれた一文を何度も何度も読み返して、咀嚼して嚥下して、それが書かれたページを衝動的に、だが丁寧に破いた。
 破いたページを何度も折り、先端が尖った、シャープな造形の紙飛行機を作ると、コーラを飲んで水滴で湿った手で胴体を摘み、そっと棚の上にでも載せるようなつもりで空に差し出すと、紙飛行機はふわりと浮かび上がり、風を得てすーっと滑り落ちて行った。
 やがてわたしには見えないところまで飛んで行って姿を消すと、コーラの残りを喉を鳴らして飲み干した。
「あなたが思い出したとき、それは既に失われているのである」
 本にはそんなことが書いてあった。あなたのことを思い出したばかりだからぞっとした。大きなお世話、と思って紙飛行機にしてやった。
 夢を見た。会社に行くと、北島くんがみんなに囲まれていて、口々に祝福の言葉をかけられている。なんだろうと思って覗いてみると、北島くんの手には空色のダイヤモンドがあって、わたしの姿を見つけると嬉しそうに手を降って、「久永さん、やりました。見つけたんです。空の穴」と言った。
 なぜ、北島くんが空の穴を知っていて、それを見つけたと言うのか。わたしには違和感しかないけれど、みな平然として受け入れて喜んでいる。北島くんが見つけたのなら、彼は。あなたはどうしたの、とわたしが半ばパニックになっていると、北島くんが近づいてきて顔を覗き込んだ。
 わたしはその顔を見て悲鳴を上げた。北島くんの顔半分があなたになっていて、それが違和感なく溶け合っていて。声も半分半分。
 でも、半分があなたなら、訊いてやれ、と思い直して、きっと睨みつけて言った。
「どうしてわたしを置いて一人で行ったの」
 半分の北島くんはわたしの睨み顔に恐れをなしてきょときょとと目を動かしていたけれど、あなたは動じず、真っ直ぐにわたしを見返した。
 それでああ、罪悪感なんて抱いてないんだな、わたしはその程度の存在だったんだなと悟った。
「お前はまだ子どもだった。おれは一刻も待てなかったんだ。空の穴を探さなければ、そう思った」
 ひどいことだ、と北島くんが嘆いた。
「わたしが大人の女だったら」
 無意味な問だ。もしもだったら。可能性の話なんか、いくらでも繕える。男は特に。現実の嘘は下手くそなくせに、夢見るもしもの話になるととたんに巧妙になる。女にいいように夢を見せてその気にさせ、結局は裏切るのだ。
「連れてはいかん。危険な道のりになる」
 でも、あなたはそういうもしもの嘘すら下手な、本当に不器用な人だった。ホラ話は得意なくせに、自分のこととなると途端に嘘がつけなくなる。
「あなたは今、どこにいるの」
 あなたが腕を組み考え込むと、もう半分の北島くんが「言ったらどうなんだ」と咎め立てするような声で言う。
「もうおれを待つな。おれは帰らん。空の穴に吸い込まれちまった」
 それってどういうこと、とわたしが詰め寄ると、あなたはひらりと身をかわして、「忠告したぞ。彩。幸せになれよ」と言い捨てると夢の闇の中へと沈むように消えていってしまった。
 目を覚ましてもやもやした気持ちのまま着替えて出勤すると、夢と同じように北島くんがみんなに取り囲まれていた。
 ぎょっとしながらも近づいてみて、北島くんの半分があなたではなかったことにわたしは安堵し、戻ろうとした。
「いやあ、北島くん、栄転おめでとう」
 栄転、と近くにいた女性社員に訊くと、辞令が出て、北島くんが東京の本店に異動になったという。本店への異動、すなわち出世コースにのったことをこの会社では意味する。
 北島くんは寡黙だがコミュニケーションは下手ではないし、仕事ぶりも堅実で実直なので、評価されてしかるべし、といったところなのだが。
 一抹の寂しさが去来したのも事実だった。あなたに似た、でも違う人。これから仲良くなれるかな、という期待をもっていただけに、その機会が失われるのは残念だった。
 あの夢は、暗示だったのかもしれない。わたしの手からこぼれ落ちていく人たちをわたしに教えるための。
 わたしが踵を返してその場から離れようとすると、北島くんが珍しく焦った様子で大声で呼んだものだから、フロアの注目がわたしと北島くんに注がれて、わたしは顔が朱に染まるのが自分でも分かった。
 北島くんは慌てて駆け寄ってきて、わたしの前に立つと、わたし以上に顔を真赤にしていた。
「久永さん。順番が滅茶苦茶で申し訳ない。おれに、ついてきてくれませんか」
 そういう関係、という声が漏れ聞こえてきて、わたしは必死に否定したかったけれど、周囲の声よりも北島くんの真摯な想いにまずは答えたいと思った。
 やはり北島くんはあなたとは違うと思った。あなたならこんな人目を憚らずに自分の想いを告げたりしないし、何より自分の夢の道のりにわたしを連れて行こうだなんて考えなかった。
 だからわたしは、とうとうあなたに別れを告げるときが来たんだなと思った。正確には、わたしの中のあなたに、だけど。
 あなたへの想い、に別れを告げたら、心のなかにぽっかりと穴が空いて、その穴があっという間に消えると、穴は青い空の中に現れた。
 誰もその穴が見えていないようだった。わたしだけに見える、空の穴。あの中にはあなたがいて、空色のダイヤモンドを探している。でも、わたしはついていかない。あなたには、ついてこいと言われなかったもの。
 ふと我に返ると、空の穴は消えていた。その代わりにわたしの前には、北島くん、あなたの真剣な、でも照れくさそうな顔があるばかりだった。

〈了〉

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