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四姉妹の話~緑(ヴェール)~

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■本編

 私は再び老人の家の戸口に立っていた。
 相変わらずその住まいはひっそりと静まり返っていた。静かに降る雨の音だけが広がり、家はこうべを垂れた老人そのもののように、疲れ切って見えた。
 雨の日、老人は散歩に出ない。戦争の古傷が痛む、とかで外出したがらず、安楽椅子の上で終日を過ごす。
 今日はリュヌも来ていないようだった。娘と見紛う老人の孫の男は、甲斐甲斐しく老人の世話を焼いていたけれど、毎日来ているわけではなかった。
 私は幾ばくかの落胆を覚え、出直すか、とも考えたけれど、老人の他の娘の話が聞きたくて、結局彼の住まいの呼び鈴を鳴らした。
 どうぞ、という声が聞こえて私は扉を開け、家の奥に向かって「ブルームです。お邪魔しますよ」と声を張り上げて言い、玄関を上がった。
 老人はリビングの奥、掃き出し窓のそばに置かれた安楽椅子に腰かけてパイプをふかしていた。肺によくないから、とリュヌは止めていたが、老人は「老い先短い老人の楽しみだから」と主張して止める気配を見せなかった。
「おお、ブルームさん。よくお越しくださいました」
 老人は嬉しそうにぱっと顔を輝かせると、肘掛けに手を置いて立ち上がる素振りを見せたので、「そのまま、お構いなく」と手で制して、老人の斜め前方に置かれたソファに腰を下ろした。
「いや、申し訳ありませんな。今日はリュヌが来ておりませんで。お茶もお出しできない」
 老人は灰皿にこつこつとパイプの灰を落として、慇懃に頭を下げた。
「もし差し支えなければ、私がお茶を淹れてきましょうか」
 食器や茶葉の場所は把握している。お茶を淹れるぐらい造作もない。老人が話をするのに、何も喉を潤すものがないのでは可哀想だ。
「いや、ブルームさんにそこまでしていただくわけには……」
「かと言って、飲まず食わずというわけにはいかないでしょう」
 ううむ、と老人は今日は髭も剃っていないのだろう、白くまばらに伸びた無精ひげの生えた顎を撫でながら考え込むと、「お願いしてもよろしいかな」と顔を上げた。
「お安い御用です」
 私は立ち上がりキッチンに向かう。食器棚からティーカップとポットを取り出すと、湯を沸かした。
 それから食器棚の下の戸棚からクッキーの缶を見つけたので、皿に並べて出す。オーソドックスな円形のクッキーで、中心にラズベリーらしきものがのっていた。
 湯が沸くとカップに注いで温め、ポットの中に紅茶の茶葉を入れて湯を注ぐ。しばらく煮だすと、カップの湯を捨てて代わりに紅茶を注ぐ。ガーネットのような色合いの紅茶は、私の顔を赤く染めて映し出していた。
(他人の家で茶を淹れているとは)
 自嘲して笑った顔が紅茶の表には映っていた。
 紅茶とクッキーの皿を銀のトレイに載せて運び、老人の前に並べる。私はテーブルセッティングが終わると、壁に近付いて壁面にかけられた四枚の娘の写真の内、緑の髪をポニーテールにした、聡明さと快活さが同居したような笑みを浮かべる娘を選んで外した。ソファに腰かけ、老人にそれを差し出して、「今日はこの娘さんのお話が聴きたいですね」と彼の顔を覗き込んだ。
 老人は喜びに顔をほころばせ、「よろしいとも」と胸を叩くと、四姉妹の話を始めた。

 四姉妹の三女、名はヴォン。彼女は風竜の峡谷と呼ばれる土地に住んでいた。
 そこは風を司る竜が住むと言われる天嶮の要害で、二つの大国に挟まれた地でもあった。大国に挟まれつつもどちらの国にも属さず、長い間独立を保って来られたのは、この土地で生きる風使いと呼ばれる存在の力が大きかった。
 二つの大国が最短で行き来するには風竜の峡谷を通らなければならないが、この土地は強烈な風が吹き荒ぶこともあり、峡谷に吹く風の制御をする風使いの助力なしには互いに渡ることはできなかった。
 風使いは峡谷に生きる民にとっても生命線であり、風の吹く方向や量をコントロールして、作物が育つ環境を整えたり、民が快適な気候で過ごすことができるのも、彼ら風使いのおかげだった。
 あるとき、大国の片割れが峡谷を侵略したことがあった。そのとき風使いは風竜に祈りを捧げ、風竜の咆哮と呼ばれる猛烈な突風で戦車を砕き、兵士を吹き飛ばして戦いに勝利し、以降二つの大国は峡谷へ不可侵とする方針を定めた。
 そしてヴォンは、そうした風使いの中で筆頭の者だった。リーダーだけに許される、竜の革で作られた一品もののライディングギアを身に纏い、緑の髪を竜の尾のように振って風を操る彼女に、峡谷の誰もが尊敬の念を抱いた。
「ライネル、ちょっと竜尾扇の角度が安定しない」
 峡谷を塞ぐように聳える巨大な竜の木像の背に掴まって、鱗の一枚一枚の角度を調整しながら、ヴォンは下で作業をする若い風使いに声をかけた。
 竜の像は峡谷の要だ。この像がすべての風を制御している。そして熟練の風使いともなれば、鱗一枚の傾きで風がどこに、どれくらいの強さで吹くかが分かる。
「了解しました」、実直なライネルは足のかぎ爪の辺りで作業していたが、それを一時おいて尾の方へと回り込む。
 ヴォンは手をかざして南の空を眺める。峡谷の崖の向こうに広がるその空は晴れ渡っていたが、ヴォンには湿った風が感じられた。
(これは一雨くるわね)
 体に括りつけられたロープを手繰って上昇すると、竜の背の鱗の半分を閉じ、半分を解放する。これで風の勢いを弱めつつ、力を受け流して自然に逸らすことができるはずだ。ヴォンは下で作業するライネルに向かって声を張り上げる。
「ライネル! 竜尾扇の角度を二十度に保ちなさい」
 了解、とライネルも声を張り上げる。
 ヴォンはさらにロープを手繰って上昇し、竜の頭に辿り着く。竜の頭の調整は、風使い見習いのムーランに任せていた。そしてムーランはヴォンの娘でもあった。十六になったばかりの、反抗盛りの可愛い娘。
「ムーラン、調整は終わった?」
 上り切ったヴォンが頭の内部へと下りて声をかけたとき、ムーランは竜の舌の上に寝そべりながら本を読んでいた。
「ムーラン、どうなの」
 本に没頭しているふりをした娘に業を煮やして、ヴォンは声を荒げる。
 ムーランはちらと母親を一瞥すると、唇を尖らせて「やってないけど」と答えてふいと顔を背ける。
 母親から緑の髪を受け継ぎ、父親から漆黒の瞳を受け継いだムーランは峡谷の外の世界に強い憧れを抱いていた。それゆえに風使いたちの閉鎖的な生き方には共感できず、反発してばかりいた。
「やってないって。ここはあなたに任せたでしょう。自分の役割も果たせなくてどうするの」
 ヴォンの言葉に、ムーランはかっと目を見開いて噛みつく。
「こんなのわたしの役割じゃない!」
 ヴォンは娘のあまりの剣幕に一瞬気圧されたものの、親の威厳を見せなくては、と彼女も頑なになって、腰に手を当てて威丈高に「いい加減にしなさい!」と叫ぶ。
「あなたは風使いの娘なのよ。里を守るために、一日も早く一人前の風使いにならなきゃいけないの」
 ムーランは手に持った本を叩きつけ、「人の人生勝手に決めないでよ」と拳を握りしめて叫んだ。
「クライスに聞いたんだから。外の世界では、自分の進路は自分で決めるものだって」
「クライス……!」
 クライスは外から流れてきた若者だった。外の世界で行く当てがないということで、里の重鎮が協議して彼を里に置くことを決定したのだが、このクライス、容姿に優れていることを利用して里の様々な娘に近付き、里の旧態依然とした体制を批判したり、外の世界の素晴らしさを吹き込んでいた。そのため、娘の中には無断で里を出ようとしたりするものや、里の体制を公然と批判するものも現れ始めた。
 そのため、クライスには厳重注意がなされていたのだが、最近娘のムーランにちょっかいを出していると知り、心中穏やかならぬものがあった。そしてその危惧は悲しいかな、当たっていたのだった。
「クライスの言うことを信用してはだめ。外の世界は争いに満ちた血の世界よ。耳障りよく聞こえる言葉は、そうした世界の都合のいい一面に過ぎないの」
 クライスを非難されたことで頭に血が上ったか、ムーランの顔に朱が差した。
「お母さんには分からないわよ。外の世界に行ったこともないくせに」
 ヴォンは首を横に振って、「お母さんは外の世界からこの峡谷に来たのよ」と高圧的な態度ではなく、宥めるような穏やかな声で言った。
「じゃあ、お母さんは自分で進路を決めて風使いになったんでしょう? 外の世界の在り方に従ったんじゃない」
 ムーランはせせら笑った。完全に母親を見下した笑い方だった。
 ヴォンは咄嗟に言い返すことができなかった。代わりにクライスの危険性を訴えかけたが、これは悪手だった。
「クライスに近付かないで。彼には悪意の風を感じる。何かよくないことを考えている」
 ふん、とムーランは鼻を鳴らして、「なんでも風、風、風!」とうんざりしたように肩を竦めて首を横に振った。
「風に彼の何が分かるのよ。馬鹿馬鹿しい」
 ああ、馬鹿馬鹿しいわ、と叫んでムーランは竜の頭の中から外に飛び出し、下っていく。「ムーラン!」とヴォンが咎め立てするような鋭い声で呼ぶが、ムーランは戻らなかった。
 どうしたんです、とライネルが上がってきて問うが、ヴォンは「なんでもないわ」と首を振って疲れたようにため息を吐いて、娘が放棄した竜の頭の部分の調整に取り掛かった。
 その晩ムーランは家に帰らなかった。ヴォンは夜通しリビングで起きていて、時計の針とにらめっこをしながら娘を待ったが、その親心は報われなかった。
 何日か経ったある日、風の噂でムーランがクライスのところに転がり込んでいると聞こえてきた。憤慨したヴォンは里の長老連の元に駆け込んで、即刻クライスを里から追い出すべきだと主張した。
 長老連はヴォンの心情に理解を示しながらも、クライスの追放には賛成しかねる様子だった。
「一度受け入れたものを咎なく追放するというのものう」
「咎ならあるじゃないですか。里の体制に批判的だということ。若い娘をかどわかしているということ」
 じゃが、と長老の内最も思慮深い者が同情的な、それでいて冷ややかな調子で言う。
「この里は独裁国家ではない。体制に批判的だからという理由で追放することはできん。何を言おうとも彼の自由だ。それに、お前の娘は自ら彼の元に走ったと聞いておるよ、ヴォン」
 ヴォンは頭に血が上って、テーブルを拳で叩いた。眠そうな目をしていた幾人かの長老がびくっと体を震わせて片目をおずおずと開いた。
「そんな悠長なことを言っていて、取り返しのつかない事態を招いても、わたしは知りませんよ。クライスには悪い風が感じられる。彼は必ず何かを仕出かします」
 最も若い長老が「しかしだな」とヴォンの言葉に反論しようとするので、ヴォンもこれ以上は時間の無駄だと感じて、一座を睨みつけ、「失礼します」と言葉を叩きつけて足を踏み鳴らし、長老連の元を去った。
 ヴォンは苛立って沸騰しそうな心を持て余しながら、里の市場に通りがかった。ムーランが帰って来ず、一人ならまた肉でも買って行って簡単に夕食を済ませよう、そう考えて足を向けたとき、耳障りな笑い声が聞こえてきて、ヴォンは足が石と化してしまったようにその場から身動きができなくなった。
(――クライス)
 黄金の髪と青い瞳をもつ、褐色の肌の異国の男、クライスだった。
 クライスは果物屋の木箱の上に陣取り、里の若い娘を相手に外の世界の話をしていた。腕には紫の石をはめ込んだブレスレットをして、首からは黄金の首飾りを下げている。そして、外の世界には富が溢れていて、そうした豪奢な品物を手に入れることもできるのだと嘯いていた。
「若い子にあんまりでたらめを吹き込まないでほしいわね」
 ヴォンが前に立つと、若い娘たちは血の気が引いたようになり、蜘蛛の子を散らす勢いでその場から立ち去った。
 クライスはヴォンの姿を認めて一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔になって「なんのことです」と首を傾げてみせた。
「外の世界はあんたの言うような理想郷じゃない」
 クライスはやれやれ、とため息を吐くと、腕のブレスレットをじゃらと鳴らして手を掲げ、「単なるお話ですよ。そんなに目くじら立てる必要がありますか」とにこやかに、だが隙のない笑顔で答えた。
「ああ、あるわね。里の娘たちが信じて動揺している。それだけであなたは罪深いわ」
 ふふ、とクライスは思わず失笑して、睨んでいるヴォンを見て「あ、いや、失敬」と咳払いをした。
「ひょっとして娘さんのことで怒っているんですか?」
 クライスの挑発的な声にヴォンはかっと頭に血が上ったが、拳を握りしめて押さえて、「娘のことは関係ない」と首を振った。
「僕に怒りを向けるのはお門違いです。ムーランさんの方から僕の部屋に飛び込んできて、こちらが迷惑しているくらいだ」
「迷惑なら追い出せばいいじゃない」
 ヴォンは自然と苛立って声を荒げていた。
「いえね、そう思ったんですが、あまりに可哀想でね。前時代的な母親と里のしがらみに縛られた彼女は、蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のようです。美しいものを解き放ってやりたいという欲求は、人間誰しももつものでしょう」
 あなたねえ、とヴォンは拳を握りしめてその横っ面を殴りつけてやろうと一歩を踏み出したとき、脇から飛び出してきた影がクライスを殴りつけたので、ヴォンは振り上げた拳を下ろす場所を見失い、拳を固く握りしめたまま硬直していた。
 飛び出してきた影を見て、さしものヴォンも驚いた。影、それはライネルだった。非番ゆえに革のジャケットにジーンズの出で立ちで、颯爽と駆け付けてはクライスを殴り飛ばしたのだった。
 クライスは木箱の上から転がり落ち、口の中を切ったのか口の端から血を流して憎悪に満ちた眼差しを向けた。
「こんなことをして、ただで済むと……」
 ライネルはいてて、と殴った手を振りながら、「済まさなくていいよ」とあっけらかんとした口調で言った。
「その代わり、お前もただで済むと思うなよ」とライネルは凄む。
 ヴォンが振り返ると、市場の店主たちや買い物に来ていた他の風使いなどが怖い顔をしてずらっと並んでいた。
「みんな……」
 黙って聞いてりゃあよ、と八百屋の主人が腕まくりをして、丸太のように太い腕を見せつける。
「聞くに耐えないんだ。お前の話は」と肉屋が血の付いた牛刀を提げながら言う。
 さすがのクライスも分が悪いと悟ったか、舌打ちして血の混じった唾を吐き捨てると、足早にそこを去って行った。
「大丈夫かい、ヴォン」
 魚屋の女将が気づかわしげに言うので、ヴォンも気丈に笑ってみせ、大丈夫と頷いた。
 種ほどの大きさだった悪い予感が、どういうわけかむくむくと育ち、芽を出して蕾をつけているような気がした。心中でヴォンの不安という肥料によって育ったその花が、花を咲かせることがないといいが、とヴォンは願った。
 それから数日後、嵐が里を襲った。
 その日の風使いの当番はライネルだった。ヴォンも朝早くに風竜の像に赴き、ライネルや他の風使いと調整を行い、一通り仕上げると、風の番をライネルに任せて引き上げてきたのだが、どうしてか胸騒ぎがした。
 何か良くないことが起ころうとしている。それをヴォンの予感が敏感に察知していた。
 ヴォンはライディングギアの上にレインコートを羽織り、家を出て風竜の像を目指した。風使いたちの警告に従って、里で出歩いている者はいない。嵐であっても、風竜の像で風の調整はしているから、風雨は弱められているとはいえ、どんな不測の事態があるかも分からない。それゆえ外出禁止を里の者には申し渡してあった。
 風竜の像に辿り着くと、ライネルの名を呼んだが返事がない。不安は一層大きくなって、ヴォンは像の裏手に回った。すると岩壁の柱の下に、人の足が見えた。心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら駆け寄ると、倒れているのはライネルだった。
 ライネルは頭を岩に打ちつけ、砕いてしまっていた。体は冷え切っており、死んでから時間が経っていることが窺える。それだけなら誤って転落してしまったという解釈もできるが、ライネルの胸には刃物で突き刺したような跡があった。
(誰かが風竜の像にいる)
 ヴォンはライネルの目を閉じてやると、手を合わせた。
 腰にロープを括りつけ、像を登ろうとしたそのとき、風竜の尾、竜尾扇と呼ばれている機構が、一斉に全開放状態となった。それを見てヴォンは血の気が引いた。
(この嵐の中で竜尾扇を全開放したら……!)
 風が唸りながら荒れ狂い、竜尾扇に吸い込まれていく。風の通り道となった場所は土が抉れるほどの影響を出しながら、風を集め続けていた。この状態で竜の頭の喉を開けば、かつて大国の軍隊をも粉砕した風竜の咆哮と呼ばれる装置を起動させることになる。それが起動して、里に向かって放たれれば、里は壊滅する。
 ヴォンは必死にロープを手繰り、竜の背中を登った。
 すると、おもむろに風竜の頭がぐるりと回り、里の方を見た。
(やはり里に向かって風竜の咆哮を?)
 まずい、と背中を冷や汗が伝って流れるのを感じ、竜の背中を蹴り上がり、首を越えて、頭の中に転がり込んだ。まかり間違えれば、風竜の咆哮を一身に浴びて砕け散るかもしれない、と思ったが臆してはいられなかった。
 息を切らせながら立ち上がると、竜の頭の中にはムーランとクライスがいた。ムーランは喉の開閉装置に手をかけている。間一髪というタイミングだったらしい。
 ヴォンの姿を認めると、クライスが露骨に嫌そうな顔をし、舌打ちした。
「仕事熱心なことだ。大人しく家にいればいいものを」
 クライスはムーランの耳元に唇を寄せると、「さあ、喉を開いてごらん。それで君は自由だ」と甘い声で囁いた。
「やめなさい、ムーラン」
 ムーランとて風使いの端くれだ。喉を開けばどんな恐ろしい事態を巻き起こすか分かっているはずだった。その証拠に、開閉弁を握るムーランの手は激しく震えていた。
「お、お母さんがいけないのよ。あたしはこんな窮屈な里で一生を送りたくなんてない」
 ヴォンは娘をここまで追い詰めてしまった自分と、そそのかしたクライスを呪った。ゆっくりと深呼吸をしながら言葉を選び、口にする。
「ムーラン。そのことは、お母さんも考え直してみる。だから、絶対に喉を開いてはだめ」
 ムーランはほっと安心した表情を浮かべたが、クライスがすかさず「今だけ、喉を開かせないためだけの都合のいい口約束だ。信用するな」と毒を吹き込むので、ムーランも険しい顔になり、「信用できないわ」とヒステリックに叫ぶ。
「クライス、あなた何が狙いなの?」
「人聞きの悪い。僕はただムーランを自由にしたいだけです」
 肩を竦めて両手を挙げ、クライスはおどけてみせる。ヴォンはクライスの腰に短剣が差さっているのを認めた。恐らくあの短剣でライネルを。
 里での殺人は重罪だ。追放では済まない場合もある。確固たる証拠さえあれば、腰の重い長老連も腰を上げるだろう。だけど、その前にこの危地をいかに脱するかが問題だ。ヴォンは娘をいかにして説得するか、考えあぐねていた。どんな言葉を弄しようと、クライスがいる限りすべて言葉を毒に変えられて吹き込まれてしまう。
「ムーラン。その男がライネルを殺したのは知っているの」
 クライスの眉がぴくりと吊り上がるが、涼しい表情は崩さない。
「し、知ってるわ。だってライネルさんがいけないのよ。あたしの、あたしたちの邪魔をするから」
 ヴォンはため息より涙が出てくるのを感じた。大事に育ててきた娘が、こうも愚かになってしまったことに、怒りを飛び越えて悲しみを感じるのだった。
「ムーラン、あなた本気でそう思っているの」
 ムーランはびくりとして歯をかたかたと言わせて震え、目を逸らした。
「これ以上の問答は無用だ。ムーラン。喉を開くんだ」
 クライスが有無を言わせぬ口調で言う。
「だめよ、ムーラン!」
「やるんだ、ムーラン!」
 二人の言葉に挟まれて、深い葛藤を繰り返した結果、ムーランの正気は壊れ、叫び声をあげて蹲った。善と悪の葛藤の末、彼女は喉を開けないという選択肢を、結果的には選んだのだった。
 ヴォンが安堵したのも束の間、クライスがムーランの頬を叩いて開閉弁から引きはがすと、「ここまでくれば僕でもやれる」と開閉弁に手をかけたので、ヴォンはムーランに駆け寄って竜の頭の端まで引きずると、覆いかぶさって娘を庇った。
「さあ、これで目障りなこの峡谷も消える。自壊の咆哮を狼煙に、我が国が彼の国を制覇するのだ」
 高らかに、酔いしれたように宣言すると、クライスは喉の制御弁を捻った。
 喉が開いた瞬間、極限まで圧縮された空気が迸り、喉の前に立っていたクライスの体を打ち砕いて、頭から放射され、里の大地を削り取り、家々を粉みじんにして吹き飛ばし、生ある者たちを上空に巻き上げて叩き落とし、咆哮が通り過ぎた後の里は、ただ塵芥の荒野と成り果てた。
 ヴォンは衝撃から逃れていた。ムーランも無事であることを確かめ、頭の真ん中まで吹き飛ばされて息も絶え絶えなクライスに近付き、片膝を突く。
「あなたは間者だったのね。里の壊滅を目論む」
 クライスは微笑を浮かべて、ごふっと咳き込むと血を吐いて口の周りを伝って血が流れ落ちる。
「ムーランをそそのかして、風竜の咆哮を使わせる。それで里を壊滅させる。見事やり遂げたってわけね」
 ヴォンは口惜しそうに唇を噛み締め、拳をクライスの顔の横の床に叩きつける。
「ふ、ふふ。間もなく、我が国、の軍がこの峡谷に、殺到、する」
 クライスは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「そうはいかないわ」
 ヴォンは立ち上がり、喉の開閉弁を見やる。
「里は滅んでも風竜は滅びたわけじゃない」
 ヴォンの宣言に、クライスは目を見開き、何かを言いかけたが、そのまま力尽きて息絶えた。
 ヴォンはムーランの方に向き直り、震えている娘に優しい言葉をかけたいのに、最後まで自分はこうだ、と自嘲しながら言葉をかける。
「ムーラン。これからお母さんがすることをよく見ておいてね。あなたが、この事態を引き起こしてしまったあなたが罪の意識をもっているのならば」
 ヴォンは怯えた目で見ている娘に微笑みかけながら、喉の制御弁へと向かった。

「そ、それで。ヴォンとムーランはどうなったのです」
 私はのんびりクッキーを齧っている老人に詰め寄るようにして訊いた。だが老人は、「さて……」と言ったきり天井を見上げてぼんやりとしてしまって、答えがない。
 クライスの例を見れば、制御弁を操作した人間は唯では済むまい。ヴォンの身が無事ということは考え難いが、ムーランはリュヌのようにこの家に出入りしたりしているのではないか。
「おお、時間だ」と言って老人はいそいそと立ち上がり、カーテンを開けて西向きの窓を全開にする。
 私が訝しく思って近寄り、窓を覗き込むと、老人に袖を引かれて頭を引っ込める。
「ブルームさん。あまり頭を出すと危ないですぞ」
「危ない?」
 窓の向こうから鳥のようなものが飛んでくる。ほんの点のようなシルエットだったそれがどんどんと大きくなっていき、それが生物ではないことを悟ったときには、それは窓から室内へと飛び込み、テーブルや椅子を薙ぎ倒していった。
 飛び込んできたのは円盤に翼がついたような異形の物体で、驚くことにその上には少女が乗っていた。
 緑の髪をポニーテールにした少女はライディングギアの埃を払うと立ち上がり、ゴーグルを外す。ぱっちりとした二重に、吸い込まれそうな漆黒の瞳。まさか、と思って私が「ムーラン」と口にすると、少女は訝しそうに私を眺め、「あなた誰?」と刺々しい口調で訊いた。
「おお、ムーラン。この方はブルームさんと言ってな。ご近所さんじゃ。ちょうどお前たちの話をしておったところでな」
 ふうん、と私の頭の先からつま先まで見下ろし、それっきり興味を失うと、「あの機構の弾性が」とか「風の抵抗が」とぶつぶつ呟きながら円盤状の物体を抱え上げ、「おじいちゃん、地下の作業場借りるね」と運んで去ろうとするので、私は訊かずにはおれないことを口にした。
「ムーラン、お母さんは、ヴォンはどうなったんだい」
 ムーランは「はあ?」と怪訝さと不審さが混じった表情で私を見ていたが、やがて老人を一瞥するとすべてを納得した、呆れた表情になる。
「無事よ。元気も元気。里の復興に尽力してるわ」
 他人事のように言うので、私はヴォンの気持ちになって若干むっとしながら、「君はどうなんだい」と突っかかるように訊いてしまうが、ムーランは別段気分を害した様子もなく、苦笑した。
「あたしは追放された身だから。もう里には帰れないわ。だからせいぜいおじいちゃんのところで好きなことをやってるってわけ」
 もういいかしら、とため息交じりに言われるので、「ああ、ありがとう」と私も素直に頭を下げて地下に向かう彼女を見送った。
「あ、ブルームさんいらしてたんですね」
 ムーランと入れ替わりにリュヌが買い物袋を提げてやってきたので、「どうも」と頭を下げる。
「ああ、ムーラン、また部屋を滅茶苦茶にして」
 リュヌは呆れ顔になって、そうした顔を見せたことを恥じたのか、ばつの悪そうな表情を浮かべて、「すぐ片付けますね」と下がっていこうとするので、「私も手伝おう」と追いかける。
「ありがとうございます。お礼にお食事を召し上がっていかれませんか」
 私は願ってもない申し出、と「よろしければぜひ」とリュヌの背中に向かって言った。
 そうして部屋の片づけをした後で、私は夕食のご相伴に預かったわけだが、リュヌの料理の腕と気配りには目を見張るものがあった。それから、ムーランの知識にも瞠目するものがあった。確かにこの娘は、広い、枷のない大空で生きるべきなのかもしれないと思った。
 ああ、楽しい時は、あっという間に過ぎてしまうのだ。

〈了〉


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