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カメリア~紅蓮~

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■本編

「椿、着替え終わったか」
 ノックもせずに扉が開けられ、その向こうには着物姿で腕組みをした父が立っていた。椿はその無作法を咎め立てする元気もなく、ベッドに腰かけたまま、「まだだけど」と仏頂面で答えた。ベッドの上には過剰なまでにフリルのついたどぎついピンクのドレスワンピースが広げられていた。
 父はため息を吐くと、「先方がお待ちだ。急ぎなさい」と言ってドアを閉めようとした。
「今のお父さんを見たら、お母さんは何て言うかな」
 矢島家から贈って寄越した、押し付けられた悪趣味なワンピース。母が生きていたら、その趣味の下品さを笑い飛ばしてくれて、矢島家に対して軟弱な姿勢しか示さない父を𠮟りつけてくれただろうに、と椿は思う。
「家の問題だ。母さんも分かってくれるさ」
 嘘よ、と椿は叫ぶ。自然と涙声になって震えてしまう。何を悲しんでいるのか、椿にはよく分からなくなっていた。父の中で歪められた母の像にか。この理不尽をともに分かち合ってくれるはずの母の不在にか。それとも、娘を生贄にすることに何の迷いも見せない父親への失望にか。
 一週間前、高校に椿の退学届けが提出された。椿は珍しく学校に顔を出し、けれどクラスにいられずに保健室に足を運んでいた。そこへ担任がやってきて、父親から退学届けが提出されたことを告げられ、担任の後ろから現れた屈強な黒服の男たちに半ば攫われるようにして車に乗せられ、矢島家に連れて行かれた。養護教諭は最後まで椿を放すよう抵抗してくれていたが、何かを担任から耳打ちされ、蒼白になって諦めてしまった。
 連れて行かれる車中で、椿の頭に過ったのは「結婚」の二文字だった。半ば諦めそうになっていた椿の心には、会ってみたらいい人かもしれない、という蜘蛛の糸のような希望が芽生えたが、燕の子どもを巡る話を思い出して、やはり結婚なんてありえない、と決意を新たにするのだった。
 矢島家に連れて行かれた椿は、大人しくしていたら相手の思う壺だ、と考えうる限りの抵抗をした。矢島家で用意した高価そうな着物の上にお茶をぶちまけたり、置いてあった香炉を放り投げて部屋を灰塗れにしたり、用意された食事の膳をひっくり返したりして、矢島家には相応しくない女だ、ということを示そうとした。
 だが、大奥様と呼ばれた老年の、厳格そうな面持ちの女は、その惨状を見ても眉をぴくりと動かしただけで、表情を変えるでもなく、冷たい声で「燕さんと違って威勢のいい子ですこと」と嫌味を言って下がった。それと代わるように再び黒服たちが現れ、椿を車に押し込むと椿の家に連れて行き、出迎えた父を散々痛罵した後で、「一週間やる。その間に覚悟を決めさせろ」と言い捨てて立ち去った。
 それから一週間、椿を説諭しようとする父の言葉に耳を塞いで過ごしてきた。父は時に怒りのままに椿を罵ったり、哀願するような涙声で訴えたりしたが、椿は些かも心を動かされなかった。父はもはや敵なのだ、とベッドの上で膝を抱えた椿は燕の笑顔を思い出していたが、スマートフォンも取り上げられ、外部との連絡手段がない今、声を聴くことすら叶わなかった。
「お父さんの中のお母さんは随分都合がいい存在みたいね」
 椿が嘲るように言うと、それに応えるように父は冷笑を浮かべ、「それは椿の方だな」と言い捨てる。
「どういうこと」
「母さんは秩序を重んじ、なにより和を求める人だった。本家との間に波風をたてようなどとは考えなかっただろうよ」
 椿はきっと父親を強く睨みつけ、「娘がこんなに拒絶しているのに?」と挑むように問うた。
「それが定めだからな。いつか誰かと結婚するのだ。それが今……と言っても、形式上は数年後だが。まあ今と言っていいだろう。今で、本家が相手というだけのことだ。大差あるまい」
 椿は一瞬誰と話しているのか見失いそうになった。目の前にいるのが父親だと認めることを、心が拒絶した。父の汚らわしさを、心から嫌悪した。
 向かい合っていることすら厭わしかった。自分の父が。そして自分の運命が。
 椿はベッドから降りると、枕の下に隠してあった鋏を取り出し、着るよう命じられていた悪趣味なドレスワンピースに何度も刃を入れ、父親が制止するのも聞かず無惨に切り裂いた。そしてそのワンピースを父親に投げつけ、「あんたが着たら? お似合いよ、きっと」と嘲笑して鋏を突きつけた。
「お前、親にこんなことを」
 ワンピースを引きはがしながら呻く父親に、「もう親だとは思わない」と言って体当たりを食らわせた。
 父は体当たりの衝撃で足がもつれて尻もちを突き、痛みに腰をさすった。
「子どもの幸福を願えない親なんか親じゃない。願い下げよ」
 椿は鋏を父の足の間の床に突き立て、そう言い捨てて階段を降りていく。父は何かをわめいていたが、椿はもう耳を貸すつもりはなかった。
 外に出ると、車で黒服たちが待ち構えていた。車から降りてきて、「用意した服はどうした」と強面の一人が声をかけてくるので、椿は「あんたたちとは行かないわ」と宣言して家の前の門を馬飛びの要領でひらりと飛び、道路に転がって着地すると、心の中で「ようい、どん」と空砲を鳴らして駆け出す。
 待て、と黒服が叫ぶが、椿は構わずぐんぐんと速度を上げる。
 走れる。わたしは走れる。結婚なんて必要ない。この二本の足で立って、生きていけるのだから。家というしがらみに寄ってしか生きていけない人たちのことなんて、この足で振り切って生きてやる。
 後ろから車が追いかけてくるのが分かった。椿は振り返ることなく、車では入り込むことのできない小路に曲がり、転がっていた青いポリバケツや、そこからこぼれた生ごみを漁っている猫を飛び越えると、速度を緩めることなく駆け抜けた。
 小路を抜けて坂道に差し掛かり、下ろうと足を向けたところで、下から車が回り込んでくるのが目に入り、椿は舌打ちして坂を上る。
 どうしても上り坂では速度が落ちる以上、車があっという間に迫ってきて、窓から黒服が「止まれ」と叫んでいた。椿はそれにあっかんべーをして構わず走り、市立図書館の前まで辿り着くと、図書館の敷地の方に入り込む。行き過ぎた車は慌ててバックをして、後続車にクラクションを鳴らされながらも、図書館の駐車場へと乗り入れる。
 椿は図書館に入るように見せながら、脇の、使われていない通用路の方に進み、穴の空いたバケツやらブラウン管のテレビやら、パイプ椅子が転がった砂利道を駆け抜ける。ここを抜けて、塀を越えれば神社の前の道に出る。そこからさきは緩やかな下り坂だ。車も駐車場に乗り入れたなら、すぐには追ってこられないだろうと椿は踏んでいた。
 砂利を踏む音が後ろから響いてくる。黒服が追って来たに違いない。椿は速度を上げ、砂利を蹴散らして走ると、通用路を抜けてコンクリートの塀に辿り着き、塀に手をかけて力を込め、懸命に自分の体を持ち上げて反対側に飛び降りた。
 着地した瞬間、バタンという車のドアの音がして、目の前に黒服の男が立っていた。回り込まれた、ということを椿が悟った瞬間には、彼女は手を後ろ手に拘束され、車に押さえつけられていた。
「余計な手間、かけさせやがって」ともう一人の男が激しく息を切らせながら塀を乗り越えてやってくる。
「お前は逃げられねえ。自分の運命からな。諦めな」
 しっかし、と黒服は大きく息を吐いて、「燕と同じ逃走路とはな」と額の汗を拭いながら言った。
「え?」
 椿はまじまじと黒服の顔を眺めた。黒服は椿を捕まえたことで安堵したのか、気が緩んでいるようだった。
「燕の奴も、お前の家に挨拶をした直後逃げ出しやがってな。それから一週間両親が説得したらしいぜ。お前のことも挙げて、半ば脅しみたいなもんだな」
 だから、ともう一人の椿を押えた黒服が拘束する力を強めながら、「お前も諦めるんだな」と耳元で囁いた。
 椿は悔しさに唇を噛み締めた。結局自分一人では抗うことはできないのか。運命という荒波にもまれて弄ばれ、投げ出されるしか道はないのか、と考えていると、猛烈な速度で乗用車が走り抜けていき、ドリフトしてターンすると、黒服たちの車に向かって行く。黒服たちが動揺して叫んだところで車は急停車し、中から二人の男が降りてくる。
 男たちは擦り切れたジーンズに色あせ破れたコートと、見すぼらしい出で立ちをしていたが、眼光は鋭く、抜き身の刀のような空気を纏っていた。
「なんだ、お前ら」と黒服が平静を取り戻して凄むと、二人の男の内、小柄な男の方が、しゃがれた声で「お嬢の頼みでな」と言って、するりと黒服の懐に潜り込んで、腕を捻って投げ飛ばし、地面に転がして締め上げた。
 もう一人の黒服が椿を放し、小柄な男に向かって行くと、その間に長身のひょろりとした男が滑り込み、黒服が振り上げた拳を受け流して締め上げ、これもまた地面に転がして押さえつけた。
 椿は事の成り行きに唖然としていると、小柄な男が「おいあんた」と呼びかけた。
「車でお嬢が待ってる。ここはおれたちに任せてあんたは行きな」
「あなたたちは……」
 椿は燕と出会うきっかけとなった浮浪者の男たちに挟み撃ちにされたときのことを思い出していた。あの中にいた、一際目の鋭い、猛禽類のようだった男。その男が目の前の小柄な男だったことに気づくと、なぜ自分を助けたのか訝しくなるのだった。
「おれたちにあんたを救う道理はない。だが、お嬢の頼みだからな。家が滅びようと、浮浪者に身をやつそうと、新田の家への恩義は忘れない。それがおれたちの一族だ」
 行け、と鋭く告げられて、椿は「ありがとう」と頭を下げると車に向かって走った。
「さあ乗って、椿さん!」
 燕が運転席から助手席側の扉を開けて待ち構えていた。彼女は普段の服装ではなく、黒いウインドブレーカーに黒いキャップに手袋と、彼女には似合わない姿で待っていた。
 椿が助手席に乗り込むと、車はターンして道路に出る。椿は過呼吸になりそうなぐらい大きく呼吸を繰り返すと、燕が手を握って「怖かったですよね」と安心させようと穏やかに言う。
「でも、もう大丈夫です。あなたのことは、私が守ります」
 燕はバックミラーに目をやる。追手がかかっている様子はない。このまま遠くに逃げてしまおうとアクセルを踏む。
「今は逃げられても、いつかは捕まっちゃうんじゃ」
 椿はシートの上に足を上げ、膝を抱えるようにして、膝の間に顔を埋める。恐怖で青ざめた顔を、燕に見られたくなかった。
「大丈夫。少しだけ逃げられれば。その間に、すべて終わります」
 どういうこと、と椿がそっと顔を覗かせて赤い目を向けて訊ねると、「椿さんは知らなくていいんです」と燕は微笑みながら首を振った。その微笑が強張っているように、椿には見えた。
「これから私は法を犯します」
 燕は決然として言って、椿の方を横目で一瞥する。
「椿さん、あなたを誘拐します」

 車は市街地を抜けて田園地帯をしばらくひた走ると、やがて山道に入った。向かっている方角と道のりからして、燕は山道を抜けて隣県に出るつもりだな、ということが椿にも分かった。恐らく、どこに向かっているのか訊いてもはっきりした答えは返ってこないだろうなと椿は思った。さっきから何を訊ねても、「さあ、それは」とか「また後で」といった答えではぐらかされて、要領を得ないのだ。
「この先に知り合いのやっている店があります。今日はそこで泊めてもらう手筈になっています」
 手筈。ますます誘拐らしい、と椿はくすくすと笑う。燕も椿と目を見合わせてふっと笑う。
「着いたらこれまでのこと、これからのこと。お話しましょう」
 笑顔を引っ込めて真顔になり、「はい」と椿は頷く。
 一車線の山道を上っていく。途中対向車が来ると止まってやり過ごしたり、すれ違える位置までバックしたりして戻りながらの道のりだったため、思ったよりも時間がかかって知り合いの店だという場所まで着く頃には日がとっぷりと暮れてしまっていた。
 舗装された山道から脇道にそれて鬱蒼と木々が生い茂る砂利道を進むと、突き当りに開けた場所がある。その真ん中にあるこじんまりとした建物が店らしかった。敷地の面積の割には建物は小さく、赤茶けた外壁と西洋レンガの屋根のため、ショートケーキにのったいちごのような寂しさがある、と椿は思った。
 駐車場には他に車はなく、店の中も薄暗い。見ると入り口には「クローズ」の看板がかけられている。不安になって燕を振り返ると、彼女は「休みなんですけど、開けてもらいました」と苦笑していた。
 燕が扉をノックすると、しばらくして鍵が開けられる音が響き、ゆっくりと扉が開いた。その向こうには頬のこけた、白いものが交じる髪をオールバックに撫で上げた中年の男が立っていた。
「いらっしゃい、燕ちゃん。そっちが花嫁さんかい」
 男は人の好さそうな笑みを浮かべて、「初めまして。俺は霧谷。燕ちゃんとあんたの味方だ」と手を差し出した。椿はその骨ばった手をとって、「椿です」と名乗ると「お世話になります」と頭を下げた。
「いいってことさ。君たちのためなら、俺にできることは何でもするよ」
 燕は微笑んでゆっくりと首を横に振って、「十分よ、霧谷さん」と霧谷を慮った口調で言う。
「遠慮深いからな、燕ちゃんは。でも、今回俺たちのことを頼ってくれたのは嬉しかったよ」
「私一人では、『家』に抵抗することはできませんから」
 燕が疲れたように言うと、霧谷は手を叩いて「さあ、まずは入ってくれ。人目につくといけない」と二人を招じ入れた。
 店の中は薄暗かったが、中を見渡せるぐらいには見えた。壁際には大きな本棚が設えられて、古今の小説が数多く収められていた。部屋の角にはレコードプレーヤーが置かれていて、ブックエンドに挟まれて多くのレコードが立てかけられていたが、今はその針は動いていなかった。コーヒーの香ばしい香りがして、カウンターの奥でサイフォンが音をたてていた。
「何か食べるものを作るよ。できたら持っていくから、二階で休んでいるといい」
 霧谷は無垢材の階段を指さして、厨房に入っていく。燕に促され、椿は一緒に二階へと上がる。
 二階に上がると、ソファにテーブル、テレビと簡単な調度品だけが揃えられており、疲労困憊にあった椿はソファに飛び込み、横になった。燕はその横に腰かけ、椿の髪をゆっくりと撫でる。
「燕さん、どうして助けに来たの」
 頭を撫でられている心地よさに身を預けながら、問わずにはいられないことを忌まわしく思った。椿は表情を悟り、悟られないよう顔を背けたまま訊ねた。
「あなたを守ると、今度こそと。そう決めたからです」
 その言葉は、燕にとっては思い出したくない意味が含まれているのを、椿も察した。それでもなおそれを口にすることのできる燕の心の強さが、椿は羨ましくもあるのだった。
「でも、だからって、誘拐ってどういうこと?」
 燕は明確に首を振って回答を拒絶した。
「椿さんは今回のことを何も知らなかった。すべては私の独断でしたこと。そういう形である必要がありますから」
 燕の言葉に、椿は起き上がって激しく首を振った。そうやって子ども扱いされていたら、いつまで経っても自分の足でどこへも行けはしない。
「子ども扱いしないで。わたしだって、自分のことぐらい自分で決められる」
 父も、矢島家も、燕もみんな勝手だ。椿の意思など関係なく、自分の考えだけで、運命だと勝手に名付けてそれを押し付けていく。燕はちょっと違うが、椿を子ども扱いしているという点では同じだった。
「いいえ。あなたはまだ選んでいない。選ぶのはこれからです。そこまでは、私が連れて行きます」
「そこまでって、どこまでよ」
 すぐそこです。そう言って燕は口を噤んだ。
「だんまり、ね」と言ってソファから立ち上がると、霧谷が料理をトレイに載せて上がってきたところだった。
「まあまあ、落ち着きなよ、椿ちゃん。まずは腹ごしらえだ」
 そう言って霧谷はテーブルの上にカレーとサラダを並べ、「食後にコーヒーもあるからな」と目配せすると下りて行った。
「食べましょう」と燕は手袋を脱いで手を合わせる。椿も言いたいことを堪えて頭を掻き乱し、テーブルについて手を合わせた。
 二人は黙々と食事をした。カレーは食べていて汗をかくぐらい辛かったが、椿は水を飲みながらなんとか食べ終えた。辛かったが、味は絶品だった。濃厚で、隠し味に醤油などを加えているのか、どことなく和風の味わいがあった。
 食事が済んだ頃を見計らって、霧谷がコーヒーをトレイに載せて上がってきて、「それじゃあ俺はこれで」とコーヒーを並べ終えると言った。「ありがとう、霧谷さん」と燕が頭を下げると、「いいってことよ」とはにかんで頭を掻き、霧谷は階下に降りていき、しばらくすると店を出て行き、車の音がして、その後は静寂が水を打ったように広がった。
 コーヒーも本格的なもので、インスタントなどとは違う、豆の苦みと酸味を感じる味わいで、燕の店で飲んだコーヒーの味に近かったけれど、それとも違う、と椿は息を吹きかけ冷ましながら啜った。
 あのとき感じた味はもっとあっさりしていた気がする。懐かしさを感じる味。今は苦さが際立っている。先行き不透明な人生の苦さ。思い通りにならない現実への苦さだろうか。
「あなたには幸せになってほしい」
 カップをソーサーに置いて、燕は唐突に呟いた。
「家のことになんて縛られず、自由に。私が手に出来なかったものを。あなたには」
 燕の言葉に、椿は拳を握りしめて立ち上がった。
「わたしは、燕さんこそ幸せになるべきだと思う。あなたは運命に十分苦しめられた」
「私は……。もういいんです。今のままで。でも、あなたには将来がある」
 燕さんにだってある、と椿は叫んだ。
「どうしてあなたは自分を大切にしないの。どうしていつも自分以外の誰かのためなの。そんなあなただから、わたしは幸せになってほしいと思うのよ……」
 燕も立ち上がり、拳を握って憤りに震えている椿をそっと抱きしめる。
「優しい子。あなたは私の希望です。もし私に子どもが生まれていたら、あなたのような娘に育てたかった」
 椿は燕の胸の中ではっと顔を上げて、「もしかして子どもって、女の子だったの」と訊ねた。
 燕は悲しげに微笑んで、「ええ、そうです」と頷いた。
「あなたとは姉妹くらいの年しか離れていないけれど、どこか娘を見るような気持でした。だから、私はあなたのためなら何でもできる」
「それを言うなら、わたしだって燕さんのためならなんでも」
 言いながら、椿は母さんのような懐かしさを燕に抱いていた、と言いかけてでも口にできなかった。お互いの心の中に流れるのが疑似的な母娘の感情ということを確かめてしまったら、それ以外の感情の余地が入り込まなくなってしまうように椿には思えた。咄嗟に、その考えは躊躇いとなって彼女の口を閉ざした。
 椿自身は気づいていなかった。懐かしさの奥に熱く流れる感情のうねりを、憧れよりももっと熱っぽい、恋と呼ぶものであることを。
「今日は休みましょう。明日に備えて。話す時間は、たくさんあります」
 そう言って燕は押入れに備え付けの布団を引っ張り出してきて床に敷くと、自分はソファの上に寝転がって毛布を被った。
「おやすみなさい」、お互いに言い合って、床についた。
 椿は窓から差し込む月明かりを眺めながらしばし起きていた。追手がかからないということは、今はうまく逃げおおせているということに違いない。だが、このまま矢島家も父も黙っているとは椿には思えなかった。燕が連れ去ったということは黒服たちからの証言で把握しているだろうし、そうなれば燕の交友関係などを辿って、この山のレストランに辿り着くのは時間の問題かもしれない。
 そうなったとき、燕一人の力では黒服に抗しえないだろう。だが、燕が無策であるというのも考えずらい。何か矢島たちの注意を引くような工作を仕掛けてきているのかもしれない。
 考えていると、睡魔が千鳥足で近寄ってくるのを感じた。瞼が次第に重くなる。呼吸が整然としたものになり、深くなって眠りに落ちていく。
 夢の中で、椿は白無垢の花嫁衣裳を着させられて、控えの間で控えていた。顔には白粉を塗り、紅をさして、綿帽子を被って座っていた。ああ、結婚させられるのだ、と悟り、ここまでの格好をしているからには、年貢の納め時だと半ば諦めていた。
 すると襖を開けて一人の男が入ってくる。家紋入りの裃姿で、顔はぼやけて分からない。だが、これが夫になる矢島の当主だろうということはすぐに分かった。顔がぼやけているのに、傲岸不遜な眼差しを向けられているということがひしひしと伝わったからだ。
 矢島は椿に向かって不躾に「子どもを産め」と言い放った。「男だ。女はいらん」と続けると、椿の手を取った。その手がぬるりと湿っていて不快で、このまま犯されるのではないかと震えあがった。
 矢島が椿の着物に手をかけようとしたところで、何者かが開いた襖の隙間からひらりと飛び込み、「ぐう」という矢島の湿った悲鳴が上がって顔を上げると、長い刃、日本刀ほどの刃渡りのある刃が矢島の胸を突き破って飛び出し、胸を赤く染め上げていた。
 矢島は断末魔の声を上げ、その悲鳴が炎となり、彼の体を包んで燃え上がった。すると屋敷の方々から火の手があがり、火の粉が爆ぜて赤い飛沫となって椿の目の前を舞い、屋敷の中を暴れ回った。
 あっという間に蛇の舌のような火に包まれたその炎の向こうに、血まみれの刀を提げた燕が立っていた。燕は「ごめんなさい。あなたとはここでお別れです」と言うと、踵を返して炎の中へ消えていった。
 椿は何度も燕の名前を呼び、追い駆けようとしたが炎に阻まれて果たせず、ただ繰り返し燕を呼び続けた。
 そしてはっと目を覚まして起き上がると、ソファを見た。まだ明け方のことで、うすぼんやりとした明かりが窓から差し込んでいて、燕は眠っていた。
 部屋にあったポケットラジオを布団に持ち込んで、ニュースはやっていないかとチューニングを合わせる。果たしてニュースを報じている放送局があり、椿の知りたい情報を提供していた。
「……日、昼頃、……市、矢島さん宅から火の手が上がっていると近所の方から通報があり、消防が駆け付け、五時間後に鎮火されましたが、焼け跡から矢島……さんらと見られる遺体が発見され、警察では遺体には拘束されていた跡があること、不審な女らが直前に目撃されていることから、殺人事件として捜査しており……」
 椿は布団の外に人の気配を感じ、はっとして顔を出すと、そこには燕が悲しそうな表情で立っていた。
「知ってしまいましたね。だから、ここでお別れです」
 どうして、と椿は跳ね起きる。
「知ってしまったことを知らないふりができるほど、あなたは器用ではないでしょう。あなたは完全な被害者でなければならないんです」
 だから、と燕は続ける。
「ごめんなさい。あなたとは、ここでお別れです」
 椿はその言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。どこかで聞いた言葉、と思って、夢の光景を思い出す。夢の中の燕には決して手が届かなかった。でも、現実の燕はまだ手の届くところにいて、このまま手をこまねいていれば夢と同じ結末になることを悟った。
 椿は懸命に手を伸ばして、燕の肩を掴んで抱き寄せ、けっして離さないよう力強く抱きしめた。
「椿さん……?」
 燕は困惑していたが、かといって振り払うこともできなかった。やがて駄々っ子を見つめる母親のような目になり、椿を抱きしめ返して頭を撫でた。
「あなたは自分を大切にしないから。わたしがその分大切にする。だから、共に生きましょう。運命も罪も、すべて二人のものとして」
 椿は目から涙を溢れさせ、声を震わせながらそう告げた。
「椿さんは、もう自由なんです。私のことを忘れれば、幸せになれるんですよ」
 諭すように言う燕の言葉に、椿は胸の中でいやいやをする。
「わたしの幸せはここにあるの。あなたといること。それがわたしの幸せ」
 困ったお人ですね、と燕はため息をつく。
「あなたの無垢な心を嬉しく思います。だから、あなたがその感情の意味に気づくまで、私はそばにいます」
 感情の意味って、と椿が訊き返すと、燕は困ったように笑って、「いつか知るでしょう」と頭を撫でた。
 曙光が二人を包んだ。燕は顔を上げて、涙をつつと一筋流し、声にならない声で「ごめんなさい」と呟いた。その燕を、どこかへ飛び去るのを恐れるように、椿はしがみついて抱き締めていた。
 燕が誰かに捕まるくらいなら、そのときには自分は燕と共に死ぬことを選ぶだろう、と椿は思った。かつて屋敷を焼いた新田霜造が娘のツバキに殺され、そのツバキも自死したように、燕を殺し、自分も死ぬだろうと。そのために、自分は椿という呪わしい名を与えられたのだと。

〈了〉

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