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写真小説家~小説家の追憶~

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■本編

 そのホールは古びていた。あちこちの壁に雨だれが見られたし、床のカーペットはすり減って薄くなっていた。扉の金具には錆が目立ったし、照明もどことなく薄暗い。だが、そんな雰囲気を含めて、私はそこに懐かしさを感じずにはいられなかった。
 私が子どもの頃過ごした街にも、こんなホールがあって、そこでは旬の過ぎた映画を流したり、幼稚園児の頃にはそこで歌の発表会なども行った。ある年齢までは生活の隣に携わっていたようなホールだったが、中学生くらいになると、映画を見るなら大きな街の映画館まで出たし、ホールで発表会をすることもなく、いつしか忘れられていった。
 そのホールに近しい存在感を、私はここに感じていた。
 平日の昼間、イベントのないホールは人気がなく寒々しく、外は例年よりも暖かい五月の陽気だというのに、冷えた空気が私を包んで中に引っ張り込むように感じた。
 ロビーを抜けて階段を上がり、ホワイエに入ると、円形の劇場への扉が一か所だけ開いて、そこから橙色の明かりが漏れ出ていた。
 中に入ると、舞台にはピアノが一台置かれていて、一人の女性がピアノを弾いていた。以前写真小説を書いた歌手、ウタテがそこにいた。歌だけではなく、ピアノの腕前もなかなかなのだなと感心していると、ウタテは私の存在に気づき、演奏を途中でぴたりと止め、にっこりと笑んで手招きをした。
「今日は一体、どういう依頼です?」
 私は舞台に近付き、彼女を見上げながら訊ねた。
「今日も写真小説をお願いしたいんです」
「ウタテさんのですか」
 ウタテは困ったように首を横に振ると、「あなた自身の」と歌うときよりも若干低い声で言った。
 私の、と自分に指を差して首を傾げると、ウタテは「そう」と頷いて踵を返し、ピアノに向かい合って腰かけた。
「あれから、あなたの空白が気になって仕方がないんです。だから今日は、それを埋めてもらいたいと思って」
 私の空白、と外に出ることを恐れているのか、口の中で転がし弄ぶように言葉にすると、腕を組んで俯き考え込み、やがて顔を上げて、照明に照らされて細かな光の粒子を放つようなウタテの微笑に向かって、「やりましょう」とはっきり頷いてみせた。
 どんな依頼であれ、依頼人が必要とするのならば、書く。それが写真小説家だ。
 写真小説は、果たして私自身の空白を埋めることに資するだろうか。
『ウタテは私に目配せすると、ピアノを弾き始めた。彼女の白く華奢な指はなるほど、ギターよりもピアノの方が似合うかもしれない。奏でられた曲はクラシックでも、ジャズでもなく、子どもが元気な声で歌うような童謡だった。鍵盤の上を音と戯れるように走るウタテの指は軽やかで、彼女の慈愛に満ちた微笑みは音の子どもたちが遊ぶのを見守る心優しい母親のようだった。私よりも年下の彼女に、私はどこか母の面影を見て、そして次の瞬間にその面影は妻の横顔に変わった。』
 妻は春斗が五歳の夏、自ら命を絶った。彼女が生活に、自分の人生に抱いていた絶望を、私は見て見ぬふりをして、「知らなかった」という言い訳の蓋をして封じ込め、すべてを彼女に委ねてきてしまった。
 あの頃私は不動産会社の営業で、方々を飛び回って家のことなど顧みず、ひたすら仕事に打ち込んでいた。だがそれはしたくてそうしていたのではなく、春斗と向き合うことが怖かったこともあるし、妻の不満に付き合わされるのにも辟易していたからだった。
 妻は将来有望な小説家だった。今は珍しいことに現役の作家の下について創作の修行をし、その師匠からも太鼓判を押されるほどの腕前だったが、私は自分の忙しさを言い訳にして家事育児のすべてを彼女に押し付けた結果、彼女は小説と向き合うことができないほど疲弊し、書くことのできない自分に苛立ち、話し合いの機会をもとうとしない私に絶望し、そして春斗を残し、死を選んだ。
「あなたの目には何が見えているの? わたし? 春斗? いいえ違う。あなたの目にはあなたしか映っていない」
 妻の遺書にはそう書いてあった。本来なら見えないはずの自分自身を見ようとして、妻や春斗を見ながら、真に見つめていたのは彼女らではなく、彼女たちの瞳に映ったわずかばかりの私の像を追っていたのだ。
 私は力なくその場の椅子に倒れるように座り、ウタテの姿を書こうとした。だが、手が震えて一文たりとも書くことができなかった。震える手を握りしめ、止めようと試みても震えは増すばかりで、静まることを知らない。
「あなたを否定してはだめです。後悔はしてもいい。それはあなたの一部だから。でも、否定してはだめ」
 ウタテはピアノを奏でながら、童謡を口ずさむ。澄んだ歌声が、小川のせせらぎのようにステージから流れ出し、ホールを巡る。その朗らかだが凛とした声は私の耳を通じて、岩のように頑なだった心に染み渡り、解きほぐした。
『ウタテのピアノが一音一音走るたび、一つ一つの歌声が流れるたび、ステージの上には幼稚園生くらいの子どもたちが現れた。彼らは幻影のように儚く透けてこそいたものの、確かにそこにいるように感じられた。彼らの無垢で元気な歌声がウタテの美しい声を押し流し、ピアノの音色とせめぎ合った。それは心地よい競争だった。ウタテの月光のように儚くも美しい微笑と、子どもたちの太陽のような笑顔。それらは互いに光を返し合って、一つの演奏を作り上げようとしていた。』
 私は震えて乱雑になる字でそう写真小説を書き殴り、顔をウタテからステージの子どもたちに向けて、はっと息を飲んだ。
 そこには、かつての春斗が並んで、懸命に歌っていたのだ。これは私の追憶の映像なのだろうか、と思って、私は春斗の発表会になど、一度も出たことがないことを思い出した。必ず行くと約束した幼稚園最後の発表会も、急な出張が入り行けなくなった。
 なら、この春斗の幻影はなんであろうか。ウタテが見せている幻?
 私は立ち上がり、ステージの上へとよじ登った。春斗の前に立つと、幻影の彼は私の存在に気づいて顔を上げてじっと見つめながらも、大きな口を開けて歌を歌っていた。
「春斗は父親に来て欲しかった。もう母親はいないのだから」
 幻影の春斗は大人びた口調でそう言うと、顔をくしゃくしゃにして幼子らしく目をこすり泣き声をあげた。
「すまない。そうだな。私は妻が命をかけて私の罪を糾弾してもなお、家族に向き合おうとしなかった」
 私は膝を折ってその場に崩れると、幻影に向かって首を垂れた。
「どうして向き合わなかった」
 幻影の春斗は咎めるでもなく、淡々とそう訊ねた。
「私は怖かったんだ。家族という、私じゃない誰かが。私が私じゃない、夫や父親という役割で縛り付けられることが」
――あんたが望んだことだろう。
 舞台の奥の暗闇が溜まったような影から声が響いて、ウタテのピアノが止まる。すると舞台上で生命力に満ち溢れた歌声を披露していた幻影は砂塵のように消え、影から一人の少年が姿を現した。
 春斗。と私は喘ぐように口にした。
 春斗は中学校の制服姿で、ズボンのポケットに手を突っ込んだ姿勢で闇の中から出てくると、無造作に私の前まで歩み寄り、私のことを冷たく見下ろした。
「結婚だっておれが生まれたのだって、あんたが望んだからだろう」
 そうだ、と頷く。
「私も、私が世間一般の夫や父親のように振舞えると信じていたんだ。でもだめだった。私は私で、それ以上でも以下でもない。私という役割しか担えないんだ。夫や父親になろうだなんて、無謀なことだった」
 でも、と私はしゃくりあげながら春斗を見上げ、その顔を見つめる。真っ直ぐな視線に面食らった春斗は慌てて視線を逸らして、頭を掻いた。
「それじゃあおれはどうなるんだよ。勝手に子どもという役割を与えた癖に、放り投げられたおれは」
「そうだ。お前には何の落ち度もないことだ。だから私は、父親という役割をもう一度やり直すチャンスがほしい」
 勝手だな、と春斗は冷笑して肩を竦める。
「結局あんたは自分のことしか考えていないんだ。母さんが死んで、自分が苦しいから父親をやりたいなんて言い出すんだろ? ウタテさん。話しても無駄だよ。この男は何一つ変わっちゃいない」
 ウタテと知り合いなのか、と彼女と春斗を交互に見やると、ウタテはばつが悪そうに苦笑して立っていて、春斗は冷ややかな眼差しで私を見下ろしていた。
「ほら、ウタテさんと知り合いなのも知らなかったろう。おれはね、歌手になりたいと思ってる。だからウタテさんからは歌を、アイチさんからはギターを習ってるんだ」
 まったく知らなかった。習い事をしたいからと月謝の金は渡していたが、何を習っているかまでは知らなかった。そうしたところに関心をもつということが欠落している。それが私の欠点だった。
「そうなんだ。春斗。私はお前のことさえ何一つ知らない。だから、知っていくところから始めたいんだ。お前と話がしたい。一つ一つ、今からじゃ遅いかもしれないが、言葉を積み重ねていきたい、そう思っているんだ」
「おれには話すことなんか……」
 春斗が突っぱねかけるのをウタテが「春斗くん」と優しく諫める。
 春斗は舌打ちすると、「おれは許したわけじゃない」と前置きして、「ウタテさんの顔を立てて、あんたがやり直せるのか、見届けさせてもらうだけだ」と言い捨てて、舞台から飛び降り、客席を突っ切ってホールを出て行く。
「余計なお世話だと思ったけれど」
 ウタテは私の隣に膝を抱えて座る。
「あなたは家族をもったから自分の中に空白を作ってしまった。でも、その空白は家族でないと埋められないんです」
 そうかもしれませんね、と私は目を擦り、ペンを握ってノートに走らせた。
『私は写真小説家だ。目に見えるものも見えないものも、目を逸らさない。写真小説家になるとき、そう決めたのだから。』
 そう書き記して、私はこの小説を結んだ。

〈了〉

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