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イステリトアの空(第1話)

■まえがき

こちらは長編小説の連載になります。
短編が書けなかったときなど、折を見て投稿していきたいと思いますので、よろしければお付き合いください。原稿用紙で400枚の分量です。
一応創作大賞に出そうかと思っているので、それまでには完結する予定です。
それでは、お楽しみください。

■本編

第一章:目狩りと少年

 見晴るかす。僕の好きな言葉だ。響きが柔らかいのに、どこか芯は固く通っているような気がする。
 名前は嫌いだ。冬悟。トーゴ。反対から読んでゴート。ゴートゴト。ゴトゴト。あ、決まった。お前のあだ名はドナドナな。残念ながら、市場に売られましたー。ミシュランマンにそっくりな同級生の、耳に砂を詰め込まれたようなざらざらとした笑い声を思い出す。
 雲がゆっくりと流れている。晴れた空は深く青く、あれが母の教えてくれたウルトラマリンという色なのだろうか、と手を伸ばしてみた。人差し指と中指の間を、トンビが飛んでいく。
 白い巨岩の上に立った。さらさらと砂が零れて岩肌を伝い流れる。昂揚感が僕の血に染み、全身を流れて肉を震わせた。
 僕が、僕だけにしかできないことがある。同級生の誰にも、先生にだって、総理大臣にだってできないことが、僕にはできる。
 岩の上から眼下を望んだ。見渡す限りの野原。その果てに影のような森が見えた。
 野原には竹が大地を破ってにょきにょきと伸びるように、無数の巨岩が柱のように林立していた。巨岩は小さいものでも僕の身長くらいはあり、大きいものになると見上げるほどだった。白い巨岩は小さく、黒い巨岩は大きいように見えた。
 僕の肩に乗った金色の獣、相棒のキテンが喉をごろごろと鳴らした。
 キテンは体の大きさは子猫のようだったし、仕草も猫らしさを感じるが、猫ではないのだと、目狩りのおじさんは言っていた。確かに言われてみれば、キテンの顔は猫よりも流線形で、精悍な顔立ちをしているし、陽光を浴びて金色に輝く体毛をもった猫を、僕は知らない。
「キテン。僕は一体何なんだろう」
 キテンはつぶらな瞳でじっと僕を見た。首を二、三度左右に傾げ、しっぽをぴんと天に向けて張って伸び上がり、大きな口を開けてあくびをした。それはさながら、「さあね。僕が知るわけないだろ」と呆れ混じりに答えたように見えた。
 今日誕生日を迎えたばかりの十歳の少年。学校の成績は可もなく不可もなく。小さい上にひょろひょろで、一年生と間違えられることがある。母さんは死んだ。強盗に襲われて、暗い路地裏で苦しみながら息を引き取った。そう信じていた。
 母さんはいつの頃からか新興宗教にはまっていた。その宗教は「この世の縁をすべて捨てた先に人間は完成し、幸福の領域に辿り着ける」という教えで、信者に金という名の縁を捨てさせ、教団に寄付を強いているという怪しげな集団だった。母さんの言動がおかしくなってきた、と感じたときには、母さんはその教団の教祖に祭り上げられていて、僕なんかではどうしようもない状態になっていた。
 家の中には、万病に効くという怪しげな霊水(味は単なるミネラルウォーターだった)や、教団の歴史や教えをまとめた教本。そしてなぜか教団が推奨している赤い皿や赤いグラスなどの食器で溢れた。
 教団の教えに神はいなかった。いつか世界はすべての縁を捨て去った「空(くう)の人間」だけが生きられる世界の果てに辿り着くことになるため、その日に備えて修行をし、適応できるようにしておかなければ滅ぶだけだという。
 ちんぷんかんぷんな教えだったけれど、僕にとって真理だったのは、教団は優しかった母さんを奪ったということだ。母さんの死は、警察は強盗も教団を恨みに思っている人間の偽装ではないか、と考えているらしかった。
 父さんは母さんの思い出から逃れるように「新天地へ」とスローガンを掲げて父さんの出身である田舎に引っ越した。思い出したように弁護士バッヂをつけ、あちこち駆け回って働き始めていた。ばっかじゃないの、と僕は冷ややかにそれを見ていた。
 東京から引っ越してきたせいで、村を馬鹿にしている、と難癖をつけられ、机に落書きをされたり、教科書を破られたり、靴箱の中に死んだねずみを入れられたりする。先生は助けてくれない。蔑んだ目で僕を見下ろして、「お前が悪い」と決めつける。そのみじめな少年が僕だ。
 だが、それは昨日までの僕だ。これまでの僕が見ていた世界なんてものは、世界とも呼べないちっぽけなもので、奴らのいじめなんて相手にするほどのものでもなかった。都会と田舎、そんな歪んだコンプレックスに満ちたものの見方しかできない卑小な人間なんて、僕は相手にしていられない。
「行こうか、キテン」
 ひらりと岩から飛び降りた。着地して、ぬるりと苔で足が滑る。転びはしなかったものの、心臓がどきどきしていた。ヒーローは間抜けに転んだりはしない。テレビ画面の中のヒーローたちは、どんな高いところからでも飛び降りてみせ、格好よく着地する。
 立てかけておいたつるはしを、僕の身長よりも大きなつるはしを持ち上げ、肩に担ぐ。重いが担げないほどじゃない。目狩りのおじさんは言っていた。「そのつるはしはなあ、持つ人間によって重さが変わる。初めは重いかもしれんが、使っていればやがて羽のような軽さになる」
 キテンが喉を鳴らす。さっきは甘えて鳴らしていたが、今度は違う。モスキート音のような高周波音を発し、やがてちりちりと火が爆ぜるような音を舌で鳴らして、ジェット機が空を切り裂いて飛ぶような声で吼えた。
「ここだね」
 目の前には小さな泉が広がっていた。魚が一尾、泳いでいた。鱗が虹色に輝いて見えた。
 僕は濡れることも厭わず、泉の中へと足を踏み入れ、水をかき分け進んだ。そしてやがてたどり着く。
 巨大な黒い岩の柱。まるで何かの墓標のようだ。
 つるはしを高々と振り上げる。歌を口ずさむ。「ピアノマン」、教えてもらった歌だ。家ではクラシック以外は聴いてはいけなかったし、学校では決まりきった歌しか歌わない。今はもう遊びに行くことは禁止されてしまったけれど、同じクラスのサヤカちゃんの家で、「ピアノマン」を聴いた。わたしはピアノガールね、とウインクして、サヤカちゃんはショパンの「子犬のワルツ」を弾いてくれた。途中とちることもあったが、彼女は弾き終えた。僕が多少大仰なほどに拍手をすると、恥ずかしそうにはにかんだ。
 「ピアノマン」、この曲は掛け値なしに好きだ。
 僕はつるはしを振り下ろした。キテンが鳴いた。


 泥が目いっぱい詰められたスニーカーを見て、怒りが湧くより先に感心してしまった。いじめなんて面倒で徒労なことを、よく続けるものだと。もちろん憤る気持ちはある。だけど、たかが嫌がらせのために、自分の手を汚すのは、滑稽ですらある。多分、手を汚したのは命じられた、哀れな次の被害者予備軍だろうけど。
 泥を掻き出し、一番近い水飲み場で洗った。オレンジのネットに入って蛇口にぶら下がっていた固形石鹸で汚れを落とし、転がっていたたわしで擦った。泥が混じった茶色の水が排水溝にどんどん飲み込まれていく。排水溝はくぐもった獣のような声を上げる。
 黒地に、両側面に白の曲線が二本ずつ描かれ、靴紐も黒だけれども、紐の中に黄色いラインが走っているのがお気に入りだった。泥を落としてみると、靴紐はずたずたに切り裂かれていたし、中敷きには無数の画鋲が刺さっていた。
 彼らは僕のことが嫌いだ。彼らの目は語っている。自分の家の中に、突然大きなゴキブリが現れたのを見たような、そんな目をしていた。
 なぜ嫌いか。それは僕がよそ者だからだ。彼らが既に築き上げていた鉄鎖の結束の中に、楔を打って崩壊させかねない異端者だからだ。そしてそんな異端者が、こともあろうにクラスの男子からも女子からも好かれる、中心的な存在であるサヤカちゃんと親しくしていることが、彼らは気に食わないのだ。
 サヤカちゃんが気にしない限り、彼らのことは放っておこうと思っていた。だが、あのミシュランマンのようなカナイ(漢字は知らなかったし、知るつもりもない)がある日の下校途中に、路地の真ん中に腕を組んで仁王立ちして待ち構えていて、「サヤカに近づくな、よそ者」と僕の足元に唾を吐きかけた。
 表情を変えずに、「言いたいことはそれだけ」と正面から眼差しを返し、通り過ぎようとすると、猛然と胸ぐらを掴まれ、持ち上げられて足が浮く。ティーシャツの襟元が絞められて首を圧迫する。息ができない。苦しい。
「よそ者め、てめえは猫人間だ。ここから出て行け」
 猫人間ってなんだ? 僕の思考はその言葉にしがみつかれ、働かなくなる。
 カナイは頭に血を上らせ、真っ赤な顔で唾を僕の顔に浴びせながら「猫人間、猫人間」と囃し立てるように繰り返した。
 僕を締め上げていた力をゆっくりと弱めると、足が地に着く。安堵した次の瞬間にはカナイの足のつま先が僕のみぞおちに食い込み、僕の足は地を離れ、体をアスファルトに打ちつけて倒れた。
「さあ、どうすんだよ、よそ者。目狩りにてめえの目を食わせてやろうか」
 カナイは僕の頭を踏みつける。靴底についていた砂利がぱらぱらと僕の顔に降りかかる。目にも入り、思わず両目を瞑る。
 この土地には目狩りと呼ばれる存在がいる。この地を彷徨い歩いて、目をつけた者の眼球を手に持ったつるはしでくり抜いて食らう。ときには亡者からも(恐らくかつて土葬の風習があったので、それが残ってしまっているのだろう)目を奪うという。不老不死の存在で、この土地の出身の校長先生が子どもの頃から老人の姿らしい。
 目狩りの姿を見たことのある者は少ない。けれど、出会えばそれが目狩りだと本能的に分かるという。
「しゃべれないか。それなら、こうしたらしゃべるか」
 腹を強かに蹴られ、肺に溜まっていた空気がすべて出て行ってしまったように感じられて、体が宙を浮いて転がる。痛みを堪えていると、今度は背中を蹴られる。腹、背中、腹、背中。繰り返し蹴られ続け、最早悲鳴を上げることもままならない。
「あ。なんだこれ」
 カナイは落ちていた一枚の紙片を拾い上げて眺める。僕は慌ててポケットの中を探る。ない。入れておいたはずなのに。僕の勇気のお守り。戦隊ヒーロー、リーダーのレッドのシール。
 嘲りに満ちた目で僕を眺めると、「戦隊ヒーローかよ。ガキっぽいな」とにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
 カナイはシールを真っ二つに破ると、さらに細かく千切り続け、空に向かって放った。
 シールの残骸はひらりひらりと花吹雪のように舞い落ちる。いつか母さんと見た、公園の桜を思い出した。象の形をした滑り台、ブランコ、鉄棒に砂場。ステレオタイプな公園。その西側の端に、大きな桜の木があった。
 記憶の中で僕は母さんと手を繋ぎ、ほうと感心している目の前で風が吹き、枝々が震えて木の葉がさんざめき、小川のせせらぎを思わせた。
 母さんの手は汗ばんでいた。今になってみると震えていたようにさえ思う。それはまるで何かに抗っているかのように。見上げると、困ったように笑って、「どこかここじゃない場所へ行きたいね」と問いかけるように言った。
 僕は不貞腐れながらこう言った。「いいよ。どうせどこにも行けないもん」。この日は本来遊園地に連れて行ってもらう約束だった。だが父の仕事で行けなかった。そんな子どもながらの失望がそんな言葉を言わせてしまった。
 あのときの母さんの、唯一つ掴まっていた細い蜘蛛の糸を切られてしまったような、諦観に満ちた表情は忘れられない。そしてそうしてしまったのが自分だと思うと、後悔と怒りが渦巻いてつむじ風のように心に吹き荒れる。
 母さんはその日から消えた。人格にオンオフのスイッチがあるように、家に帰った瞬間母さんはそれまでの母さんではなくなった。「やはり空(くう)でなくては」と口走り、僕のことなど目に入らないかのように無視をして、新興宗教にのめり込むようになった。
 暴力の嵐が過ぎ去るのを待っている。痛みに耐えながら。カナイの高笑いが響き渡る。彼は無残にもばらばらになったヒーローのシールの残骸を見下ろし、愉悦に浸っている。
 それに一矢報いることすら、僕にはできない。腹が痛い。起き上がろうと頭をもたげると、ぐらぐらと揺れ、浮遊感と痛みが同時に襲ってくる。
 痛みに耐えながら起き上がろうともがき、まばたきをした次の瞬間、カナイの後ろに人が立っていた。いつの間に近づいてきたのだろうか。まったく気が付かなかった。カナイは気づいていない。
 その人物は大柄で、クラスで一番大きいカナイでもその人物のお腹の辺りまでしかない。だが腕や足は細く、ひょろりとしている。モスグリーンのつなぎを着ていて、ところどころ色が薄くなっていてまだら模様になっていた。随分と着古しているらしい。頭には緑の羽飾りがついたカンカン帽を被っていて、真っ白で長く、みっしりとしたひげは冬の森を思わせ、口や鼻の頭を覆い隠していた。目は明るい黄色で、暗闇の中で光る猫の目のようだ。けどとろんとどこか夢見たようなところがあった。老人のように見えるが、肌つやは老人のそれでないように思える。
 手にはつるはしを持っていた。だけど、僕が昔絵本で見たドワーフが持っていたものとは少し違っていて、何より柄の部分が槍のように長くて、頭部の部分もそれに比例して長い。つるはしというよりは、死神の鎌のようだった。頭部は錆び切っていて、本来の用をなさないように見えた。
 カナイも背後の違和感に気付いたのか、弾かれたように振り返って、後ろにいる者を視認して慌てて飛びずさろうとして足がもつれ、無様に尻もちをついた。
「め、め、目狩り」
 目狩りと呼ばれた老人は言葉を発さず、ただじいっとカナイを見つめた。
「お、おれの目を取ったって美味くない」
 悲鳴にも似た甲高い声で叫ぶカナイの言葉を断ち切るように、目狩りはつるはしの柄頭を道路に打ちつける。錆がぱらぱらと粉雪のように落ちる。
「お前さん、猫人間と言ったか?」
 目狩りはずいっとカナイの顔を覗き込む。カナイは短い悲鳴を上げた。
「猫人間は恐ろしいぞお。猫人間に善人はおらん。悪い心の人間が猫人間になる。だから猫人間を見つけたら」
 目狩りはそこまで言って言葉を切り、カナイの目を無心に見つめ、やがて言った。
「首を斬って、目を抉り出すのよ」
 言葉にならない言葉を叫んで、カナイはほうほうの体で逃げ出す。ズボンが濡れて染みになっているのが分かった。一万円もしたんだぜ、と鼻高々だった御自慢のズボンも、あれじゃあ台無しだなと思った。
 目狩りは琥珀色の目で僕をじっと見る。だがふっと魂が抜けたように虚ろな目になると、踵を返して立ち去ろうとする。待って、と僕は反射的にそう叫んでしまっていた。
「おじさんが目狩り、なの。どうして僕を」
 目狩りのおじさんは振り向いて、僕を見ているようで見ていないような曖昧な目つきで、口をもごもごとさせる。
「ぼうずは片桐のところの倅だな。おやじさんは大変だろう。帰ってきたはいいが、この村にゃあ弁護士を必要とする人間はおりはせん」
 目狩りのおじさんの言うとおりだった。僕は唖然としてしげしげと彼を眺める。確かに世俗を超越したような雰囲気を纏っている。だがそれが、みなが恐れるような悪しきものだとは思えないのだった。
 父さんは弁護士だ。都会にいた頃は、民事裁判の弁護ではちょっと知られた存在だったらしい。離婚調停だとか、遺産相続だとか。だがこの村に居ては依頼が入らないので、市街地まで出て行って、先輩の弁護士事務所に雇ってもらって、何とか生計を維持していた。夜帰ってくると冷蔵庫からビールを出してその場で飲み干し、その日の不愉快事を一方的に僕にまくしたて、満足するとソファに横になって鼾をかき始める。僕は父さんが眠ったのを確認すると、近所に住んでいる従姉の楓(かえで)さんが作ってくれた夕食を温めて食べる。食べたら洗い物をして、宿題を済ませて父に毛布を掛けてやって、僕も寝る。
「お前さんの目には暗闇が見える。木の洞のような、がらんどうの闇だ」
 ふうむ、と目狩りのおじさんは顎髭を擦りながら僕をしげしげと眺めると、「これも運命なのかもしれんな」と呟いて眩しそうな眼をした。
 ついておいで、と言うとつるはしを杖代わりにしながら歩いて行く。
 知らない人にはついて行ってはいけません。親や学校から叩き込まれた、常識。それも人かそうでないかも不明な怪しい存在について行くなど、愚か以外の何ものでもないだろう。でも、彼の誘いには魔性の吸引力があった。
 気づけば僕は、目狩りのおじさんの後ろを歩いていた。やっぱり帰ろう、という考えは頭になかった。
 やがて人家もまばらになり、切り株が置かれた曲がり角が見えてくる。
 切り株はアスファルトを破って根を張っているかのように揺さぶっても蹴ってもびくともしない。切り口は濡れていると錯覚するほど瑞々しく、鋭利な刃物を用いて一太刀で両断したかのようだった。
「わしは仕事の時間以外はこの切り株に座って、村を眺めとる。ここからなら、村の隅々まで見えるのでな」
 僕は試しに座って眺めてみた。草むらとフェンス、それからちらほらと家が見える以外、何も見えなかった。
「何も見えないじゃん」
「ほっほ。ぼうずにはまだ見えんよ。わしはそこに座って塩むすびを食べるのが何よりの楽しみでな。何も入れん塩むすびよ。それが一番うまい」
 目狩りのおじさんは笑い声をあげて、切り株の道の先に進んで行く。
 しばらく進むと舗装された道路が突然途切れ、草木の中に辛うじて道だと判別できるような跡がついただけの獣道が伸びていた。
 その街と山林の切り替わりの地点の唐突さは、小さい頃よく遊んだブロック遊びを思い出させた。違う種類のブロックを混ぜて遊んだとき(親がその辺り不精だったので、種類など関係なくごちゃ混ぜで片付けていた)によくあることだが、ある地点まで西洋風の建物なのに、突然和風の調度品が侵入してくる。いわば外見は教会なのに、パイプオルガンの代わりに仏像が鎮座しているようなものだ。
 見失わないよう懸命に目狩りのおじさんを追い駆ける。けれど彼は僕がついてこられるように歩く速さを調節していたし、距離が開いてしまったときには待っていてくれた。
 獣道はぐねぐねとのたうつ蛇のように曲がりくねっていて、平坦ではなく、上ったり下りたり忙しない道だった。そこを彼は息一つ切らさず、悠々と歩いて行く。
「もうすぐだ、頑張れぼうず」
 随分前を歩いていると思った彼が、隣を歩いていた。僕は俯きがちな顔を上げて、力強く「はい」と答えた。
 しばらくすると、木々が途切れ、開けた空間に出た。色とりどりの花が咲き乱れ、前方には真っ白な岩壁があり、そこを水が一筋の稲妻のように流れ落ち、滝になっていた。滝が注いだ先は泉となり、日光を受けて星を散りばめたようにきらきらと光っていた。泉のすぐ傍には丸太を組み上げたログハウス風の小屋があった。空間を包む周囲の木々では様々な鳥が歌を奏で、空を舞い泳ぎ、遊んでいた。
「怪我の具合を見てやる。それから茶でも飲んでいけ」
 小屋に入るとベッドに寝かされ、目狩りのおじさんが腹や足腰など、丹念に確認する。彼の手は老いた木のように節くれだってごつごつして分厚く、指は短い。
「ふむ。打撲くらいで、骨には異常なさそうだな」
 彼は立ち上がると、湯呑に湯を注いで戻ってきて、一つを僕に差し出した。「薬草茶だ。飲めば気分がすっきりする」
 恐々深い森のような暗緑色の液体が波打つそれを受け取り、部屋の真ん中にあるテーブルについた。目狩りのおじさんも向かい合うように腰かけた。
 茶には抵抗感があったが、口をつけないのは失礼だし、目狩りのおじさんも落胆するだろうと思って、そっと口をつけて啜った。
 見た目に相違して、苦みはほとんどなかった。すっきりとした爽快感があり、後に残らない。続けてもう一口飲むと顔を上げて、「あなたが目狩りなんですか」と震える声で訊ねた。
「そうだ。まあ、百年くらい前は普通の人間だったがなあ」
 「百年」は、僕にとって「とっても長い」と同義だ。想像のつかない数字と言っていい。
「どうして目狩りになったの。目狩りって何」
 目狩りのおじさんは体を揺すって笑った。豪快に茶を一気に飲み干すと、腕で濡れた口を拭って、大きく息を吐いた。
「なかなかまあ、肝が座ったぼうずだ。ま、それぐらいでないとな。目狩りとは何か。それは儂にも分からん。いずれは河童や天狗のように化生の者として語られるようになるのだろうな。まあ、河童の後輩みたいなものだと思っておけばいい」
 不意に扉を細いもので引っ掻いたり叩いたりしている音が聞こえた。目狩りのおじさんもそれに気づいて、腰を上げると入口の扉を開けた。
 一匹の獣がするすると入り込んで僕の背中を駆けのぼり、頭から跳んでテーブルに着地すると、籠の中の葡萄を一粒くわえて飛び降り、目狩りのおじさんの足元で葡萄をかじった。あまりにも速くて、僕には金色の風が走ったようにしか見えなかった。
「こいつはキテンだ。儂の仕事の相棒みたいなもんだな」
 暖炉の中で揺らめく炎さえ反射しそうな金色で滑らかな体毛をもち、深い海を内包したような瑠璃色の目は何でも見通しそうな気がした。大きさは子猫くらいだが、顔つきはどちらかというと犬、狼に似ているように思えたが、狼ともまた違って耳が長い。僕にはキテンと呼ばれた獣がなんなのか、とんと分からなかった。
 猫ですか、と問うと「いいや、キテンだ」という答えが返ってくるが、僕はキテンなる動物を知らない。図鑑を読むのが好きだったけれど、その中にはこんな動物はいなかった。
「キテンはキテンだ。キテンの他にキテンはいない。唯一無二の存在、それがキテンだ」
 よく分からなかったけれど、とりあえず頷いた。それを見た目狩りのおじさんは「げはは」という笑い声を上げて仰け反った。
 キテンは葡萄を平らげると、目狩りのおじさんの足をよじ登って膝の上に飛び乗り、身を横たえて前足でしきりに顔を拭っていた。
「それで、儂が目狩りになった理由だったな。聞きたいか? 随分と長い話になるが」
 僕は薬草茶を啜って頷いた。「まあ、よかろう」と目狩りのおじさんも鷹揚に頷いて、居住まいを正した。
「今から百年以上前だ。儂は軍人で、シベリアにいた。厳しい土地だった。極寒の中、雪中の行軍だ。ついて行けずに死ぬ者もいた。一度落伍すればそれは死を意味した。落伍者を助けるような余裕をもった者は一人もいなかったからだ。昨日故郷の話をし合った男がついて行けず、次の日には倒れて雪に埋もれていく。そんなことはざらだった」
 百年前にたとえ若者だったとしても軍人だったのなら、今一体何歳なのか。百歳を超えてもこんな頑健な老人がいるだろうか。今年九十九になる近所の小太郎じいさんは痴呆がひどくてもう息子も孫も分からない。ほとんど寝たきりの状態だ。それが普通じゃないのか。
 目狩りのおじさんはキテンの背中をゆっくりと、たおやかな手つきで撫でた。キテンもされるがままに任せていて、気持ちよさそうに体を丸めて目を瞑っていた。
 目狩りのおじさんは語り始めた。

(続く)

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