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イステリトアの空(第3話)

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■本編

 春洋には三つ年の離れた弟がいた。にいちゃん、にいちゃんとにこにこしながら彼の後を常について歩くような愛嬌のある子だったが、どれだけ学んでも文字を読んだり書いたりすることができず、学校の勉強には落ちこぼれていたことから、級友には馬鹿にされ、上級生からはいじめられて悪事の片棒を担がされて、結局その罪を全部押し付けられて馬鹿を見る、というような弟だった。
「勉強はまったくできませんでしたが、馬鹿だとは小生には思えなかったのです。弟はどこか、我々が見ているとは違う、別の世界を見ているんじゃないかと、そう思わされることがありました」
 弟は家にある蔵が好きで、よくそこに籠っていた。あんな埃っぽいところによくいられるなと春洋は感心半分呆れ半分で見ていたが、蔵で見つけたのか、ある日を境に弟は美しい黒い数珠を腕に巻くようになった。
 弟はある日、村に起こる事故を予見し、一つの家族の命を救った。
 それから弟の異能はすぐに村の長老たちの知るところとなり、弟のために大きな祭壇のある、立派な屋敷が作られた。弟は「目使い様」と呼ばれて崇めたてられるようになった。
 弟は自然の声を聴き、作物の凶作豊作を告げたり、土砂崩れの起きそうな場所を指摘したりして、自然による、本来避けようのない被害を回避し、村ではそれこそ神仏のような扱いを受けていた。道を歩けば行き会った村人は道を開けて手を合わせ、屋敷には村の中からは勿論、隣の村からも貢物はひっきりなしに届いた。弟は学校に通うこともなくなってしまったので、春洋は学校から帰ると友だちとも遊ばず、その日学校であった出来事を話して聞かせていた。
「にいちゃん。死の風が吹くよ」
 ある日祭壇に祀られた仏像で遊んでいた弟が突然真剣な顔で振り返り、春洋にそう告げた。
 その夏は台風による被害もほとんどなく、思い出したように雨が降る日もあったが、大した雨量ではなく、からりとした晴天が続いていた。
「死の風。台風か? そんな気配はないが……」
「ううん。違う。邪悪なものが、村に入り込んで、人を殺していく」
「邪悪なもの。それは人間なのか」
 弟が不安そうな眼差しで頷くのを見て、春洋は長老たちのところに走った。長老たちは話を聞くとすぐに村の男たちを集め、村の境界を見張らせ、村に三軒ある宿を検めた。
 弟の評判は村の外にも広まっており、隣村はおろか、遠く離れた県から来る巡礼も多かった。三軒ある宿は常にいっぱいで、村の中は来訪者で溢れていた。
 宿の台帳と巡礼本人を照合し、怪しい人間をあぶり出そうとしたが、これが容易ではなかった。巡礼たちの中には村の中を見て回って所在がはっきりしないものもいたし、そもそも何をもって怪しいとするのか、駆け回る男たちにも分からなかった。
 それでも陽が沈む頃にはほぼすべての来訪者の所在が明らかになっていた。
 その夜、村外れに住んでいた大工の三郎の一家が惨殺された。発見したのは三郎の酒飲み友だちの村役場の出納係だった。
 出納係はその日仕事で嫌なことがあり、憂さを晴らそうと三郎を飲みに誘おうとした。三郎の家に辿り着くと、入口の戸板が外れて、中の灯りが漏れている。土間には白い手のようなものが覗いており、出納係は尋常でない、背筋を凍らせるような妖しい気配を感じて、離れたところから三郎の名を呼んだ。
 返事はなかった。震える声でもう一度呼ぶと、がたんと何かが動く音がしたがすぐにまた痛いほどの静寂に包まれた。
「おうい、三郎やい、いたら返事してくれい」
 出納係がもう一度呼ぶと、黒い影が入口から飛び出して、西の方に走り去った。影は跳ぶように十メートルほど行くと、ぴたりと静止し、振り返った。出納係は振り返った影の顔が、人の顔ほどの大きさの猫の顔であることに気づき、言葉にならない悲鳴を上げてその場に尻もちをついた。
 影は悲鳴を厭うように走り出すと、夜の闇に溶けて消えて行った。
 悲鳴を聞いて駆けつけた、酒飲み友だちの渡し舟屋が助け起こすと、出納係は繰り返しこう訴えた。
「ありゃあ猫人間だ。間違いない。猫人間が戻ってきた」
「まさか。猫人間は宝永の頃に討伐されたはずだが」
「生き返ったのよ! ああ、くわばらくわばら。すぐに追えば、捕まえられるかもしれん。いや、そうだ。三郎はどうしてる」
 出納係は腰が抜けて立ち上がれないので、渡し舟屋が恐る恐る近づいて行き、そっと家の中を覗き込んだ。
「こりゃあひでえ」
 渡し舟屋は目の前の光景と充満した生温い血の臭いに吐き気を覚え、口を押えた。
 家の中は凄惨を極めていた。三郎とその妻、十二になる息子と六つの娘がいたはずだが、死体がその四人のものなのか、それともそれ以外の誰かが交じっているのか、渡し舟屋には即座に判断できなかった。それほどひどい有様だった。
「目使い様の言うとおりだったな」
 すぐにやってきた村で唯一の医者の小川は現場を見てそう零した。
 小川は村の出身ではない。何年か前にどこかからふらりと流れてきて、怪我人や病人を診るようになった。医者としての腕は確かだったし、温和な気性ながらも肝が据わっていて、あっという間に村人の信用を得た。治療の報酬として金を要求せず、食べ物や着物など、現物で何かくれればいいという姿勢も好感を得た。
 己は先祖に倣って医者になった。医者としての在り方も、先祖に倣おうと思ってな、と語って快活そうに笑ったことがある。
「本当に猫人間が戻ってきたんですかね」
 渡し舟屋の問いに、小川はため息を吐いて首を振った。
「分からん。けどもしそうだとしたら、我々にはどうしようもない」
「一方的に殺されろと言うんですかい」
「まだ猫人間の仕業と決まったわけではない」
 小川は土間に転がっていた誰かの腕を持ち上げると切断された肉の断面をじいっと見つめた。それを置くと中に上がり、床机の上に横たわった腕を持ち上げて見つめる。
「やはりそうか。おい、こいつを見てみい」
 小川に手招きされて、及び腰になっていた渡し舟屋は抜き足差し足で中に入ってくる。
「恐らくそっちの腕は早い段階で斬られたのだろう。切断面が淀みなくきれいに両断されている。だが、こっちの一本は違う。恐らく一太刀では斬れなかったのだな、もう一度斬り直したのか切断面がずれている」
 要領を得ないのか、渡し舟屋は首を捻る。
「つまりだな。切れ味の落ちた、刃こぼれした刃物で斬られたのではないかということだ。人の体には骨などの固い部位がある。それを斬り続ければ、いかな名刀でも切れ味は落ちていくものだ。この所業が妖によってなされたものならば、みな均一に斬られたのではないかな」
「では、あくまで人の手によるものだと」
 渡し舟屋は興奮して小川に詰め寄る。
「推測に過ぎんがな。だが、もし人の手によるものだったとしても、そいつは怪物のような心をもった奴に違いない」
 小川は遅れて駆けつけた駐在と助手によくよく言い含めると、すぐに目使い様の屋敷へと向かった。
 屋敷は煌々と明かりが灯され、外門に二人、内門に二人屈強な村の男たちが立って見張りをしていた。物々しい雰囲気が一帯には立ち込めていた。
「はて。事件のことがもう耳に入っているのか」
 訝しく思いながら長い廊下を歩いていると、尋常小学校の教師であり、村で唯一の剣道場の師範である山吹(やまぶき)とすれ違った。
「随分厳重な警護ですな。事件のことがもう報告されたのですか」
「事件? ははあ、やはり何事か起こりましたか。我らは目使い様に何事かあってはと詰めていたのです」
 では、失敬。と山吹は武芸者らしく凛とした仕草で一礼すると、するすると廊下を去って行った。
 目使い様は夜半のことであったが、起きていた。小川は参上するとすぐに三郎の一家に起きた事件を報告した。
 うんうんと頷きながら聞いていると、目使い様はおもむろに口を開いて、「猫人間の仕業ではないよ。でも、下手人は猫人間のことをよく知っている」と悲しそうに言った。「まだ、人死には止まない」
「先生、お疲れ様でした。先生は今の内に体を休めてください。明日から、恐らく忙しくなります」
 目使い様の兄である春洋は、それまでじっと黙って控えていたが、そう告げると自ら小川を玄関まで送って行き、深く頭を下げて見送った。
 翌日から村を挙げての捜索隊が編成された。三郎の一家を惨殺し逃げた犯人の捜索と、村を訪問していた中で怪しい三人組の捜索隊とに分けて、早朝から行われた。
 現場の三郎宅から犯人に繋がるものは発見できず、周囲にも何ら遺留品はなかった。一方で怪しい三人組はすぐに見つかった。宿で朝飯を食べ、部屋にまだ留まっていた。
 三人組の捜索に加わっていた小川は、宿の女将に「昨日は確かにいなかったのだな」と念押しに確認した。
「へえ。夕食の後すぐに眠るから部屋には近寄るなと言われまして。でもいい西瓜を譲ってもらいましてね。もし起きていらしったらいかがかと思って部屋に伺いました。明かりが消えていれば引き返すつもりで。でも」
「明かりが点いていた」
「そうです。だから声をかけてみたんです。でもお返事がなくて。何かあったら大変ですから、そうっと部屋を覗いてみたんです。そうしたら、誰もおりませんでした。三人分の座布団だけが空っぽで置かれてて、窓が開いて冷たい風が入って、旦那様方の持ち物でしょうか、薄い帳面のようなものが捲れておりました」
 小川はううむ、と顎を擦りながら唸った。
「先生。三人とも武器と思われるようなものは持っていないようです。ですが万一のことがあります。おれの後ろにお下がりください。これでも腕に自信はあります」
 春洋は山吹の道場でも、大人さえ打ち負かす腕前だった。村中探しても春洋に敵うものは師範である山吹を含め、五指に満たなかった。小川も山吹から荒事ならば春洋に任せれば、そうは遅れをとるまいと太鼓判を押されていたので、頷いて下がった。
 前に出て、春洋は部屋の襖に手をかける。触れると同時に、中から「遠慮はいらん。入りたまえ」という口調こそ穏やかであるが、どこか鋭さを秘めた冷たい声に、春洋と小川は顔を見合わせる。
 失礼します、と声を発すると一思いに襖を開ける。相手は三人。どこからどう飛びかかられても対応できるよう、春洋は神経を巡らせる。
「ほう。随分と若い客だ。だが、愉快な要件ではないようですな。剣呑な顔をしておる」
 正面に座った一番若い、白皙の青年が涼しい顔で言う。男たちは三角形の頂点を描くように座っていた。向かって左手の男はもっとも大柄で巌のような体つきをしている。顔には十字を描くように二筋の傷がある。平静な顔をしているが、気が張りつめているのが春洋には分かった。恐らく武芸者で、真ん中の男の護衛だろう。右手側の男は小柄で猫背なことも相まって、鼠を連想させた。泥臭い顔立ちに反して、手指は白く美しい。剣を取ったことなどまずないだろうと思った。この男は三郎一家殺しには関わっていないと思った。
 真ん中の男は測り難かった。貴公子然とした顔立ちで、まだ若いだろうに動じている気配はない。屈強な男のように気を張り詰めているのでもない。鷹揚に両手を広げて、さあ、来るならば来るがよいと微笑んでいるように思える。春洋にはそれが鈍感なゆえではなく、蛇が蛙を前にしたときのような、絶対的強者の余裕のように思えた。
「どうせ問われるだろうから先に名乗っておきましょう。私は長曾根。文部省の者です。隣の二人は私の同僚です」
 中央の名前が出てきて、部屋の入口に詰めかけていた面々に動揺が走った。その空気を見てとって、小川が口を挟んだ。
「中央のお役人が、こんな辺境の土地になんの御用ですかな。わざわざ文部省の方が視察に来られるものなど、何もないと思いますが」
 長曾根は小川に怜悧な流し目をくれると、小川が怯んだのを見て柔和な笑顔を浮かべた。
「私の任務は文部大臣の柴田様から直々に下されたもの。そう申し上げれば、仔細を説明できない事情も理解してもらえましょう」
 取り囲んでいた男たちはうっと言葉に詰まる。政府など遠い彼方の存在で、日頃は政府がなんだという気概で生きていても、いざ目の前にちらつかされると怖気づく。
「この村で殺しがありました。三郎の一家が皆殺しです。長曾根様は聞き及んでおられますか」
 小川が息を飲んで切り出す。長曾根は相変わらずうっすらと笑みを浮かべたまま首を振った。
「いいえ、初耳ですね。山根殿と岩田殿はどうです」
「知りませんな」と山根は侮蔑した笑みを浮かべながら言った。
「生憎と、それがしも初めて聞き申した」、岩田は静かに首を振った。
 山根と岩田と呼ばれた二人も、嘘を吐いている様子はなかった。春洋は油断なく三人の所作や表情を見定めていたが、山根と岩田はともかく、長曾根からは何も読めなかった。手強い、と額に汗を滲ませていると、「まあ、そういうことです。お役に立てず申し訳ありません」と長曾根が肩を竦める。
「その大工一家はどのように殺されていたのでしょうか」と長曾根は小川に訊ねる。
「凄惨極まりないやり口です。盗賊とて、ここまで残忍にはやりますまい」と前置きした上で、昨夜の現場の様子を掻い摘んで説明した。
「そのような大それた仕事、一人でこなしたとは思えませんね」
 長曾根は腕を組んで頷きながら言う。
「私も長曾根様と同じ意見です」
 小川が同意すると、長曾根の目がきらりと光った。意地の悪い嗜虐的な笑みが口元に浮かぶ。
「なるほど。だからですか。謎の三人組の我々を、下手人だと疑っているわけですね」
 長曾根が手を打ちながら納得しているのを、山根は媚びへつらうような目で見ていて、岩田は苦々しい顔をして俯いていた。
「い、いや、けっして左様なことは」
 小川は狼狽してしどろもどろ否定する。村の男たちはおろおろとしながら動静を見守っていた。
 この中で怯んでいないのは春洋だけだった。まだ子どもで政など分からぬ、というだけではなかった。春洋は自分の体の中の、それこそ髪の毛の一本に至るまでが目の前の男に対して警鐘を鳴らしているのを感じていた。ここで怯み、後退すれば取り返しがつかないと。
 春洋が一睨みすると、鼠顔の男はひっと悲鳴をあげて仰け反って、「童、無礼ではないか。今すぐお前を牢屋にぶち込んでやることだって、我らにはできるのだぞ」と上擦った声でせいぜい虚勢を張ってみせた。
「山根殿。品位を欠いた振舞いはいかがなものでしょう。私たちを安っぽく見せるだけではありませんか」
 長曾根は微笑を湛えながら言ったが、目は笑っていなかった。声にも白刃のような鋭さがある。
「私たちとしては、任務の遂行にご協力いただければ幸いなのです。なに、難しいことではありません。この村での私たちの仕事を黙認していただくこと。それさえ願えれば他には何もいりません」
 分かりました、と小川は頷く。「村長には伝えておきましょう」
 感謝いたします、と長曾根は軽く頭を下げると、「一つお伺いしたいのですが」と顔は小川に向けつつ、春洋に意識を配りながら訊ねる。春洋にもそのぴりぴりした嫌な感覚は伝わった。相手の気勢を削ぐつもりであえて素知らぬ振りをしていなしたが、それすら相手の術中のようで、粘りつく不快さは拭えなかった。
「この村に国宗家という家はあるでしょうか」
 春洋の背筋を冷たい汗が滑り落ちる。この男、何を探ろうとしている?
「ありませんな。いや、かつてはありましたと言うべきでしょうかな」
 長曾根の問いに小川がすかさず答える。
「ほう。家は断絶したと」
 然り、と小川は頷く。
「記録によれば、天保の大飢饉の折、貯蔵していた食料を村人に解放したことが徒となり、山向こうを根城にしていた山賊が食料を求めて殺到したそうです。国宗家は一族郎党皆殺しとなり、家は途絶え、土地は廃れました」
「惨いことを。では、国宗の血を引く者はもういないのですね」
 小川の頬を汗が流れ落ちる。「左様」と力強く頷いて見せる。
「けどよ、小川先生」
 渡し舟屋が何か言いかけるのを、小川は肘で脇腹を小突いて慌てて止める。
 なにか、と長曾根は小首を傾げる。
「いいえ。なんでもありませぬ。お役目に我らの微力が役立つことがあれば、なんなりとお申し付けください」
「ははは。ありがとうございます。ですが、なるべくみなさんにご迷惑はおかけしないつもりですので、お気遣いなく」
 では、と小川が一礼して辞したのを皮きりに男たちはぞろぞろと下がっていく。春洋は最後まで残り、失礼いたします、と襖を閉めようと手を掛ける。
「君、いい手をしている。それに私を前にしてその気迫だ。あと十年もすれば一角の使い手になれるだろう。いずれ戦争は起きる。先の戦争で我らの強さは世界に知れ渡った。列強といえども、軽んじることはできないはずだ。次の戦争で我らは列強と肩を並べ、東の雄として大きく羽ばたく時期に差し掛かっている。君もそのとき若き力として皇国の支えとなることだろう」
 いい手、と言われて春洋は自然と長曾根の手を眺めた。右手の人差し指に銀の指輪をしている。幅が一センチ強はありそうな太く武骨な指輪で、人の目のような文様が刻まれている面妖な指輪だった。
 男にしては珍しいな、と思った。村では結婚している者でも指輪をしている人間はいない。小川先生にしてもそうだ。
 春洋は「御教示いただき感謝いたします」と頭を下げた上で、正面から揺るぎない眼差しを長曾根にぶつけた。
「岩田殿もお強いが、長曾根様はそれ以上でいらっしゃいますね。剣の腕は勿論ですが、洞察力が図抜けております。三郎、と名前を聞いただけで、大工の三郎だと見抜いてみせる慧眼は、まさに神がかったものと言えましょう」
 春洋の言葉に、それまで余裕の仮面をけっして脱がなかった長曾根が初めて素顔を見せた。ほんの刹那ほどの間だったが、覗かせた悪意は黒よりもなお黒いものだった。岩田も顔を上げ、しげしげと長曾根の顔を見つめている。
 長曾根は口を開きかけていたが、それを聞いてはならない、と春洋はすぐに襖を閉め、その場を離れた。

〈続く〉

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