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イステリトアの空(第2話)

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■本編

 儂らの任務、それは胸糞悪い任務だった。進軍路の途上にある村を襲い、老人から女子供に至るまで、すべての住人を皆殺しにする、それが任務だった。胸糞悪いが、情けをかければこちらの命が危なかった。住人の中には武装したゲリラのような集団が紛れていることもあってな。情けをかけた途端ズドンと頭を撃ち抜かれることもある。見た目には区別がつかんからな。殲滅するしかなかった。精鋭で名高かった小隊の隊長が、一人の少年に情けをかけたために撃ち殺された話は仲間内では有名じゃった。儂は今でも忘れんよ。赤子の命だけは助けてほしいと泣き叫ぶ親子の命を奪ったことを。子どもの死を見ないで済むよう、母親から殺してやることだけが、儂にかけられるせめてもの慈悲だった。
 だが、銃を構えたとき、部隊の隊長が儂の隣に立って言った。
「子どもから撃て」
 儂はほとんど反射的に「何故です」と問うていた。そしてゆっくりと頭を巡らせ、隊長の顔を眺めた。どこか爬虫類じみたところを感じさせる顔だった。病弱な書生のように青白い顔に、殺戮による怨嗟の声が甘美な交響曲だとでもいうかのように、抑えきれない愉悦が滲み出て、口角を微かに上げていた。
「敵は絶望の中で死ぬことこそ意味がある。どうせその女は子どもだけでも助けてくれと訴えているのだろう。敵の望みを叶えてやることは利敵行為であり、皇国に対する裏切りである。正しく絶望を与えてやるために、疾く、子どもを撃て」
 子どもはほんの赤子で、まだ半年かそこらにしかならなかった。母親の腕の中で泣き叫んでいた。母親は懸命に「この子だけは」と繰り返していた。敵国の言葉など、分からなければよかった。そうすれば、良心の呵責など感じずに済んだかもしれない。
 ロシアとはいずれ戦争になる。敵を知るためにも、言葉を覚えておくことは悪くない、と広瀬少佐殿はかすかに微笑みながら言っていた。儂もそれに倣ったわけだが。
 隊長は儂が敵国の言葉が分かるのも、儂には国に残してきた生まれたばかりの子どもがいることも知っていた。知っていて、子どもを殺せと命じていたのだ。彼の唇は歓喜に震え、目は興奮のため見開かれていた。
「なぜ撃たん。貴様、皇国の御旗に泥を塗る気か」
 儂は顔を親子に向けると、内心で二歳年下の隊長に対して「威張るしか能のない、若造が」と毒づいて引き金に指をかけた。
 許せよ、そう呟いて儂は引き金を引いた。
 銃弾は母親の胸を貫いて、後方の木壁に突き刺さった。過たず心臓を射抜いたのか、母親は苦しみの声を上げることなく即死し、赤子を守るように覆いかぶさって倒れた。
「貴様、どういうつもりだ。命令に従わないなら、懲罰ものだぞ」
「狙いを外しました。別に敵を助けたわけではありません、隊長殿」
 隊長は憤怒に顔を真っ赤に染めて、儂の頬を平手で強かに打った。極寒のせいで感覚が麻痺していて、平手は蚊に刺されたほども痛くなかった。
「貴様の射撃の腕は知っている。この距離で外すことはありえまい。わざとでもない限りは」
「撃った本人が外したと主張しております。それがわざとだったかどうか、どのように証明しますか、隊長殿」
 貴様、と隊長が激昂して声を上げた。そこへ最年長の隊員で、日露戦争にも従軍して、秋山参謀の下で働いていた経験のある男が駆け寄ってきて、「隊長に確認していただきたいものが」と隊長を連れて行った。隊長は渋い顔をしていたが、「子どもも始末しておけよ」と言い残して踵を返して行った。
 赤子は殺したくなかった。だが、赤子一人生き永らえさせたところで、守り育てるものがいなければ野垂れ死ぬだけだ。それにもし誰かがやってきて育て、生かしたところで、その子は我々に対する怒りや憎しみを糧にどす黒い影のような怪物を心中に育て、いつの日にか儂の子や孫を食らい、飲み込まないとも限らない。そうした禍根を断つための殲滅戦なのだ。
 だがやはり、儂はその子を殺せなかった。折角この地上に生まれて、一年も経たずに命を奪われるなど、哀れでしかなかった。
 儂は隊長や部隊員が宿舎として使っていた豪農の屋敷からなるべく離れた家の地下室にその子を隠した。玄関の扉にナイフでその土地の言葉で、「地下室に赤子がいる」と書き残して、何食わぬ顔で部隊の中に戻った。寒さや飢えでどれくらい生きられるか分からないが、それが儂にできる精一杯だった。
 その日、ある家の倉庫から大量のワインが発見されたということで、夕食時に振舞われた。目の前に置かれた真紅のワインは、母親の血を思わせて、口をつける気にはならなかった。戦闘員も、非戦闘員も何人も殺してきて、そんな気分になったのは初めてだった。
 干し肉を齧って、気を紛らわせた。咀嚼して顎を動かしていると、塩っ辛い味に意識が引き寄せられた。
 隊長はグラスを片手に、顔をワインよりも赤く染めて、「諸君、注目!」と上擦った声で叫び、テーブルの上の料理を薙ぎ倒しながらそこに立った。
「我々の中に、皇国の崇高な使命を解さぬ不届きものがいる」
 隊長はワインを一息に飲み干すと、足元に叩きつけてグラスを割った。
 「おい、持ってこい」と命じると、傍に控えていた隊員が一度外に出て、白い布の被せられた藤籠のバスケットを運んできて、隊長の足元に置いた。
「諸君、これがその証拠である」
 隊長はそう言って白い布を取り去り、籠の中から何かを引っ張り上げて掲げた。儂はすんでのところで叫び声を上げるところだった。
 隊長が掲げていたのは、儂が隠した赤子だった。足を掴まれ、両手はだらりと下に垂れている。額には黒い銃創があり、目は半ば白目を向いていて、最早命がないのは明らかだった。着ていた産着などすべて剥ぎ取られ、鶏を吊るすように晒し者にする所業は、人を獣と同列に扱い、尊厳をひどく傷つける卑劣な行為だった。
「私はある隊員にこの子どもを殺すよう命じた。だが、彼は殺すことを拒んだどころか、この赤子を隠して生き延びさせようと試みた。この振舞いが利敵行為でなくてなんであろうか。しかし、私は寛大な男だ。祖国から遠く離れたこの地で彼を罰するのは忍びない。ゆえに今ひと時の猶予を彼に与えることにするが、我々が本国に帰還した折には、この問題をしかるべく処罰することこそが、清廉に戦う諸君らへの礼儀であると考える」
 隊長はちらりと儂を見た。その目と口元には残忍な喜びが浮かんでいた。
 それからいくつかの村を蹂躙して進軍したが、ある村を殲滅した後、先遣隊からの情報を待つためその村に駐留することになった。先も見えない吹雪などの悪天候も相まって、儂らは足止めを余儀なくされた。留まって一週間ほど経った頃だったか、儂はある男と立哨、まあ、いわゆる見張りだな。それに立つことになった。
 男と儂は妙に気が合ってな。まあまるでこれまでも友であったかのような気の合い方であったよ。
 男は春洋と名乗った。出身を訊いたが、儂の知らぬ土地だった。帝大を出ていて、物書きの真似事のようなことをして、何かを書き捨てては懐の金を酒に変えてふらふらと世の中を彷徨していたが、この度のシベリアへの出兵を聞き及び、自分の身を正すよい機会だと手を挙げた。
 儂と春洋は入口に焚かれた篝火で暖を取りながら、白い息を吐いてはそれが闇に溶けていくのを眺め、ぽつりぽつりと言葉を交わした。
「小生は十五のとき、初めて人を斬りました」
 春洋はじっと揺らめく焔を見つめた。儂も倣わねばならぬ気がして、同じように見つめた。
 すると春洋は淡々とした口調で己の過去を語り始めた。なにせ百年も前のことだ。春洋が語った通りとはいかんが、まあ、聞け。

〈続く〉

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