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本音(仮題)

noteの通知で「11月30日までに投稿すると、連続投稿を2ヶ月に伸ばせます」と言われたので、しょうがねえなと思いながら書いている。
結局なんていうか、コンプレックスなんだと、最近いろいろ考えてて思った。自分が読書、小説、文学に触れているのは。
そこそこの大学をバカみたいな理由で中退して、で結局バカみたいな理由も叶えられなくて、しがない仕事しかしてなくて、だから何かアイデンティティというか、唯一でも縋れるとこが、ない知恵でも知った顔出来るように、文学を読んでるんだと、そう思った。
けどまあTwitterのフォロワーは俺より文学を小説を「読める」人だらけだし、現代詩や批評評論まで読む人もいる。俺のない知恵じゃ到底読めないもの。
となるとますますコンプレックスは高まり、自分には手に負えないだろう海外文学を頑張って読もうとしたり。面白そうだから読んでみたい興味と、コンプレックスから手に取るのと、半々かも。
もしTwitterもやめて、今までの読書会で会った本好きとも疎遠になって、本なんか読まない友人だけとつるむようになったら、このコンプレックスはそのうち無くなるのかもしれん。
だけども、周りに本好きが居なくて寂しかったから、読書のアカウント作ったわけだし、読書会にも行くようになったわけで。
井の中の蛙だったころは単純に趣味で、今はその意味合いも変わってしまったのかもしれん。
選書に読書量に勝ち負けはないんだけども、いい読み方はあると思うし、それに近づくためにはいろんな本を読むしかないんだと思うけど、どうしても好きなジャンルにしか目が行かないだよね。
だから結局、自分の読書はあくまで趣味の読書に留まるわけだ。
趣味の読書してる人間がどれだけの創作が出来るかねえ?
もうずっと書いてない。いや別に書くのは義務じゃないから別にいいけど、そうやって逃げてる感じもあるしな。
毎年出てくる新人賞作家は新しいもの、しかもその人にしか書けない新しいものを持ってくる。そこには裏付けになる読書があるんだろな。読書だけじゃないかもしれんが。
一回新人賞出して満足しちゃってんだよなあ。で、予選落ちだから才能がないとか決め込んでよお。
少し前まで仲間内では小説が上手いと思いこんでたツケっすわ。でもTwitterの読書猛者たちの前には出しにくいんだよ。バレるから。
こんな人生打開するには一発当てないと、ってのは文学の小説の使い方として間違ってますか?もっと文学小説は崇高ですか?
アイドル好きだけど、純文学読んでますって顔を友人にしてたけど、読書の界隈はアニメマンガ映画様々なジャンルに精通している人が多いから、君はアイドルも純文も好きなんだ、だから?って話よね。
マジコンプレックスの塊、そもそも俺は頭ワリー、知ったふりして謝りもしねー、クソ小心の嘘つきフェイク野郎、自分で自分に手を下だそう、Zeebraのラインをサンプリング、こりゃ公開処刑、いや公開懺悔、本音の一つも吐いてみやがれ。

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