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『むらさきのスカートの女』に関する幾つかの考察

近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性が気になって仕方のない〈わたし〉は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場に誘導し……。第161回芥川賞受賞作。

『むらさきのスカートの女』(朝日文庫)内容紹介より

 先日参加した読書会の課題本が、今村夏子の『むらさきのスカートの女』だった。今回、参加に際して初めて読んだが、小説の持つ「奇妙さ」に引き込まれた。一読して感じたこと、その後考えたことを以下にまとめていきたい。

〈わたし〉と「むらさきのスカートの女」

 語り手である〈わたし〉は「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性の行動や顔の造形について事細かに観察しており、読み始めて思ったのは、〈わたし〉と「むらさきのスカートの女」は同一人物なのではないか、ということだった。「むらさきのスカートの女」に対して、〈わたし〉は「黄色いカーディガンの女」を自称する。

 この「カーディガン」と「スカート」が、女性の「上半身」と「下半身」を示しているのではないか、と思ったのだ。ある女性が意識の中で、自分自身について客観的に観察しているもう一人の自分を作り出し、そいつに語らせている、と考えた。なので〈わたし〉が「むらさきのスカートの女」の事細かな行動や顔の造形まで知っていて当然なのだと、なぜならそれは自分自身のことなのだから。

 しかしながら読み進めていくと、〈わたし〉と「むらさきのスカートの女」がハッキリと別人なのだということが分かる。〈わたし〉はホテルの客室清掃の仕事をしている「権藤」で、「むらさきのスカートの女」は〈わたし〉が誘導した自身の職場で働くことになり、そこで「日野まゆ子」と名乗る。それ以降は明確に〈わたし〉と「むらさきのスカートの女」は別人であるという認識で読み進めて行ったが、〈わたし〉が語る「むらさきのスカートの女」がすべて「日野まゆ子」のことではないように思えた。

 やはりどこかには〈わたし〉=「むらさきのスカートの女」の構図が離れなくて、「むらさきのスカートの女」を示す事柄の概ねは〈わたし〉自身のことであり、自分自身を客観視して作り上げた架空の存在「むらさきのスカートの女」のひとつの要素として、〈わたし〉の職場に実際にやってきた「日野まゆ子」という人物のエピソードをごちゃ混ぜにしているのではないかと解釈した。なぜ「日野まゆ子」についての細かなエピソードが挿入できるのかと言えば、〈わたし〉が「むらさきのスカートの女」をストーカーのように付きまとって観察しているみたいに、実際に「日野まゆ子」に付きまとっていたからではないか。

 そして物語の序盤で「むらさきのスカートの女」に似ている人物として〈わたし〉の姉やフィギュアスケート選手の女の子、小学校時代の友達めいちゃん、中学時代の同級生有島さん、等々といった人物を羅列していくが、それらは「日野まゆ子」をストーカーしていたように、〈わたし〉が過去に執着して追っかけていた人々なのではないか、と。

〈わたし〉は自分自身の存在に、ターゲットにした人物を織り交ぜた空想を語っている。これが最初に読み終わった時のこの小説に対する解釈だった。この解釈を持って本書の表紙を見てみると、ある意味私の解釈をそのまま書き表したものになっていると感じた。「スカート」から出ている二人のものと思われる四本の足。つまり、ひとつの「スカート」を「二人」で履いているというのは、私の解釈を合致していたのである。

〈わたし〉と「神の視点」

 一読し終わってからも、なんとなくこの小説についてあれこれ思考をめぐらせていると、あることに気がついた。この小説は、一人称〈わたし〉の視点で書かれてはいるけれど、まるで三人称、いわゆる「神の視点」で書かれているように感じたのだ。〈わたし〉は「むらさきのスカートの女」そして「日野まゆ子」について事細かに知っている。それは〈わたし〉がどんなに付きまとっても、その存在を相手にさとられることはないからだ。

 私は先の章で「むらさきのスカートの女」について詳しく書かれているのは、それは〈わたし〉自身のことだからだ、という解釈をしたと書いた。しかし、もしこれがハッキリと別人であるという解釈に基づいて考えていくと、このストーカー行為はまさに異次元のストーカー行為と呼べる。〈わたし〉は「むらさきのスカートの女」と同じバス停からバスに乗り職場に向かっても、「むらさきのスカートの女」と所長の不倫デートを追跡しその会話を間近で聞いていても、〈わたし〉の存在はストーカー相手に気づかれないどころか、無銭飲食すらできる存在の希薄さなのだ。

 小説内でも〈わたし〉である「権藤」は存在感のない人間、周りとは関わりをほとんど持っていない人間とされているが、それはこの〈わたし〉の視点に強引に「神の視点」と同等の語りをさせるための、ある種の弁明のようなものではないかと感じた。この弁明が小説内部における最低限のリアリティラインを担保しているので、違和感は感じるものの、小説が破綻することを押し止めているように感じる。

「現実」と「虚構」

 小説は基本的には著者が作り出したフィクション、虚構なのだけれど、その小説のなかにもしっかりと「現実」と「虚構」は存在していると考える。
二つの章で考えてきたことを整理してみると、私は小説内部における「現実」をどこかに置いて読んでいたことになる。

 最初の章で行った、〈わたし〉は自分自身の存在にターゲットにした人物を織り交ぜた空想を語っている、という解釈では、〈わたし〉という語り手は小説内部に存在する「現実」であり、〈わたし〉の語る「むらさきのスカートの女」それ自体は「虚構」の存在であるという認識である。

 次の章では、〈わたし〉も「むらさきのスカートの女」も別人であるという解釈に基づいて、「一人称」と「神の視点」について考えた。ここでは両者ともに小説内部に存在する「現実」であり、〈わたし〉の「神の視点」にも近い語りはストーカー行為の賜物で、そこにおける不可解な点は、先も指摘した通り、「存在感が希薄である」という弁明によってギリギリ「現実」を支えている。

 そして私が考えたことは、この小説内部にはそもそも「現実」は存在しないのではないか、ということである。すべては著者の頭の中だけで行われた思考実験のようなもので、『むらさきのスカートの女』という小説はとても観念的な小説なのでは、と考えた。小説内部に「現実」が存在していないのであれば、では「現実」の軸は一体どこにあるのか。

すべては「今村夏子」本人説

 この考えのヒントとなったのは文庫巻末に掲載された芥川賞受賞記念エッセイで、「むらさきのスカートの女と、私」と題されたエッセイのなかには、この小説の執筆秘話のようなものが書かれている。

 自宅では執筆が進まない著者が、前作『星の子』を書き上げたときに通っていた行きつけのドトールの、しかもお決まりの席でなら書けるだろうと思い店に向かうのだが、そこの席には知らないスーツの男性が座っていた。その日は諦めて別の席に座ったが、このことが気になってやはり執筆は進まない。翌日もまた同じドトールへ向かったのだが、お決まりの席には昨日のスーツの男性が座っていたのだ。そして著者はこう考え、これが小説の核となった。

「そこ、私の席なんですけど!」心の中で訴えた。「誰か、この人に言ってやってくださいよ!」フロアにいる数人のお客さんの顔を見回すも、誰とも目が合わなかった。
 それからすぐに、主人公を陰から見守る女を登場させることを思いついた。主人公にはお気に入りのベンチがあって、そこに関係のない人が座っていたら、その女がそっと近づき、こう告げるのだ。「すみません、そこ、わたしの友達の席なんですけど」
 あれこれ考えるうちに、この女に語らせることにした。最初の一文、〈わたしは「むらさきのスカートの女」と呼ばれている。〉を〈うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。〉に変えたら、物置小屋の片隅でも、書くことができた。

p170

 つまりこの小説は「もし、自分をどこかから見守っている女性が居たら?」という空想に基づいて書かれたものではないかと思ったのだ。なので小説内部に「現実」を置くことなく、言うなれば「現実」は小説外部の著者自身がその軸を担っているように思う。なので見られている側「むらさきのスカートの女」も、見ている側〈わたし〉も、その源流は今村夏子であり、今村夏子はその両者をさらにその上からのぞき見ながら小説を書いていったのではないか、と。

〈わたし〉が「むらさきのスカートの女」に対して異次元のストーカー行為に及んでも、小説内部に「現実」はないので、「現実」では不可解なことも平気でやってのけることができ、そこに「むらさきのスカートの女」の仔細な情報を書き込むことができるのも、小説外部から「神の視点」で見下ろしている今村夏子が〈わたし〉の視点と偽って語っているからなのではないか、と思ったのだ。

〈わたし〉だけが「虚構」

 小説内部に「現実」はない、としているが、ここまで書き終えて思ったのは、〈わたし〉が見ている人々、「むらさきのスカートの女」やホテルの客室清掃の従業員、公園で遊んでいる子供たち、の方が「現実」であり、〈わたし〉の存在だけが「虚構」であるという見方もできるのではないかと思った。。

 この小説は「もし、自分をどこかから見守っている女性が居たら?」という空想に基づいて書き、小説内部には「現実」が存在しない小説としたが、エッセイに書かれたドトールでの一件で考えると、見られている側(著者)は「現実」なので、そのまま小説に落とし込んでも良いわけだ。そして見ている側(見守る女)を「虚構」の存在として小説を書いていく。

『むらさきのスカートの女』と題されたこの小説は、いかにも「むらさきのスカートの女」が奇妙な存在であると思わされるが、読み進めていくと、〈わたし〉の方が奇妙であることが分かってくる。それは先に指摘している通り、まるで「神の視点」を持っているかのように振る舞っているからなのだが、この「奇妙さ」こそが小説内部で唯一の「虚構」だからなのではないか。

『むらさきのスカートの女』は私たちと地続きにある「現実」の中へ、著者によって放たれた「虚構」のカメラ映像を追っているような小説なのではないか。その「虚構」のカメラが〈わたし〉と名乗り、小説内部に存在する語り手とされているので、実際に私もそうであったように読者は一旦〈わたし〉の語りを信頼して読んでしまう。そして読み進めるうちに「虚構」ならではの奇妙さが現れてくるが、「存在感が希薄である」という物語上の弁明がされるので、著者は読者から注がれる〈わたし〉への疑いの目をわざと反らしているように思う。この〈わたし〉の語り口の奇妙さこそ、この小説の肝なのではないかと思った。

まとめ

 今回は『むらさきのスカートの女』に関する幾つかの考察と題して、私の考えをまとめてみた。考えが右往左往していて、結局のところどれが最終結論なのか、自分でもよく分からない。ただこの『むらさきのスカートの女』という小説は技巧に満ちた小説であると感じていて、今回はその仕組まれているであろう技巧の一端を自分なりに考えてみることができた。暴論振りかざしているかもしれないが、私なりの解釈、考察ということで勘弁して頂きたい。

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