見出し画像

『月と六ペンス』という不思議な小説

はじめに

 いまでは、『月と六ペンス』の面白さを否定する人などまずいない。だが、白状すると、私は『月と六ペンス』を初めて読んだとき、この本にどこか普通と違うところがあるとは少しも思わなかった。
 私は今「面白さ」と言った。そこには物語の起伏や魅力的な登場人物といった要素もあるだろう。しかし、この『月と六ペンス』には何層にも重ねられた「たくらみ」の面白さがある。

 この小説は、作家である語り手「私」が、自身の知るところであり、今では天才画家とされるチャールズ・ストリックランドの生涯を、その出会いからパリでの生活、そしてタヒチで迎えた最期にかけて、自分の記憶と彼と面識のあった人々から聞いた話をもとに書き綴った本、という形を取っている。

 私はこの小説をあまり間隔を開けずに二度読んだ。最初は新潮文庫(金原瑞人訳)で読み、その時は小説の体を成した芸術論といった印象を持った。
その後光文社古典新訳文庫(土屋政雄訳)を読んだのだが、その時にこの小説の持つ「いびつな構造」に気づいた。

※以降作品内容に触れるため、ネタバレを含みます。

いびつな構造

 先ほど書いた通り、この小説は語り手である「私」を通したストリックランドや彼にまつわる人物について書かれている。つまり「私」が見聞きしたことしか書けない構造になっているのだ。

 この小説で大きな焦点になるのは、なぜストリックランドが安定した職業と家庭を捨て、四十歳という年齢から画家を志したのか、という点であろう。「私」はストリックランドにその理由を問いただすが、核心については触れられず、小説の最後までそれは明らかにされない。最初読んだときに私が物足りなさを感じた点だった。

 もし私が、同じ設定で小説を書くとしたら三人称、つまり神の視点を使って書くと思う。ストリックランドの心理を浮き彫りにし、なぜ突然画家を志したのかについて、考えながら書くと思う。だが著者であるモームはそうしなかった。

 ということは、この小説はもとからストリックランドがなぜ画家を志したのかについて、はなから書くつもりはなかったのではないか。作中のストリックランドは頑固で皮肉屋で自分の内面について話すという場面はほとんどない。それに彼がまれに感情を吐露した場面についても、それは「私」がストリックランドの言葉少ない告白を自分なりに解釈して再構成したという注釈が入る。なのでストリックランドの意図する感情と、もしかしたら多少のズレがあるのかもしれない。

 そしてこの「ストリックランドの心理について正確には書けない」という点に対し、43章で「私」はこのような言い訳をはじめる。

 チャールズ・ストリックランドについてここまで書いてきたことを振り返ってみると、自分でも、読者にはきわめて不満足な内容だろうと思う。知るかぎりの出来事はそれなりに記してきたが、それが起こるにいたった経緯を知らないのは、やはりハンデだ。もう一歩踏み込んだ記述ができていない。最大の謎である突然の画家転身も、いまのままでは気まぐれとしか思えない。彼の人生のどこかに理由があるに違いないのに、残念ながらそれが私にはわからない。本人との会話からは何の手がかりも得られなかった。

『月と六ペンス』土屋政雄訳(光文社古典新訳文庫) p.279-280

 モーム自らが決めたであろう「私」という語り手を介在させた小説構造の弱点をモームは「私」に語らせる。私はここにこの小説の「いびつさ」を強く感じた。突然メタフィクションのような様相を呈してくる。この言い訳のあとにはこう続く。

 これが小説なら、この奇妙な人物についての事実を書き連ねるより、むしろ、心変わりの説明になりそうな出来事をいろいろ創作しているところだ。たとえば、少年時代にすでに画家を夢見ていたが、父親の意志で道を閉ざされた。あるいは家が貧しく、家計を支えるために断念した。当然、人生行路に横たわるそうした障害の数々にいらだつ主人公を描くことになる。芸術への情熱と生活苦の板ばさみに苦しむ姿を描いて、読者の胸に主人公への同情を掻き立てることもできよう。

同上 p.280

 この他にも、「夫婦関係のなかにその動機づけを行うこともでき、その場合には展開が十通りは思いつく」と言ったり、「老画家をストリックランドと出会わせ、画家へ道を説かせる」といういかにも小説らしい設定を語ったりする。ある画家の生涯を追う小説のなかで、急に小説論が展開されるこの43章はとても異質に思えてくる。

「語り手」の意味

 私はこの小説を読みながら、この語り手を使った手法に対してずっと疑問を抱いていた。この手法では物語の中心人物であるストリックランドの心理を明確に書くことは出来ず、しかもその手法の弱点を語り手自ら明かすというトリッキーな構成。モームは何がしたかったのか。その疑問に対する解答とも言える解釈が、光文社古典新訳文庫の解説に書かれていた。

 この小説は、独身者である男性作家の語り手が、ある男性芸術家の謎を解き明かしたいとの欲望に衝き動かされて南太平洋まで旅をして、その人物について語る構造をもつ。つまり、自分を惹きつけてやまない理解不可能な他者をみつめ、知ろうとする、そしてその生(ライフ)に寄り添おうとするこの小説は、表面上にはあらわれないけども、じつは同性愛的な眼差しで語られた、隠れた愛の物語であるともいえる。

同上 解説 松本朗 p.415-416

 なぜモームが三人称ではなく語り手(しかも自分と同じ作家)を使ったのか、この解釈はあくまでも理由のひとつに過ぎないのかもしれないが、とても腑に落ちる。解説ではモームが同性愛的指向を持っていたことも指摘されている。破天荒な画家ストリックランドを冷ややかに見つめながら、彼の真相を知ろうとタヒチまでやってくることになる語り手は、天才画家ストリックランドの謎を追い求めたいという欲求のその一つうえに、一種の片想いのようなものがあったのではないか。そしてモームはその「語り手」に自分すらも重ねていたのではないか。2章の最後に語り手である「私」はこう宣言している。「わが楽しみのために書く」と。この「楽しみ」がいったい何を指すのか、そのすべてを理解することは難しいが、その一端を掴むことは出来たのかもしれない。

さいごに

 今回は『月と六ペンス』を読み、自分なりに気づいたこと、考えたことを書いてみた。はじめに書いたように、この小説はいくつかの「たくらみ」が重ねられた小説だと思うし、ここで書いたことはその一部について考えてみただけに過ぎない。この小説にはストリックランドをはじめ、個性の強い人物が出てくる。それら人物一人ひとりの行動や言動について考えてみるのも面白いし、ここでは触れなかったが、小説を通じて現れてくるモームの芸術観について考えてみるのもいいと思う。私のなかで、名前は知っているけど読んだことない小説の上位にいた『月と六ペンス』だったが、今まで小説を読んでもあまり考えたことがなかった作品構造について考えることが出来たので、とてもいい読書になったと思う。

この記事が参加している募集

#読書感想文

187,486件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?