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放置された文章と言い訳

―─昨年の今ごろは文學界新人賞に応募するための小説を書き始めていた。本当は応募するとかそんなつもりはなかった。何となく書き始めたものがそれなりの形になり、内容も極めて低俗、卑猥だったため、仲間うちでやってる文芸サイトにアップするのは躊躇われ、なら応募作として完成させようということにしたのだ。それがこのnoteに、最初にアップした小説、「ポルノグラフィー」だったわけだ。
 他の応募作とは一線を画す奇を衒った小説だと自負していた私は、その意外性から予選は通過するだろうと高を括っていたが、結果は予選落ちだった。
 自分ではそれなりに面白いと思っていたし、応募前に知人に読んでもらい感想を聞くと、好意的な意見をくれた。仲間うちでも小説については自信があったが、世間は甘くない――

 という未完成の文章が下書きとして残されていたわけだが、その日からちょうど一ヶ月経ったようだ。この文章を書いていた日、私は今年の公募小説に向けてのアイディア出しをするためにカフェに入ってリングノートにあれこれ構想を書いていた。それが一段落し、昨年は勢いで書いたが今年はある程度構成やテーマを定めて執筆していこうと思う、という旨の文章をnoteに上げようと思ってスマホでポチポチ打ち込んでいた。
 そして一ヶ月経った今日、私は公募小説を一文字も書けていない。そもそも書く気があるのか、そこから始めなければならない。いや、書く気はある、少なからずは。年一作でもいいから毎年公募には参加していきたいと思ってはいるが、どうも身が入らない。昨年の小説で力尽きた感じはある。それにカフェで書き出した構想も昨年の小説の二番煎じ感が否めない。そもそも私がああ言う内容を書くのが好きというのもあるが。
 蓮實重彦が、小説は向こうからやってくるもの、みたいなことを三島賞受賞会見で言っていたそうだが、それは言い得て妙だと思う。ふと場面を思いつく、ふと文章が湧いてくる、そんなところから小説は始まるのだと思う。そのためには何が必要か。よく読むことか、よく遊ぶことか、よく周りを見ることか。
 ネット上にはポンポンとネタを思いつく方々がいるが、羨ましくも思い、懐疑的にもなる。
 小説が始まる時は近々来るのだろうか。もっともらしいことを書いているが、実際は書かない言い訳をしてるだけだったりして。

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