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春学期8週目 ”home”での豊かな日常とそのエッセイ集

こんにちは、こんばんは、おはようございます。アメリカのアマーストに留学しているさりです。残り2ヶ月。春学期が始まってから日記形式でnoteを書いてきたんだけど、その備忘録は情報量が多くて、まとめるのも読むのも大変だなって感じたので、今週は日記の量を減らして、代わりにちょっと新しいエッセイ形式で書いていこうと思います。


昨日スウェーデンから帰ってきました。今日はお昼まで寝て、昨日食堂からもらってきたご飯を食べながらゆっくり旅の振り返りをしながら過ごします。

日本人らしさとか、エネルギーの使い道とか、スウェーデンでの気づきとか

日付を書くときは、なんとなく全角の漢字がすきだ。日本語の丸みが最近素敵だなと思うようになってきたからかもしれない。パソコンをかたかた打っていると、こっちの友達にキーボードにひらがながあることをよく驚かれる。

時々日本人らしさってなんだろうって話をするんだけど、その度に自分の中の違和感と共感が呼び起こされる。よく言われるのは"shy"という表現。これは、なんとなくオープンであることが良しとされるアメリカの中でちょっとマイナスな雰囲気を醸し出す。その言葉がアメリカ人から出るたびに、「はいはい、clicheですね」と内心思ってしまうんだけど、最近しっくりきた言葉は、アメリカの高校に通った友達がその時に出会った日本人を表現した、「reserved」という言葉だった。人を表現するときは「控えめ」「よそよそしい」という意味を持つみたいなんだけど、レストランの席とかが「予約済み」という意味も持つ。私は後者の意味の方がしっくりきた。なんか、すごくイメージできる。仲良くなった人に、自分のエネルギーを注ぐ。それ以外の人たちには、もしかしたらよそよそしいかもしれないけど、仲良くなったら深く打ち解ける。これって全然マイナスなことではないと思う。

最近スウェーデンに行く機会があって、この傾向はスウェーデン人にも共通していると思った。アメリカであるみたいな、目があったらニコって笑うのとか、知らない人に洋服や雰囲気を誉めるのとかは全くない。バウンダリーがすごくしっかりしている。でも友達とか家族ぐるみの友達とか、一度仲良くなったら末永くて深い交友関係を築く。知らない人にフレンドリーにしないけど、そのエネルギーのベクトルは知ってる人に向かうのだ。この旅の中でも、現地の人にたくさん会いたいと友達にリクエストしていたら、彼らの家に友達と招待してくれて、お酒を飲みながらトランプをしたり、ユーロビジョン(ヨーロッパのそれぞれの国の威信をかけた音楽バトル)を見たりした。スウェーデン人の本音を知りたかったら、一緒にお酒を飲むのがいいらしい。
ただ、完全に見知らぬ人をシャットダウンしているわけではない。知らない人に道案内をお願いした時、十中八九、すごく丁寧に道を教えてくれた。ある人は、(日本在住ノルウェー人インフルエンサーのやばたんみたいな人だったんだけど、)自分のスマホを取り出して、目的地の建物をわざわざ見せてくれた。(その人のスマホバキバキに割れてて、なんか見えちゃいけない系の光が見えてた。)
”reserved”。予約済み。全員にオープンじゃなくてもいいよ。だって突き詰めれば知らない人なんだもん。…確かに。

じゃあ自分はどうかって話になると、私はスウェーデンの人付き合いを、深くて豊かだなと思うと同時に、少し寂しさも感じた。アメリカでは、道端だったとしても、知らない人だとしても、一期一会だとしても、その日のテンションが上がるような言葉に出会うことができる。自分の生きてきた歴史や誇りを表した洋服やバイブスを、他の人が「素敵だね」って伝えることが、とても当たり前なのだ。そういう言葉を伝えるのに、知り合いかどうかはどうでもいいことだと思う。"You made my day."という言葉がすごくすきなんだけど、これは訳すのが難しいんだけど、「あなたのお陰で素敵な一日になった」的なニュアンスだ。「ありがとう」と同じ感じで使える。もちろんそれを言われるのも嬉しいんだけど、私が誰かに言った言葉でその人の一日がより少しでも明るくなるとしたら、私にとってはそれがもっと嬉しい。はるか昔就活をしていた時、ありたい像の一つは、「(生き様やアートを通して)誰かにポジティブな影響を与えられていること」だった。今もそうだ。日本やスウェーデンで道端の人に素敵だねって他意なく言ったら、必要以上に驚かれたりビビられたりしそうだけど、素敵な人がいたら素敵と言いたい、その真っ直ぐさと素直さをそのままでいさせてくれるアメリカの感覚が、今の私はすきだなと思った。

スウェーデンで感じた「ホーム」 横浜とアマースト

私は横浜出身で、幼稚園年少まで何年か海外にいたことはあれど、かれこれ20年弱を横浜で過ごした。だから、頑張った時も失恋した時もなんてことない時も、思い起こすいろんな感情には、横浜の風景がついてくる。席が全然取れないスタバ、よく時間つぶしに使っていたマック、母の日が近くなるとよくウィンドウショッピングをしていたFranc Franc。行き交う電車が見える歩道橋は、落ち込んだ時によく一人で散歩に来ていたけど、最近は仲良い人をよく連れてくる場所になっていた。幼い頃から電車通学だったから近くに住んでいる友達が少ないことが寂しかったけど、最近は近所の友達も増えて、そして遠くても来てくれる友達もできて、住んでいる場所への愛着も増えてきた。でもそのプロセスは受動的なものではなくて、震災のことを学びに旅した仙台で「地縁」に憧れたきっかけから、地元のお祭りのボランティアの世界に飛び込んで、浴衣を着て盆踊りリーダーをやったことからも、徐々に芽生えたものだった。

その地を飛び出して早半年。家族ラインで地元の駅の名前や、よく行ってたお気に入りの豚骨ラーメン屋さんの名前が出るたびに、恋しくはなる。そこで当たり前にあった安心感と自由さ(同時に家族の目という不自由もあったんだけどね)。それでも、アマーストというこの地で、自分で築き上げてきた交友関係、たくさん発見したお気に入りの場所、パーソナリティ。こういうのが集まって、この地に根を張っているという自負と誇りが確かにある。
留学先から海外に旅をして、戻ってくるというのはなんとも不思議な感覚だ。旅先で恋しくなるのは、横浜ではなく、アマーストだった。これは、先学期ご縁があって行かせてもらったルワンダや、冬休みに行ったカナダでも感じたことだった。
寮の、自分の小さな小さな部屋。壁に自分のアートやもらったポストカードを貼って、お洋服や読みたい本があって、自分がいたいだけいれるベッドがある。寮の周りの道を知っていて、でかいリスがいる木や、24時間あいている秘密の研究等も、近道もなんとなくわかっている。バスでダウンタウンへ行けば知り合いが経営しているカフェがあり、お気に入りのミニシアターがある。素でふざけ合える日本人の友達たち。すごく素敵なハグをくれるドミニカ人、優しさの力を知っているウイグル人、夜の海のような目をしているイラン人、鬼クリエイティブなアメリカ人、ダンスで自分を表現できるイカした子。彼らがいる、私が根を張った学生街・アマースト。スウェーデンでふと恋しくなったのは、この地だった。

「将来ホームレスになりそう」から見る、お金を稼ぐことへの不安

私はお金を稼いで生きていくのが下手そうだなと自分でも思う。この留学には二つの奨学金をとってきたわけだけど、俯瞰して見たらマイナスなわけだし、4年間大学に通わせてもらう以上に負担をかけている。周りには自分でお金を稼いで授業料を払っている友達もいるし、難民生活を経て、国と階層を移動してのし上がってきた人もいる。本当に尊敬するとともに、正直自分が温室で育ってきたことにコンプレックスを感じることも多い。この自分の経済的な特権へのコンプレックスは、もっとお金持ちの人への羨ましさとか、自分が経済的に自立するために行動を十分にしていないことへの正当化に行くこともある。どうも行き詰まり感を生んでしまう厄介な感情なのだ。

前に友達と話していて、ポロッといった言葉がある。「自分ホームレスになる気がするんだよね」。ちょっと盛っているかもしれないけど、その背景には、資本主義社会の中で、自分の能力やスキルを市場価値に換算して、自分の時間とマインドセットを会社や市場に捧げることで生活費を稼いでいくことを長期的にやっていけるのか、かなり不安だという意味だ。そして、ボストンやニューヨークでよく目にしたもの。それは駅や道端に眠るホームレスの人たちだった。アパートの家賃や食費が高騰し、公助が崩壊したアメリカで生きることの厳しさを目の当たりにした自分は、ここで生きていくことへの経済的な不安がとても大きい。
その友達はすごく能力が高いし、お金を稼ぐことへの真っ直ぐなマインドセットを持っている人なので、I can help youと言ってブレインストーミングを始めた。私が得意なこと。人の感情に寄り添うこと、人と人を繋ぐこと、アートで感情や考えを表現すること。そしたらその子は、「初回2回は無料であなたの話を聞きます、3回目からはお金を取ります」っていうカウンセリングもどきな商売を薦めてきた。なんか正直「うっ」ってなった。"It sounds a bit evil though.(ちょっと邪悪な感じするけどね)"とその人が締めくくったのに対して、"Very."と笑いながら返すしかなかった。もう一つ、表現が得意なら、本でも出せばいいんじゃない?という提案はしっくりきた。こうして書いているnote記事に、絵を加えて、届けたい人に届いたら、とワクワクした。その友達は続ける。サリはいろんな国に行ったことがあるのなら、そこで学んだことを本にして、日本全国の高校を回ったらいいんじゃない?と。日本の高校生。とても届けたい層かもしれない。どちらの提案にも共通しているのは、自律性だ。自分の伝えたいことを明確にして、それをシャープにして、実行する。「お金を稼ぐこと」への凝り固まった感覚を、一旦ほぐしてもいいんだろうと思った。その自律性を保つには、自分の時間と作業時間をちゃんととって、アウトプットを増やしていく必要がある。どれだけ忙しくなっても、一緒に過ごしたい友達がいても、ちゃんと自分のペースを保ち続けて、自走しなきゃなって。

日常は変化と刺激に満ちている

6時半。友達のバスケの試合に誘われていたので、ちょっと遅れちゃったけど行くか〜と思って図書館でパソコンを閉じたとき。「試合相手がこなかったから不戦勝になった」とラインが入る。「え??」こんなことあるんだなぁ。久しぶりに友達たちに会ったので、夜ご飯を一緒に食べにハンプシャー・ダイニングホールに行く。カナダのケベックで恋に落ちてたんまり食べたプティーン(ポテト料理)に、思いがけず再び会えた。スマホが突然つかなくなって、帰り道必死に再起動を試みた。みんな「(携帯)しんだね」と諦めていたけど、友達がカメラで満月を撮影していた時、ついに携帯が息を吹き返した。「やっったーーー!」と全身で喜ぶ。携帯が使えない状態から、携帯がある状態が訪れた時初めて、携帯のありがたみがわかるのでしょうか。図書館によって11時の閉館まで作業する。男性性と、男性の社会運動に関する個人研究のペーパーを執筆していた。UMassで起きた過去の事件とその後のムーブメントについて少し調査しなければいけないことがあった。割と仲の良い友達のルームメイトが、私がインタビューしたい人を知ってそうだったので、繋いでくれないかとお願いしたら"I gotchu"と引き受けてくれた。かしこまった”インタビュー”をするには、倫理委員会を通さなければいけないからアウトなんだけど、カジュアルな調査はオーラルヒストリーに当てはまるからギリセーフらしい、と教授が教えてくれた。抜け穴だ。2年前にUMassにいた友達に、ライン電話で軽いインタビューもしてみた。fraternityと言われる社交組織で起きた性暴力事件のことで、当時は暴動も伴った大きな騒ぎになったという。その中で、アクティブに発信をしていた男性たちもいたこと、その多くはゲイ男性だったこと。興味深いなぁと思って話していたら、気づいたら哲学の話になっていた。「人を殺して罪悪感持っている人と、人を殺して罪悪感を持っていない人、罪の重さに違いはあるか?」とか、「愛とは何か」「美しさは必ずしも消えてしまうことが前提なのか」とか。その友達と私に共通していたのは、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」が大嫌いということだった。(No offense, Fromm.) 

久々の大勝利:憧れの人とのZoomアポゲット!

めちゃくちゃ話してみたかった男性学の教授・Bob Peaseとzoom callのアポが取れた。それもすごい奇跡で、私が個人研究で読んでいた本の著者である教授が、私が今インターンをしている団体のワーキンググループにいたのだ。その人の本を部屋で眺めていたら、携帯にワーキンググループ向けのGmailの通知が来て、送り主を見てみたら本の表紙と同じ名前だったんだからびっくり。なんてこったパンナコッタ。そっからチキってなかなかメールが送れていなかったんだけど、昨日思い切ってメールを送ってみた。もう一文字一文字のチョイスを迷っちゃって、送るのに30分はかかった。今日朝ジムに行って朝ごはんを食べて、アートビルディングで作業していたら、Bobからメールが入っていた。静かに幸せパニックに入っていた。前同じようにメールを送った時には返事が返ってこなかったからわかりやすくしょげちゃってたんだけど、今回返ってきたのはワーキンググループのパワーか。水曜日の夜になった。思い切り準備して臨むぞ〜

胸熱。夢にまでみたこの瞬間が明後日起こるとは。

(水曜の追記:zoomを無事終え、テンション爆上げです。Bobはおじいちゃんで、朝のルーティンをこなしていたらすっかり忘れていた、と30分遅れでzoomに入ってきました。かわいいかよ。)

You'll need a little more persistance here. 

木曜、HipHopのダンスのクラスが知らない間にキャンセルされ、ショックと有難い感覚に挟まれながら、思いがけず空いた時間を使ってジェンダー研究のオフィスに相談に行った。男性学の研究者・アクティビストとのコネクションの手がかりを探るためだった。コーディネーターのLindaと話していたんだけど、一年だけいる交換留学生ということがとことん伝わらなくて、どうしてジェンダーをメジャーかマイナーにしなかったんだとずっと言われ続け、私の頭の中には”ストレス”の四文字が浮かんでいた。ようやく一年しかいないこと、卒業は日本になることが伝わった時、彼女の私に対する姿勢は大きく変わった。"You've been persistance. That's very good."と言って、さまざまな情報を調べ始めた彼女からは、「あなたこの大学に一年しかいないという意味でたくさんの制限を抱えていて、その中でできることやってるのね。それなら助けてあげよう」というニュアンスを感じた。

交換留学は、とても孤独だ。その大学に自分の学びたいことを教えている教授がその時にいることは珍しいだろう。少なくとも私はよくわからない状態で入ったし、特に自分の学びたい男性学の授業は開講されていないし、それを担当する教授も今いない状態で、全てが手探り、コネクションは自分で作っていかないとニッチもサッチもいかない。春学期初週の履修期間は地獄だった。個人研究という自分でトピックを決めてリサーチペーパーを書く授業・個人研究の枠を発見したはいいものの、担当教授が決まらず、忙しさを理由に6人以上の教授に以上に断られ、「学びたいことが十分に学べない」怖さは、ものすごいストレスだった。今は新たに大学院のプログラムや師事する教授を探す旅に出ていて、それも、この大学にスペシャリストがいない分、芋づる式の最初のツルを掴もうとして、必死にもがいている。

1時間のカジュアルな会話から、Lindaは最終的に元々この大学で働いていて、男性への啓発活動を続け、今は企業や組織に向けたコンサルティングをしているTomを紹介してくれた。ありがてーー。

Frat Guy、インタビューさせてくれ

fratとは、fraternity(フラタニティ)のこと。アメリカの大学の多くには、一緒の家に住んでコミュニティを築きながら、パーティーを毎週末開くフラタニティ(男性)やソロリティ(女性)というのが存在する。特にパーティーカルチャーが根強いこのUMassでは、これらの存在感が強くて、同時に負の文化、レイプカルチャーや時代遅れなジェンダーノームを再生産・強化させている。例えば、とあるフラットパーティーでは、男の子がパーティー会場に入りたかったら、女の子を8人連れてこなきゃいけないという謎ルール(ratio)があったり、2021年、フラットで起きたレイプ事件をもとに、大規模なプロテストが起きて、当該フラットの窓が破られたり車が横転されたりした。こうしたジェンダーにおけるひどい文化や暴力において、大学は十分な措置をとっていない。

そんな中で、先学期興味深いイベントに出くわした。フラットのメンバーが、キャンパスでのレイプカルチャーを変えるために、声を上げていたのだ。NoMoreという性暴力を撲滅するためのキャンペーンに参加しているという。多くの場合、こういうムーブメントに参加するのは女性・性的マイノリティなど、マイノリティ属性を持っている人が大半だ。問題を知らずとも生きていける特権を持っているマジョリティ男性が、どうやって主体的に参加していくのか、私はすごく興味があった。

だからちょっと、賭けに出た。
仲のいい男友達に、この人知ってる?と聞いてみた。すると、彼のルームメイトは、そのフラットのメンバーだという。そこで、そのルームメイトに、インタビューさせてくれないかと聞いてくれとお願いした。そうしたら、友達からそのフラットガイの電話番号が送られてきた。まじか。なんだかぬるっと連絡先をゲットした。超緊張。だって、フラットガイ。教授のオフィスアワーでこのことを話したら、"Get it done, get it done!"と超笑顔で後押しされた。まじか。やるしかないか。できるだけカジュアルに、その人にテキストメッセージを送ってみた。3日間返答なし。あー、やらかした。流石にキモいと思われたか、とか、余計なことを考える。高校生時代を思い出す。いや、研究のためのヘルプをお願いしてるだけやんけ。とか。そのことを、さっき出てきたLindaに話した時、彼女はすごく力をくれる言葉を放った。"Maybe you'll need a little more persistance here. (もう少し粘ってみたらいいかもね)"

テキストへの返事はなかったので、友達が部屋に遊びにきた時にchat GPTと協力して一緒にメールを考えた。幸いUMass関係者のメアドはGmail内で検索したら出てくる。できるだけカジュアルに、コーヒーでも飲みながらどう?みたいな文面を考えて送った。ありがとう、友達。返信きたら、彼が私にDunkin Donutsを奢るという賭けもした。こなかったら、私が彼にご飯を奢ると。(きっとこないだろうという淡い感覚があったから、ちょっとでも楽しもうとしていた。)

二日後。テキストが入る。そのフラットガイからだった!!!さらに空いてる時間まで提示してくれる始末。まーーじか!驚きが止まらなかった。その友達に思わずDMする。"He replied back!!!" まるで恋する高校生。何してんねんとか思いながら、「意外と、粘ってみたら結果出るもんだなぁ」とかしんみりしてくる。人生っておもしれーー。

TomとCraigとのzoom

Lindaに紹介してもらったTom、インターン先のボスに紹介してもらったCraig。今週は、なんと3人の男性学・男性によるアクティビズムのスペシャリストと話す機会があった。充実していると同時に、たくさんの時間と気力を準備に使うので、そりゃ疲れるわ、とも思った。

三つのインタビューから学んだこと。

- ちょっと面白い自己紹介、自分の研究と、その背景、目的を簡潔に話せるスキル大事。
- 事前に聞きたいことをちゃんとリスト化しておくと、話それた時にちゃんと礼儀正しく相手の話を止めることができる。
- 相手の話が終わったターンで、内容の確認を行うこと。英語の壁がある分、その後自分が使う情報がちゃんと合ってるかはしっかりチェックすること。
- お礼のメール、ミーティング中に出てきたいくつかの資料をリクエストするリマインドメールも大事。関係性を続けるために。
- お話を聞きたいとお願いするメールに返信がなかった場合、それもまた、その人はそういう人だというメッセージ。私は、助けてくれる人を探しているわけだから、返信してくれる余裕と姿勢のある人にフォーカスすべし。

自分のメモより

自分の愛情を愛せるか?

最近の自分の中での問いは、「誰かを愛するときに、相手が愛を返してくれるかどうかは、その愛の成立条件になるのか?」だ。友達何人かと話していた時、それぞれ違う意見が出て議論が紛糾した。「見返りを求めない」というのは聞こえがいいけど、時にドロドロし得る、人への執着や期待みたいなものって、人間を人間たらしめるような気もする。愛には痛みが伴うものだと思う。オスカー・ワイルドはこう言っていた。「泣きながら一夜を明かし、涙の中にパンを食べた経験のない者は、まことの愛について語る資格はない」。禅の本は正反対のことを言っているけど、私はちょっと人間臭いくらいの愛論の方が好きだ。
だから、期待しないとか執着しないということではなく、誰かを大事に思うその先にある痛みの可能性にどれだけオープンでいられるか、そしてその痛みも含めて、相手を受け入れられるか、ということなんだと、ゆっくりと腑に落ちていった。

じゃあどうやって痛みも含めた感情の機微に落とし所をつけられるか?それはきっと、自分が誰かを愛する時に自分の中に生まれる、温かさや優しさを抱きしめることの豊かさだ。誰かを愛することができるという確信、その誇り、誰かを大事に思うと同時に、自分も同じように大事にしたいと思えること。それは愛の副産物なんかじゃなく、愛の本質なんじゃないのかな。そういう意味では、強がりでもなんでもなく、愛はその対象からの見返りがなくても成り立つことになる。だからと言って、見返りを求めてはいけないことにはならない。だって、バリデーションはあるに越したことはないから。自分の愛を大事にすることは、自分の中に浮かび上がるニーズや負の感情も、そのままで大事にすることと同義だ。寂しいとか、もっと会いたいとか、関係性に名前をつけたいとか、大事にしてほしいとか。相手が幸せでいてほしいという気持ちと同じくらいに浮かんでくる自分のニーズも含めて、あ〜人とのつながりだなぁと、しみじみと感じ取り、感じ切るのだ。


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